犬になった日

「今日一日、僕は君の下僕になろう」
 両手を広げて高々と宣言された私は、ひらいたばかりのドアを再び閉じた。
 闇に閉ざされた部屋の中で、ひたすら深呼吸を繰り返す。
 すると御手洗が、ドアを壊さんばかりの勢いで叩き始めた。
「石岡君、石岡君!」
 そのあまりの激しさに、私は仕方なく扉を薄く開ける。途端に御手洗は、まるで悪徳セールスのように隙間に足を滑り込ませ、力任せにドアを押し開いた。
「石岡君!」
 勢い込んで眼前に迫られた時、ああ、もうおしまいだ、と思った。これで私の一日は、御手洗の気紛れな思いつきによってつぶされてしまうのか、と。そう思うと、つい今しがた出たばかりのベッドが無性に恋しくなった。同居人のはた迷惑な行動の餌食になるくらいなら、悪夢にうなされているほうがまだマシだ。
「どうして逃げるんだ、石岡君!」
 思わず後ずさっていた私に、御手洗が詰め寄る。しかし朝っぱらからとって喰われそうな勢いで迫られて、どうして逃げずにいられようか。
「石岡君、気紛れや冗談なんかじゃない。僕は本気だ」
「……本気?」
「そうだ、石岡君。掃除・洗濯・食事の支度はもちろん、君が命じるならドブさらいだってしよう。今日一日、君は僕のご主人様だ」
 そう言って御手洗は左胸に手を当て、うやうやしく会釈をする。
 そんな彼を見て、私の中に疑念が沸き上がった。
 もしかして、何かやらかしたのだろうか。
 そう思った途端、今度は青ざめた。彼がここまで私に対して慇懃になるということは、想像もつかないような何かをしでかしたのではなかろうか。
 私は頭を垂れる御手洗を無視して部屋を出た。居間に入ると、まるで嫁の不備をあら探しする姑のように、部屋のあちこちを見回す。しかし、居間には特に変わった様子はなかった。何も壊されていないし、散らかされていない。では御手洗の部屋か、と、私は己の貧困な想像力が及ぶかぎりの最悪の事態を想定した。
 御手洗の部屋に向かう途中で、私はピタリとその足を止めた。居間のある場所に、ようやくひとつの変化を見つけたのだ。それに目を留めた私は、夢でもみているような気分で呆然と立ち尽くす。
 食事用の丸テーブルに、朝食が並んでいた。
 鮭の切り身とおぼしき焼き魚に卵焼き、小皿に盛られた浅漬け、そしてのり。茶碗とお碗が伏せられ、その前には箸が箸置きにのせられている。キッチンからは換気扇の回る音が聞こえ、おそらく味噌汁を作っているものと思われる。
 絵に描いたような和風の食卓である。起きてすぐにセッティングされた朝食がお目見えする光景は、旅館やホテルに泊まった時以外では一体何年ぶりのことだろう。
 ついさっきまで私は眠っていたのだから、自分でこれを用意できたわけがない。魔法で降ってわいたのでもないのなら、この朝食は御手洗が作ったということになる。
 私は恐る恐る彼を振り返った。私と目が合うと、御手洗は得意げな笑みを浮かべる。
「種も仕掛けもないよ。ちょっと早起きをして、手と足を動かしただけさ。君のために作ったんだ、まさか食べないとは言わないよね」
 気の進まない食事を強要するとは、下僕とは思えない台詞である。彼の作った物を口にして、いい思いをしたためしはないというのに。
 何か魂胆があるのかも……という疑惑は消えない。しかし、頷かないわけにもいかなかった。ここでごねたりしたら、一体どんな行動に出られるかわかったものではないのだ。
「さあ、顔を洗ってきたまえ! 僕はその間に味噌汁の仕上げをしようじゃないか!」
 御手洗に背中を押され、私は渋々洗面所に入った。
 今日一日の私の運命は、これで決まったようなものだ。後はなるべく被害を最小限にとどめるべく努力する他はない。
 私は水道のコックをひねりながら、深い溜息をついた。


「さあ召し上がれ」
「……いただきます」
 一応の労をねぎらい、私は手を合わせた。
 できたばかりの味噌汁をじっと見つめる。スタンダードな豆腐とワカメの味噌汁である。ネギもきれいに刻まれて浮いている。色もおかしくはない。
 御手洗はなかなか手を出さない私をじっと見つめている。たかが味噌汁に口をつけるのに、こんなに緊張したのは生まれて初めてだ。しかし……
「あ……おいしい……」
 ひとすすりした途端思わず出た言葉に自分で驚き、そして御手洗は会心の笑みを浮かべた。
「インスタントじゃないぜ。味噌もちゃんとこしたし、豆腐は君がいつもうまいと言っている店から買ってきた絹ごしだ。ワカメもちゃんと生の物を塩抜きして使った」
 奇跡だ。
 以前一度だけ味噌汁を作らせたことがあるのだが、ワカメはどろどろに溶け、豆腐は手でつぶしたように原型をとどめておらず、味は味噌味のお吸い物という最悪の代物だった。それ以来、二度と味噌汁は作らせまいと誓っていたのだが。
「他のおかずもどうぞ。僕にしては上出来だろう?」
 自画自賛だが決して過剰な台詞ではなかった。鮭は消し炭になっていないし、卵焼きも焦げめなく見事に整形されている。格別うまいとは言い難いが、人の食べ物としては十分及第である。浅漬けも塩加減良く歯ごたえも残しており、やはり揉むだけだからと油断して作らせた時のしなびた物に比べたら、猿から人への進化の過程を一足飛びに見る思いである。
 やればできるじゃないか。
 と少々見直す気分になったが、それでも素直に喜ぶことはできなかった。なにしろ御手洗の場合、後が怖い。
 これだけの料理を作るのに、一体どれだけの食材と鍋釜を無駄にしたのだろう。あの衝立の向こうのシンクは、どのような有様になっているのだろうか。
 見るのが怖い気もするが、完璧な朝食の出来にご満悦な御手洗では、そんなことにまで気が回らないはずだ。
 箸を進めつつちらちらとキッチンに視線を送っていた私に、御手洗が口を開いた。
「心配いらないよ。鍋もフライパンも焦がしちゃいない。後片付けも、皿にヒビひとつ入れず完璧にやり遂げてみせるさ。僕にだってそのくらいはできる」
 どれほど思い焦がれた台詞であろう。常に当たり前のように家事の一切を回避してきた男から、こんな台詞を聞ける日が来るとは思わなかった。
 しかし実際に耳にすると、これほど空恐ろしいことはない。
「御手洗」
 私は箸を置いて居住まいを正す。
「一体何の魂胆があってこんなことするんだ」
 思い切って聞いてみた。こんな恐ろしいことを一日続けられたら、私の神経がもたない。
 御手洗は瞬間、目を瞬かせた後、ひどく変な顔をした。
 にやけているようだが決してからかっている様子ではなく、困惑しているようでありながら嬉しそうな……その顔はなんとも表現の仕様がないくらいおかしなものだった。
「魂胆とは心外だな。僕はそんなに信用がないのか」
「家事に関しちゃね」
 私が即座に答えると、御手洗は大仰に溜息をついた。
「日頃の行いを弁解する気は毛頭ないが、たまには信用してくれ。なに、今日一日だけのことだ。君が困るようなことには絶対にしないから、そんなに気を揉む必要はないよ。鷹揚に構えていたまえ。さあ、石岡君! 次は何をしたらいい!? 掃除かい? 洗濯かい? 今日は天気がいいから布団を干そうか!」
「いや、それは、昨日済ませたから……」
 済ませておいて良かったと、心の底から思った。これでとりあえずは物を壊されたり、服をまだら模様にされたり、布団をはるか地上に落とされたりといったことを回避できたわけだ。
 しかし困った。やる気満々の御手洗は、まるで主人の声を今か今かと待つ犬のように、期待に満ちた目で私の命令を待っている。私にとっては何もしないでいてくれるのが最も有り難いのだが、こんな彼の様子を見ていると「何もするな」とは言いにくい。
「そ、そうだな……トイレ掃除がまだだったかな」
 簡単で、何が起こっても周囲に被害が及びにくく、尚かつ御手洗に「自分は役に立っている」と思わせる仕事……と考えて、ようやく思い付いたのがそれだった。トイレ掃除なら、いくら彼が破天荒なことをしてもせいぜい水浸しにされるくらいだ。……おそらく。
 言うには言ったが、さすがにこれは嫌がるかと思った。なにしろ「トイレ掃除」という言葉は、彼にとって嫌な思い出があるのだ。しかしそれならそれで私は一向に構わなかった。これでこの茶番をやめてくれるのならば本望である。
 だが意に反して、御手洗は勢いよく立ち上がった。
「わかった! 任せてくれたまえ!」
 そう叫び、トイレに向かって駆け出そうとするのを、私は慌てて引き止めた。
「し、食事が終わってからでいいから!」
「……ああ、そうだったね、僕としたことが。では食事の後片付けが終わったらトイレ掃除をしよう。大船に乗った気でいたまえ」
 トイレ掃除ごときにそこまで力を入れなくても……とは思ったが、とりあえず大人しく椅子に座ってくれたので、ほっと息を吐く。しかし間髪入れずに「他にも何かすることはないかい!」と身を乗り出されたのには辟易した。
「それは……また、後で頼むから」
 どうやら「御手洗に何か用を言いつける」というのが、私の今日一日の重要課題であるらしい。
 私は懸命に彼にできそうな仕事を頭の中に羅列しながら、息詰まる食事をようよう終えた。


 トイレから聞こえてくる御手洗の歌声をバックに、私は居心地悪くソファーに座っていた。
 掃除用具を出してやった後、開け放たれたドアの外ではらはらしながら様子を見ていたのだが、「気が散る」という御手洗によって居間に追いやられてしまったのだ。
 一体なぜ、御手洗は急にあんなことを言い出したのだろう。彼が突拍子もない行動をとるのはいつものことなのだが、今回ほど恐ろしい気分になったのは初めてだ。
 ご機嫌でトイレ掃除などしているのだから、「下僕になる」というあの台詞はおそらく本気なのだろう。気紛れや冗談なんかじゃないと言うからには、それなりの理由があるはずだ。しかし気を落ち着けて考えてみても、私にはその理由がさっぱり思い付かない。
 食後に入れてくれた緑茶をすすりながら思案していると、チャイムが部屋に鳴り響いた。するとピタリと歌声がやみ、パブロフの犬のごとく、ゴム手袋をはめたまま御手洗がトイレから飛び出してくる。
 私は彼を押しとどめ、トイレ掃除を続けるよう言いつけてから玄関へと向かった。あんな状態の御手洗に出ていかれたら、相手がたいへんな迷惑を被る。もしも事件の依頼だったら、今日はお引き取りいただくしかない。
 重い気を引きずりながらドアを開けると、立っていたのは宅配便の配達員だった。重要な来客でなかったことに安堵し、伝票にサインする。配達員は営業スマイルを顔に張り付けて一礼すると、瞬く間に去っていった。
 後に残されたのは大きな箱がふたつほど。
 送り状の差出人欄を見ると、それは世話になっている出版社からのものだった。品名は小物類。ファンレターなどが時折まとめて送られてくることはあるが、こんな大きな箱で届くことはない。
 中身を確認しようと箱を開きかけた時、今度は電話が鳴った。再び御手洗が駆け出してきたが、やはりそれを押しとどめて自分が電話に出る。タイムリーにもそれは担当編集者からのものだった。お定まりの挨拶をした後、彼はすぐに本題に入る。
「荷物届きましたか?」
「ええ、たった今受け取りましたけど……あれ、一体なんです?」
「プレゼントですよ、読者から届いた」
「プレゼント!? あれ全部ですか!?」
「まだ続々と届いてますよ。とりあえず先に届いた分をお送りしたんですけど」
「なんでまた、そんな急にプレゼントなんて……」
 私が言うと、担当は一瞬の間の後笑い出した。
「やだなあ、忘れてたんですか? 今日は石岡先生の誕生日じゃないですか」
「あ……」
 言われて私は目の前に垂れ下がっているカレンダーを見た。
 10月9日。
 カレンダーの文字を見て、私は初めて今日が自分の誕生日であることを思い出した。起床直後、御手洗に奇抜な宣誓をされたせいで、新聞を出すことすら忘れていた。そのため日付の確認をまったくしていなかったのだ。
 ああ、そうか。
 ここに至って、ようやく私は彼の行動の理由に気がついた。なんの魂胆があるのだと聞いた私に見せた、あの変な顔の理由も。
 そうか、だから下僕なのか。
 そう思うと、笑いがこぼれた。
 おそらくいろいろと考えたに違いない。普段は学者然として小難しいことを考えている彼が、私の誕生日ごときに思い悩む姿を想像すると笑いを誘う。
 物ではない何かを考えてああいった行動を思い付くあたりが、彼らしいではないか。
 担当者との電話を終えると、掃除を済ませた御手洗がトイレから出てきた。確認を求められたので見てみると、完璧なまでに磨かれたトイレがお目見えする。
「うん、綺麗になったね。ありがとう」
 そう言うと、御手洗は子供のように満面の笑みをたたえて喜んだ。
「疲れただろ。お茶をいれるよ」
「いや、僕がいれる。君は座って待っていたまえ」
 先程までは恐怖におののいていた彼のこの行動も、理由がわかると微笑ましい。私は遠慮なく、ソファーに座ってお茶が出てくるのを待つことにした。


「で、次の仕事は考えついたかい?」
 紅茶を飲みながら御手洗が聞いてきたが、彼の言う通り鷹揚な気分になった私は、今度は仕事を言いつけるのに悩む必要はなかった。
「買い物に行こう」
「わかった。それじゃ買う物をリストアップしてくれ」
「いや、僕も一緒に行くから」
 私が言うと、御手洗は眉を上げた。
「そんなに僕は信用がおけないかい? 君に言われたものをカゴに入れてレジに行き、お金を払うだけじゃないか。無駄なお菓子や駄賃の必要がない分、子供よりは役に立つ」
「途中で寄り道したりしなければね」
「……今日の僕は君の下僕だ。ご主人様の言いつけには従うさ」
「うん、だから一緒に買い物に行くんだ。買い物して、昼飯は外で食べよう。そのかわり、夕飯は君が作るんだぜ。これは命令。当然従うよね?」
 私が念を押すと御手洗はようやく渋々と頷き、突如として立ち上がった。そうしてまた左胸に手を置き、深々と頭を垂れる。
「かしこまりました、ご主人様。どうぞ私めを犬とお呼び下さい」


 買い物は食材だけでなく、洋服にまで至った。そしてそれは主に御手洗の物に終始した。彼はいつも糸の飛び出したセーターやかぎ裂きのあるシャツを平気で着て歩く。着る本人は気にしなくても、共に行動することの多い私は非常に恥ずかしい思いをするのだ。
 御手洗との買い物は、いつも非常に苦労を伴う。私があれこれと買い込もうとすると、必要ない、無駄な買い物はするなと口やかましく言う。まともな服を着てくれと言っても「裸で歩かないだけマシだろう」と取り合おうとしないのだ。いっそただの布きれを巻き付けてやろうかという気になる時もある。
 しかし、今日は楽だった。私が選んで持ってくる服に相も変わらず文句はつけていたが、「下僕」のひと言で大人しくなるのだ。御手洗相手に主導権を握ることは滅多にないので、これはたいへん気分が良い。一日かぎりで終わってしまうのがおしいくらいだ。
 予定通り昼食を外でとり、部屋に戻ってから、早速私は買ったばかりの服に着替えさせた。真新しいシャツとズボンに着替えた御手洗を見ると、満足感でいっぱいになる。
「いつもそういう格好をしていたら女性にもてるのに」と言ったら、突然服を脱ぎだして私を慌てさせた。しかし、「そっちのほうが僕も好きだ」と言ったら、今度はいそいそと服を着込む。一体どういう基準なのだろう。
 夕食は豪勢にも肉を焼いてくれた。「ミディアムにするつもりがウェルダンになってしまった」と口惜しそうに御手洗は言っていたが、私には十分美味しかった。なにより高い肉を無駄にせず調理してくれた御手洗に感謝する。
 珍しくワインを飲んだ私は、酔いをさますためにベランダに出た。ついこの間まで残暑が厳しいなどと思っていたはずなのに、近頃では朝晩がめっきり涼しくなっている。次第に透明になっていく空気を肌で感じながら、私は満ち足りた気分で深い溜息をついた。
「風邪引くよ」
 振り向くと、後片付けを終えたのか、御手洗が窓から顔を出していた。
「大丈夫。ほら、君もおいでよ。星が綺麗だよ」
 手招きすると、彼が私の隣に並ぶ。
「ああ、本当だ。ここでこんなに星が見えるのは珍しいね」
「もう秋だからね」
 そう言った後、私たちはしばし黙って星を眺めた。こんなふうに落ち着いた気持ちで星空を眺めるのは、本当に久しぶりのことだ。
「ねえ、御手洗」
「ん?」
「なんで急に下僕なんて言い出したんだ?」
 私が聞くと、御手洗は大きな溜息をついた。
「……意地が悪いな。もうわかっているんだろう?」
「君の口から聞きたいんだ」
 そう言うと、しばし黙り込んだ後、急に私に向き直る。
 彼の目を見つめる。
「君が、生まれた日だから」
 私の肩に手を置く。
「君が喜ぶことを、してあげたかった」
 頬を寄せ、耳にささやきを落とす。
「誕生日おめでとう」
 キスが、頬に降ってくる。
 離れていこうとする御手洗の胸に、私は額を寄せた。
「君はバカだな」
 彼の背中に手を回す。
「そのひと言だけで、僕はうれしいのに」
 ともにこの日を祝ってくれるだけで、それだけで私は幸せなのに。
「そうか……それだけで良かったのか」
「そうだよ」
「僕はバカだな」
「うん、でも……ありがとう」
 背中に回した手に力を込めると、御手洗の腕が柔らかく私を包み込む。
 冷えた空気の中、私は酔いとは違う温もりを感じた。


 彼が犬になった日。
 それはこの世の誰よりも、私が一番幸せになった日……。
(2000/10/09)
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