無二の日常 |
私は他人の度肝を抜く行動はできない。そんな度胸などないし、しようとしてもまず相手に悟られ、うまくいった試しがない。 御手洗の誕生日には、何か驚くことをしでかしてやろうかと考えていた。しかし他人の度肝を抜くことに関してはエキスパートである御手洗相手に、それは到底無理なことだと判断した。だから私は、彼の誕生日が近くなった頃素直に問うたのだ。「何が欲しいか」と。 御手洗は読んでいた海外雑誌から一瞬目を離して私を見たが、すぐに戻し、素っ気なく、 「何でもいい」 と答えた。それが最も厄介で迷惑な答えか、わかって言っているのだろうか。 「それじゃ困るよ。別に物じゃなくてもいいよ。僕の誕生日の時みたいに、僕が君の下僕になったって構わない」 「それはいつものことだろう」 ……下僕扱いしているという自覚はあるわけか。 怒り出したい気持ちをぐっと堪えて、私はさらに食い下がる。 「何でもいいんだ。何かひとつくらいはあるだろう?」 すると御手洗は、うんざりしたように溜息をついた。 「石岡君。そういうことは自分で考えてくれたまえ」 「だって、君の誕生日だろう? いろいろ考えたけど、何をあげたら君が喜ぶかなんてわからないから、聞くほうが早いと思ったんだ。そのほうが間違いもないし」 「楽しみは半減すると思うけどね」 「そうかな? 自分が欲しい物をもらえるんだから、わくわくして待ち遠しくなったりしないかい?」 私などは子供の頃、親に望む物を買ってもらう約束を取り付けると、楽しみでその日が来るまでろくに眠れない夜を過ごしたものだ。しかし反面、親が選んでくれたプレゼントが期待外れだったこともあった。そんな時はもらったほうもそうだが、あげたほうもがっかりしてしまう。そんなことにならないようにと、今聞いているというのに。 御手洗は読むのはあきらめたとばかりに、わざとらしく音を立てて雑誌を閉じた。 「石岡君。君は自分の未来を提示されて、残りの人生を楽しめると思うかい?」 そう言って皮肉げに口元を歪める。 「次元が違うだろ。僕はほんの数日先の、君の誕生日の話をしているだけだ」 「似たようなものさ。今僕が君に誕生日プレゼントを指定したら、少なくとも数日先の未来の楽しみはなくなってしまうんだからね」 「でも、せっかくの誕生日なんだから、何か君が喜ぶことをしてあげたいんだ」 その気持ちは本当だった。毎年のように食事に出掛け、英国酒場でグラスを傾けるだけではなく、たまには何か特別なことをしてやりたかったのだ。私の誕生日に、彼がしてくれたように。 「君がくれる物なら、例え穴の空いた靴下でも飲みかけの紅茶でも喜ぶさ」 それは聞きようによっては大変嬉しい台詞ではあるのだが、御手洗のひどく投げやりな様子に私は少々腹を立てた。 「本当だな? 有名女優のヌード写真集でも、アイドル歌手のコンサートビデオでも、女性用の下着でも、君は喜んでくれるんだな」 「それは君が喜ぶものだろう」 呆れたように言われ、私は撃沈する。 「石岡君。僕は数日後のことよりも、今君に希望することがある」 「……なんだよ?」 「そろそろ夕食の時間だと思うんだけどね」 時計を見ると、既に午後七時を回っていた。 「わかった。とにかく、せめて誕生日までには何か考えておいてくれないか」 私が言うと、御手洗はしばし考え込むような仕草をしてから、 「何かあったらね」 と肩をすくめた。 どうやら期待しないほうがいいらしい。 私は大仰に溜息をつくと、彼の現在の希望に応えるべく、キッチンへと向かった。 十一月二十七日。 朝目覚めると、目の前に御手洗の顔があった。 「おはよう、石岡君」 彼はベッドの端に頬杖をつき、笑顔で言う。 「ん……おはよう……」 掠れた声で返し、寝ぼけまなこを擦り、改めて御手洗の顔を見つめてから、ようやく状況のおかしさに気付く。 「何で君がこんなところにいるんだ!!」 私は慌てて飛び起き、叫んだ。 御手洗が私の部屋に入ってくることはあまりない。それに昨夜は確か、夕食直後に彼のほうが先に暇を告げ、自室に引き上げたはずだ。その彼が、どうして目覚めた私の目の前にいるのだ。 「ようやく起きたね。二時間も前から起きて待ってたんだよ」 「二時間って……」 傍らの目覚まし時計を見ると、時刻は七時三十分を差している。 「五時半に起きたのか?」 「そう。そのために昨夜は早く寝た」 「起きてから、ずっとここに……?」 御手洗は頷いた。 「一体何の目的で!?」 「君が目覚める瞬間を見ようと思ってね」 「はあ!?」 「あれこれ想像していたけど、意外と普通に目覚めるものだね」 「そりゃ君みたいに『あー疲れた』とは言わないよ。……そうじゃなくて。なんだって急にそんなことを思い付くんだ!?」 「君が言ったんじゃないか、何か欲しい物はないかって」 「え? 何? 誕生日プレゼントのこと?」 「君があんまりしつこく聞くから、さすがの僕も三日三晩考えた」 首を傾げる。 昨日までの彼の様子を思い浮かべると、とてもそんなふうには見えなかったが。 「で、思い付いたのかい?」 御手洗は再び頷いた。 だから、私が目覚めるまで待っていたのだろうか。自分が思い付いたプレゼントを、早く私に告げたくて。 そう思うと、目覚めた時の驚きも忘れて内心ほくそ笑んだ。そういう子供っぽいところが、御手洗にはあるのだ。 しかし、私にとっては都合が良い。結局御手洗はどんなに私がしつこく聞いても良い反応を返さず、私も何も思い付かないままに今日を迎えてしまったのだ。彼の望みがどんな物かは知れないが、余程の無理を言われないかぎり、叶える準備はある。 私は掛け布団を抱え込んで、彼に詰め寄った。 「一体何が欲しいんだい?」 子供に語りかけるような口調で聞く。 「石岡和己」 即答されて、私はベッドから転げ落ちた。 「そんなに驚くことかい?」 御手洗は頬杖をついたまま、落ちた私を呆れ顔で見る。 「当たり前だろ! 君、君……それ、どういう……」 「別に深い意味はないよ。君は何でもいいと言ったろう? だから僕も考えた。石岡和己の一日を僕にくれ」 「くれって言われても……」 「君は今日一日、僕の目の付くところにいるんだ。なに難しいことではないよ。普段と同じように生活していればいい。ただ僕がそれに付いて回るだけだ」 「それに何の意味があるんだよ?」 「意味はある! 僕は君の生活が見たいんだ」 「見てるじゃないか、いつも」 「いやいや、いつもは当たり前のように思っているから、見えていない部分もある。それに君は時々部屋にこもってしまうだろう? 君がこの穴蔵のような部屋でどんなふうに過ごしているのかにも興味がある」 好きで穴蔵に暮らしているわけではないのに。 「別に、居間の机でやってることと変わらないよ。部屋にこもるのは仕事の時くらいだし」 「君の仕事ぶりをじっくり見るのも、たまにはいいもんさ。何しろ君の稼ぎが我が家の家計を支えているんだからね」 父親の職場参観か。 しかし家外に出勤するサラリーマンならともかく、私の場合はただひたすら机に向かって文字を書き連ねるだけである。 「今日は仕事をする気はない。それに、見て面白いもんでもないだろう」 「面白いかそうでないかは僕が判断することだ。君が気にすることはない」 「僕に付いて回るって言ったけど、風呂とかトイレとかはどうするんだよ?」 「もちろん一緒に入るよ」 「冗談だろ!?」 「冗談だ」 即座に返され、私は床にへたり込む。 「でもそれ以外は本気だよ。君はいつも通りに過ごす。僕はその君の生活を見る。それが僕への誕生日プレゼント」 「そんなプレゼント、聞いたこともない」 「世間の目盛りの少ない物差しで物事を測ろうとするのは君の悪い癖だ。心配はいらないよ。僕が決めた事なんだから、後悔も満足も僕一人のものだ」 「でも、せっかくの誕生日なのに……」 「君が与えることに満足しないってことかい? そうでもないだろう。同居人とは言え、自分のプライベートをありのままにさらけ出すんだ。高級ブティックで買い物するよりも高くつくぜ」 私は一緒に落ちた布団を抱きしめて、低く唸った。 確かに、欲しい物はないかとしつこく聞いたのは私だし、物でなくてもいいとも言った。御手洗の言い出したことは決して無理難題ではないし、彼が本気でそれを望むのなら、叶えてやるのが筋というものだろう。私と御手洗の間で、今更プライベートなど無きに等しい。見られて困るものは何もないのだ。 「わかったよ。今日は君の誕生日だ。好きなようにしたらいい」 誕生日に限らず好き勝手はしているが、今日ばかりはそれを大目に見てやろう。 私が承知すると、途端に御手洗は満面の笑顔になった。 「ありがとう、石岡君。遠慮なくそうさせてもらうよ」 何がそんなに嬉しいのかはわからないが、彼がそれで満足するのならそれで良しとしよう。どうせ今日一日だけのことだ。 「ところで石岡君。君はいつまで布団にしがみついているつもりだい? そのまま懐いていたいと言うなら別に止めはしないが、君の胃袋はそろそろ食物摂取を要求してはいないかな」 「要求してるのは君の胃袋のほうだろう。……ああ、でも、そうだね。朝御飯作らないと」 何しろ御手洗は、五時半から起きていたと言うのだから。 私は立ち上がり、布団をたたんでベッドの上に戻すと、タンスから着替えを取り出した。さて着替えよう、とパジャマのボタンに手をかけると、強い視線を感じる。 振り返ると、御手洗がいた。 彼はいつの間にかベッドの上に座り、興味深げに私をじっと見つめている。 「あの……御手洗?」 「何だい?」 「その……居間で待っててくれよ。すぐ行くから」 私が言うと、御手洗が大げさに溜息をついた。 「石岡君、君はわかっていないね。それでは意味がないんだ。君は病気にでもならない限り、パジャマのままで一日を過ごすことはないだろう。つまり服を着替えることは君にとっての日常だ。それを僕が見なくてどうするんだ。そうやって些細なことを気にして、僕の楽しみを削ぐつもりかい?」 男の着替えを見て、何を楽しめるというのだ。 普通の状況ならば、私とて御手洗の前で着替えることなど厭わないが、穴が空きそうな程の視線で見つめられては平常でいられるわけもない。 「思春期の小娘でもあるまいし、何をそんなに恥ずかしがることがあるんだ。僕の前で着替えることがなかったわけじゃないだろう。視線が気になるのなら、『これは空気だ』とでも頭の中で千回念じてみたまえ」 こんなどでかい存在感の空気があるものか。 落ち着かない中で着替えをしつつ、私は早くも自分の言った事に後悔し始めていた。 どうにも落ち着かない。 御手洗は言葉通り、いちいち私の行動に付いて回った。キッチンに立てばその私の背後に立ち、洗濯を始めれば洗い場とベランダを私と共に往復し、掃除を始めれば、まるで掃除機の動きを真似るようにくるくると私の後を追いかける。 これはもう、ただ「見ている」というよりは「観察」に等しいのだろう。実際私を見る御手洗は、研究対象物を見るかの如き目だ。 やはりこんなことを承諾すべきではなかったと後悔が増す。 しかし腹立たしいのは、これだけ私を追い回しているにも関わらず、手伝おうという素振りも見せないことだ。普段からそうだが、私が何をしているのか逐一見ているくせに、まったく手出ししようとしないのだ。 腹が立つ。 しかし、今日の御手洗には「誕生日」という免罪符がある。喉元までせり上がる怒りの言葉は、必死で飲み込むしかなかった。 やっぱり落ち着かない。 昼食を作っている時も食べている時も、御手洗の視線が止むことはない。当然そんな状態で、食が進むわけがない。トイレに入っている時でさえ、彼はドアの前で私が出てくるまで待っているのだ。 正直「見られる」ということが、これ程までに神経をすり減らされるものだとは思わなかった。なるほど、ストーカー行為が罪深いとされるのも頷ける。 「御手洗」 私は昼食の後片付けをしながら、背後にいる御手洗に話しかけた。 「ずっとそんなことしてて、疲れないか?」 しかし、御手洗からの返事はない。 ずっと、この調子なのだ。 私は朝食時も昼食時も、家事で動き回っている時も、同じ事を繰り返し質問した。私自身、ほんの半日足らずでも相当の疲労感があったので、私と同じだけ動き、飽くことなく視線を注ぐ御手洗も同じように疲れているのではないかと思ったからだ。そしてもしそうならばこの迷惑な行為をやめて欲しいとも思った。 しかし、御手洗からは反応がないのだ。あったとしても生返事だけで、会話がまったく成り立たない。あくまで自分は空気だと思わせたいらしく、無闇に声をかけると睨まれる。構わず普通にしていろと言いたげに。 そんなこと、できるわけがないではないか。 私は背後の御手洗の視線を痛いほど浴びながら、深い溜息をついた。 しかし時刻も夕暮れにさしかかる頃、陽の傾きに倣うように、私の機嫌は下降の一途をたどっていた。御手洗の視線の暴力とも言える行為はさらに続いていて、それによる精神的苦痛は機嫌に反比例してピークに達している。 「石岡君、ストップ」 紅茶を入れる私の腕を、突然御手洗がつかんで止めた。朝以来、初めてまともに聞く御手洗の声だ。しかしそれを喜ぶ心の余裕は、もはや私にはなかった。 「なんだよ」 「僕の認識が間違っていなければ、それは僕のために入れてくれている紅茶だと思うんだが」 「その通りだよ」 「だったらどうして砂糖を十杯も入れるんだい?」 「……空気が文句を言うな」 そう言った私の目は、おそらく相当据わっていたことだろう。 「君は空気にも紅茶をふるまうのか。結構なことだ」 「だったら陰膳。空気になった君のためにねっ」 私は十杯もの砂糖を入れた紅茶を、かき混ぜもせずに御手洗に突き出す。 「それはありがたいが、砂糖を十杯も入れる必要があるのかい? 僕は知らぬ間に、そんなに甘党になっていたかな」 「空気に味なんかわからないだろ」 「だったら砂糖は入れるべきではないよ。資源の無駄遣いだ」 「僕の勝手だ」 私は突き出した紅茶を無理矢理御手洗に持たせると、自分の分の紅茶を持って椅子にどっかりと座り込んだ。 紅茶をぐいぐいと煽る。 御手洗は私の背後で小さな溜息をつくと、目の前に椅子に座り、極甘の紅茶に口を付けた。大して顔をしかめなかったのは、砂糖が沈殿しているからだろう。それでもやはりうまいものではなかったらしく、すぐにテーブルに置いてしまう。 そしてまた、私をじっと見つめる。 「石岡君」 「……なんだよ」 「ご機嫌斜めだね」 「当たり前だろ!」 私はカップを割る勢いでテーブルに置く。液体がお互いの顔にまで飛び散った。 「じろじろ不躾に見られて、機嫌が良くなる人間がいると思うか! 君はまだこんなことを続けるつもりか!?」 「少なくとも君が眠りに就くまではね。そういう約束だろう」 平然と言う御手洗に腹が立つ。 「ああ、そうかい」 私は立ち上がった。 どかどかと床を踏み鳴らし、自室に入る。当然御手洗は、金魚のフンよろしくついてくる。 私はベッドに潜り込むと、布団を頭まですっぽりとかぶって目を閉じた。 「石岡君。君は一体何をしてるんだ?」 呆れたような御手洗の声が布団越しに聞こえる。 「寝る」 「まだ外は明るいよ」 「構うもんか」 私の部屋には窓がない。昼だろうが夜だろうが、中の暗さに変わりはないのだ。 「こんな時間から眠れるのかい? 君、昨夜はよく眠ったろう」 「寝るって言ったら寝るんだ! 放っといてくれ!」 私が眠れば、この苦痛から解放される。 誕生日だろうがなんだろうが、知るものか。どうせ御手洗は好き勝手していれば満足なのだ。 「わかった、好きにしたまえ」 御手洗はそう言ったが、部屋から出ていく気配はなかった。徹底して私を「見る」つもりらしい。 部屋に沈黙が漂う。 静けさの中、時を刻む針の音が、やけに大きく聞こえる。 自分の呼吸音が耳につく。 そして、微かに聞こえる彼の息遣いさえも。 きつく目をつむり、頭の中で必死に羊を数える。 …………。 眠れない。 眠れるわけがない。 私は布団を剥いで起き上がった。目の端に、床に座り込む御手洗の姿が映る。だが決して視線を合わせようとはしなかった。 彼は空気だ。 ベッドを抜け出すと、壁に掛けてあるコートを手に取り自室を出る。 コートを着込みながら、私の足は一直線に玄関へと向かった。 夕焼けに染まる街並みを、私は早足で歩いた。どこへ行こうとも考えていない。ただあの窮屈な部屋に居たくなかっただけなのだ。 背後からは私より少し間隔の長い足音が、途切れることなく聞こえている。それを振り切るように、私はただひたすらに歩いた。 山下公園に入り、端から端へと歩く途中、とうとう御手洗が大声で私を呼んだ。 「石岡君、石岡君!」 しかし、私の足は止まらない。 「石岡君!」 「うるさい! 空気がしゃべるな!」 私たちの大声に、周囲の人々の視線が集まる。それに構う余裕などなかった。 「もう我慢できない! 耐えられない! あれが本当に普段通りだと思うのか!」 「石岡君」 「ついてくるなよ! もううんざりだ!」 「今日一日、僕の目の付くところにいる約束だろう。君もそれを承諾したはずだ。君はそんなに簡単に約束を違える男だったのか」 私はピタリと足を止めた。御手洗の身体が背にぶち当たり、よろけた私の身体を彼の手が支える。その手を振り払い、私は御手洗に向き直った。 「こんなことを、君は本当に楽しんでいるのか? 満足してるっていうのか!?」 「ちゃんと楽しんでいるし、満足もしているよ。そうでなければ、しようとは思わない」 「そうかい。でも僕はもうご免だ。君がストーカー行為をやめない限り、僕は家に帰らない」 「大げさ過ぎやしないかい」 「大げさなもんか。僕が今朝から受け続けた精神的苦痛がどれほどのものか、君にはわからないだろうね。君が同居人という立場でなければ、迷わず警察に通報してるところだ」 「今の日本の警察のストーカー対策は万全ではない。通報したところで知人同士の諍いと決めつけて、まず取り合ってはくれないさ。無駄なことはやめたまえ」 「君がしていることは無駄じゃないとでも言うのか!?」 「無駄じゃないよ、僕にとってはね」 しばし睨み合う。 しかしすぐに私は視線を落とし、溜息をついた。 「そうか、わかった」 そのまま御手洗の横を通り過ぎようとして、腕をつかまれた。 「どこへ行く気だ?」 「警察。幸いすぐそこにあるからね」 「石岡君。君は僕を、誕生日に親友に通報された不幸な男にするつもりかい?」 「自業自得だろ」 「やめておきたまえ。君が男につきまとわれたと訴えたところで、いい笑い者になるだけだ。わざわざ自分から恥をかきに行くこともないだろう」 「頭がおかしいと思われたっていいさ。僕のほうが警察の世話になったって構わない。君にこれ以上つきまとわれるくらいなら、留置場に放り込まれるほうがまだマシだ」 御手洗の手を再び振り払おうとしたが、今度は叶わなかった。彼の手は思いの外強く、私の腕をつかんでいる。 「離せ!」 「嫌だ」 「離せよ!」 「石岡君」 彼は不意に真顔になると、もがく私の手を握りしめた。そしてそのまま、引きずるように歩き始める。 「御手洗!」 抗議の声を上げるが、そんな言葉の抵抗などものともしない。 しばらくは悪態をついていた私も、有無を言わさぬ御手洗の歩みに、次第に身体の抵抗もあきらめた。 少し歩くうちに私の抵抗がなくなったことに気付いた御手洗は、すぐにその足を止める。 「君は何もわかっちゃいない」 彼はゆっくりと振り向いた。 「石岡君。僕はこの世に不変のものはないと思っている」 今までとはまるで違う、穏やかな視線で私を見つめる。 「人の身体の細胞は毎日生み出され、死んでいくだろう? 成長しない身体はないし、老化しない身体もない。生涯不変とされる指紋だって、人が死んで土に還れば消えてなくなるんだ。物だって同じさ。今日新たに造られた機械も、一日たつごとに古くなる。この公園の手すりだって変わらないように見えて実は少しずつ腐蝕している。どんな物事でも、毎日必ず変化するんだ。永遠不変など有り得ない。それは、君の生活だって同じだよ」 「僕の……?」 「君のこの手は、いつも同じシミを洗うかい? 同じ形にジャガイモを剥くかい? 同じ言葉を寸分違わぬ文字で原稿用紙に書き記すかい? 毎日同じように見えても、本当は少しずつ違っている。些細なことでも違えば、心の流れも動きも変わる。そうだろう? 今日の君の一日は、君の人生において唯一無二のものだ。そのすべてを余さず見ることができた僕は、おそらく世界で一番幸福な男だよ」 そう言って笑う御手洗に、私の中の怒りは、波が引くようにあっさりとおさまってしまった。 しかし代わりに、猛烈な照れ臭さが沸き上がってくる。 私はそれを隠すために、御手洗から視線を外した。 「お、大げさなのは君のほうだよ。そりゃ、君の言う通り、同じ一日なんてないのかもしれないけど……あんなの、何て事ない日常じゃないか」 「ちっとも大げさなんかじゃないさ」 御手洗は軽く笑いを漏らし、繋いだままの手を持ち上げる。 「君のこの手が、この指が紡ぎ出す日常は、僕にとって特別なものだよ。特別で、大切で、とても……」 ――愛しい。 柔らかな唇が、指先に落ちる。 指先から、温もりが全身に伝わっていく。 ――声が、出なかった。 御手洗は私の手を、優しく、力強く握り込む。 そしてまた、今度はゆっくりと歩き出した。 その方向は、間違いなく、馬車道の我が家。 夜の帳を下ろした街並みを、私は御手洗に手を引かれつつ歩いた。 「君は、自分がどれ程のプレゼントをしたか、まだ良くわかってないんだろうね」 冷えた空気の中、彼の声は白い息になって流れる。 わかってないのは、御手洗のほうだ。 確かに今日彼に見せた私の日常は、無二かもしれない。でも、多分、あれは偽物の日常だ。 瞬きすら忘れたような御手洗の視線を受け止めていても、私と彼の存在は少しも繋がってはいなかった。だからこそ、苛ついたのだ。ひとつ空間に強く感じながらも、少しも重ならないその不自然な存在感に。 私は繋ぐ手に力を込める。ようやく繋がるその存在を、確かめるように。 「御手洗。やっぱり何かプレゼント買うよ」 私が言うと、御手洗はうんざりしたような声で言った。 「本当に君はわかってないんだね。いらないよ、もうもらったから」 「でも、あれじゃ……」 不完全なのだ、私にとっては。 「君の気が済まないと言うのなら、帰ったら熱い紅茶を入れてくれたまえ。今度は砂糖なしでね」 「でも」 「まだ足りないのかい? だったら僕のためにうまい夕飯でも作ってくれ。それで十分だ」 御手洗は早口で言う。その様子で、もう何を言っても無駄なのだと察した。 「わかったよ。リクエストはあるかい?」 「何でもいいよ、君が作るものなら」 「そう言われるのが一番困るんだよ」 「じゃ、鯖の味噌煮」 「そんなのでいいのか?」 「そんなのはないだろう。君が作る料理の中で、一番好きなものだぜ」 途端に顔が熱くなる。 この男は。 どうしてそういう恥ずかしいことを、恥ずかしげもなく言えるのだ。 「あ、そうだ。御手洗!」 「まだ何か?」 私は御手洗の手を引っ張ったのだが、御手洗は気のなさそうな返事をしただけで、足を止めてはくれない。おかげで私は忙しなく歩きながら、大事な台詞を言う羽目になった。 「誕生日おめでとう!」 言った途端、やっと御手洗の足が止まった。 そしてひときわ大きな白い息が、彼の口から吐き出される。 「ようやく言ってくれたね」 御手洗はゆっくりと振り返り、再び大きな溜息をついた。 「君はバカだな」 「なんだよ、急にっ」 「『そのひと言だけで、僕は嬉しいのに』」 そう言われて私は首を傾げる。どこかで聞いた台詞だ。 「君が先月言ったんだぜ」 「……あっ」 「どうして、僕も同じだと考えられなかったのかな」 そうか。 御手洗の「何でもいい」は、そういうことだったのだ。 本当に、プレゼントなど何でも良かったのだ。 その祝福の言葉だけで。 生まれた日を共に祝う、その気持ちだけで。 私は自分で言ったその台詞を、すっかり失念していた。 「まあそのおかげで、僕はいろいろと発見したよ。男にしてはまつげが長いとか、意外に鼻筋が通ってるとか、ホクロの数や位置とか……」 「ちょっと待て。なんのことだよ?」 「君の寝顔を堪能した上での成果」 「は、恥ずかしいこと言うな!!」 「恥ずかしいかい? なるほど、わかった。心の中で思うだけにしておこう」 「……それもやめてくれ……」 私はがっくりと肩を落とした。その私の頭の上で、御手洗がくすくすと笑う。 「冗談だよ、石岡君。さあ、早く帰ろう。紅茶を入れてくれるんだろう? 今日はまだ一度も、まともな紅茶を飲んでいないんだからね」 彼は私を促すように、軽く手を引っ張った。 そうして私たちはまた、歩き出す。 今度は二人、肩を並べて。 しかし、その手は家に帰り着くまで、離れることはなかった。 そう、こうして彼を感じる瞬間。 そのすべてが、私にとって、唯一無二の日常なのだ。 |
(2000/11/27) |
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