紅茶

 ワープロの前で、私は頭を悩ませていた。
 思うように文章が進まない。先日短いエッセイの執筆を依頼されたのだが、締切が明日に迫っているにもかかわらず、ワープロの画面にはほんの数行しか映し出されていない。
 エッセイのお題は「紅茶」。
 近頃若い社会人世代の間では、夜酒を飲まずにお茶を飲みにいく「夜お茶」というものが流行っているらしい。その流行りに習い、いつも世話になっている出版社から発行されている雑誌で、紅茶の特集記事を組むことになった。そして長らく紅茶党である私に、おすすめの紅茶や店、何か紅茶にまつわる思い出話などがあれば紹介して欲しいとの依頼が舞い込んできたのだ。
 執筆依頼というと常に御手洗に関することばかりを要求される私にとって、こういった依頼は珍しい。紅茶党などと偉そうに言っても、ただ日常的に飲む物が紅茶であるだけで、特に深い知識を持っているわけでもないのだが、資料をひっくり返して書く必要もなさそうだったので軽い気持ちで引き受けてしまった。それが間違いの元だったのかもしれない。
 そもそも私が紅茶を飲むようになったのは御手洗の影響である。茶葉の種類も彼が「うまい」と言った物を主に飲み、御手洗が外国に渡って以後も惰性で同じ物を飲み続けているだけなのだ。私自身にはこだわりなどないし、毎日当たり前のように飲んでいる物に、思い出も何もない。
 というわけで、執筆を引き受けた当初から思い悩み、締切前日の今日は朝からやけっぱちで紅茶を飲み続け、ただ無駄に水っ腹だけを抱えて今に至るのである。
 ワープロ画面を睨みつけていた私は、溜息をついて立ち上がった。時間的にはもはや昼飯時だが食欲などまるでない。無駄なあがきとは思いつつも、何かいいネタが浮かぶかもしれないと、再び紅茶を入れるべくやかんを火にかける。
 ぼんやりと湯が沸くのを見つめていると、不意に来客を告げるチャイムが鳴り響いた。一瞬身体がビクつく。
 まさか、担当ではないだろう。原稿を取りに来るのは明日だし、様子を見るだけなら電話で十分なはずだ。里美は今試験で忙しいと言っていたし、第一彼女は訪ねて来る前には必ず連絡を入れる。
 どうか宅配とか書留とか、無難なところに留めて欲しいと願いながらドアを開けると、そこに一人の女性が立っていた。
 明るい色の髪を無造作に後ろで束ね、ノーメイクと思しき顔にはサングラスをかけ、セーターにジーンズというラフな出で立ちの、一見どこにでもいそうな女性に見えた。しかし、内から溢れ出る輝きは消しようもない。
 私はその姿を見て驚愕した。
「レオナさん!?」
「ハイ! 石岡さん、お久しぶり」
 レオナはサングラスを外し、親しげな笑みを浮かべる。
 私は驚きのあまり言葉が出なかった。世界的に有名なハリウッド女優が、今私の目の前に立っているのだ。手紙や電話でのやりとりはたまにしているが、スクリーン外でお目にかかるのは一体何年ぶりのことだろう。
「お元気……そうにはあまり見えないわね。顔色が悪いわ。お身体の具合でも悪いの?」
 レオナは固まったままの私の様子に、表情を曇らせる。
「いえ! そんなことはありません!」
 慌てて答えるが、声はだいぶ上ずってしまった。
「そう? それならいいのだけど」
「いつ日本にいらしたんです? お仕事ですか?」
「ええ、今度日本で公開される映画のプロモーションで。いつもならスケジュールがいっぱいなんだけど、今回はたまたま時間が取れたので、久しぶりにお会いしたいと思って」
「あの……大変ありがたいんですが、御手洗はまだ……」
「ええ、もちろん知っています。でもあの人ばかりが目的でここを訪ねるわけではないわ。あなたに会いに来てはいけませんか?」
「は、いえ、そんなことは……光栄です。あの、どうぞ中へ」
 私はしきりに頭を下げながらレオナを部屋に通した。スターをいつまでも玄関先に立ちん坊にさせておくわけにもいかない。
 彼女は中に入ると、部屋全体に視線を巡らせ、窓際にある机の上に目を留める。
「お仕事中でした? お忙しいようなら私はお暇しますけど」
 開いたままになっているワープロを見てそう判断したのだろう。私は慌てて机に走り、ワープロの電源を切った。
「ちょうどひと息入れるところだったんです。大丈夫ですよ」
 少しも大丈夫ではなかったが、私などよりも数倍忙しいであろうレオナがわざわざ訪ねてきてくれたのだ。泣き言を言って追い返したりしたら罰が当たる。
「事件のお話を書いてらっしゃったの?」
「いえ、雑誌掲載用のエッセイです」
「あら、珍しいのね。何という雑誌? いつ発売なの? 私、石岡さんの文章をいつも楽しみにしているのよ」
 社交辞令だとは思うが、もったいないお言葉である。
「ありがとうございます。もしよろしければ後でお送りしますよ」
「いいのよ、あなたのお仕事ですもの。ちゃんと買わせていただくわ」
 思わず平伏したい気分になった。
「でも、御手洗のことについては何も触れませんよ。今回は紅茶に関するエッセイなので……」
「紅茶!」
 レオナは突然、嬉しそうに手を叩く。
「今日来た一番の目的は、実はそれなの!」
「は?」
「私、今日は石岡さんの紅茶を飲みたくて来たんです」
「僕の?」
「ええ。リーフも持ってきたの。ご迷惑でなければ入れてくださらないかしら?」
 レオナはそう言うと、ショルダーバッグから小さな紙袋を取り出し、私に差し出してきた。
「はあ……僕が入れたものなんかでよろしければ」
「ぜひ、お願いします」
 懇願するように言われては断れないし、断る理由もない。
 私は不思議に思いながらも彼女の手から紙袋を受け取り、キッチンに立った。


「いただきます」
 レオナは優雅な手つきでカップを寄せ、一度香りを味わってから紅茶に口をつけた。私はその様子を、息を呑んで見守る。まるで客の判定を待つ料理人の気分だ。
「美味しい」
 溜息とともにそう言われ、ようやく私は肩の力を抜いた。
「さすがね。長年入れている人は違うわ」
「あ、ありがとうございます。…………でも、どうして急に紅茶を?」
 私は紅茶を入れている間中ずっと考えていた疑問を口にした。しかしレオナはしばし黙って紅茶を味わう。
 半分ほど飲み終えた後に、ようやく彼女はカップをソーサーに置いた。
「実は私、先日スウェーデンに行く機会があって」
「え? じゃあ、御手洗に……」
「ええ、大学まで押し掛けて、会ってきました」
「そう……ですか」
「あの人ったら、私が研究室に入った途端、案の定ものすごく嫌そうな顔をするの。そんなことはもう慣れっこだからいいんだけど」
 その時の様子を思い出したのか、レオナはくすくすと笑い出す。相変わらず御手洗は、自分に好意を寄せるこの絶世の美女を邪険に扱っているらしい。
「私は御手洗さんの研究内容にも興味があって、良い機会だったのでそのお話も伺ってきました。その時にね」
 レオナは一旦言葉を切ると、再びティーカップを持ち上げる。
「これと同じ紅茶の葉をお土産に持っていったんです。彼、紅茶好きでしょう? 以前イギリスに行った時に飲んで以来ずっとお気に入りで、ぜひ御手洗さんにも飲んでもらいたいと思って、私が彼に入れてあげたの」
「レオナさんが!?」
「あら、そんなに驚くこと? 私だって紅茶くらい入れられるわ。こう見えても上手いのよ。最も御手洗さんもそんなふうに驚いて、二、三、嫌味をくっつけてくれたけど」
 世界中のファンが知ったら、嫉妬羨望の嵐だろう。かく言う私とて、こうしてひとつ部屋に向かい合ってお茶を飲んでいるなど、熱烈なファンに袋叩きにあっても文句は言えない。
「我ながら会心の出来だったわ。あそこまで美味しく入れられることは滅多にないってくらいに。なのにあの人ったらひと口飲んだ途端に難しい顔をして黙り込むのよ。『美味しくない?』って聞いたら、『いや、上出来だ。すぐにでも店が開けるだろう。老後の心配はいらなくなったね』って言うの。彼の私に対する最大の賛辞だと思ったわ。それでもやっぱり眉間にしわを寄せて、それ以上口をつけようとしないの。変よね? 美味しいって言ったくせに。それで『あなたはいつももっと美味しい紅茶を飲んでいるの?』って聞いてみたら、『いや、これよりもずっと不味い! 何しろ僕が自分で入れてるんだからね!』とこうよ」
 私は首を傾げた。
 御手洗の紅茶好きは、共に住んでいた私も認めるところだ。うまい紅茶を飲めば陽気になり、反対に不味い物を飲むと途端に不機嫌になって悪態をつくこともよくあった。おかげで私はすっかり鍛えられてしまったのだ。その彼が、自らうまいと称した紅茶を飲んで、なぜ不機嫌になるのだろう。
「ね、訳が分からないでしょう? それもいつものことだけど、さすがに私も頭に来て『何が気に入らないの!』って言ってしまったの。そうしたらあの人『僕は美味しいと思う紅茶を飲みたくはないんだ』って」
 ますます訳が分からなくなった。
 さらに首を傾げた私に、レオナが苦笑する。
「私もそんな感じでした。だって本当に言ってることが滅茶苦茶なんだもの。だから私はさらに聞いたの」

 ――紅茶が嫌いになったの?
 ――人の嗜好がそう簡単に変わるわけがないだろう。
 ――美味しい紅茶に飽きた?
 ――飽きたからと言って、君は不味い紅茶を好めるのかい? そりゃ、たまに飲むのは刺激的で新鮮かもしれないが。
 ――でもあなたまるで、美味しい紅茶は飲みたくないって言っているみたいだったわよ?
 ――そんなはずはないだろう! 僕はいつだって美味しい紅茶を飲みたいと思っているさ!

「って、終いには怒り出すのよ。ほとほと呆れてしまったわ」
 それはそうだ。私も話を聞いているだけで呆れてしまった。御手洗のやつ、一体何を考えているのだろう。
「でも彼ね、その後にこう言ったの」

 ――たとえ最高級の紅茶を最高の腕を持つマスターが僕のためだけに入れたとしても、たとえ凍える夜にようやくたどり着いた見知らぬ家で、親切な家主に心のこもった温かい紅茶を差し出されたとしても、僕はそれを飲みたいとは思わない。他の誰かの手から出されたものなら、僕にとってそれは色のついたお湯と一緒だ!

 ずいぶんな言い草だ。彼は決して人の真心を理解できない人間ではないのに。
「私、ようやくそれでピンと来たの。だから仕返しのつもりで言ってやったわ。『あなたが飲みたいと思う美味しい紅茶は、一体どこに行けば飲めるのかしら? 私もぜひ飲んでみたいわ』って。そうしたら……」
「……そうしたら?」

 ――本気でそう思っているのなら、迷わず君の故郷へ行きたまえ。

「ですって。それ以降私が何を聞いてもうんともすんとも言わず、結局私の入れた紅茶も飲まずじまいよ」
「あの、故郷っていうと……」
「私の故郷は横浜しかないわ。だから私、彼に言われた通りここに来たの。彼が飲みたいといつでも思っている美味しい紅茶を飲みにね」
 レオナはそう言ってカップを掲げ、ウィンクした。
「……え?」
「まさか本当に私がここに来るなんて、あの人は考えもしなかったでしょうけど」
「……え、あの……それは、つまり……」
「ええ」
 レオナは不意に真顔になると、なにか重大発表でもするかのような固い声で言った。
「あなたの入れた紅茶よ、石岡さん」


 なんと返していいのかわからず、私はしばし言葉を失った。
 レオナは残りの紅茶を飲み干した後私を見つめる。その真剣な表情に、私はソファーの上でかしこまった。
「石岡さん」
「はい」
「ストックホルムにはいらっしゃらないんですか」
「……御手洗のところにですか?」
「ええ」
「今のところ、その予定はありませんが」
「御手洗さんがこちらに帰ってくることは?」
「ありませんよ。書き置きを残して出ていったまま、一度も。最近では手紙も電話も滅多に来ません」
「石岡さんからは?」
「いえ、あまり……」
「そう」
 レオナはそう言ったきり、また黙り込んだ。
 私が御手洗にコンタクトを取るのは、事件に行き詰まった時だけだ。不義理を責められているような気がして、私は自分の家であるにも関わらず居心地が悪くなる。
「私ずっと、待っているのはあなたのほうだと思っていたけど」
 時計の秒針が響き渡る程の静寂の中、レオナは空のカップを見つめたままぽつりと呟いた。
「本当は、待っているのはあの人のほうなんだわ」
 そう言うと彼女は勢いよく顔を上げる。
「石岡さん。ストックホルムに行ってください」
「え?」
 突然の申し出に、私は困惑した。
「すぐに行けと言っているわけではないの。でも、あなたが行くべきなんだわ」
「あの……ちょっと待ってください。そんなこと急に言われても……よく意味がわかりません」
「あなたの入れた紅茶、とても美味しかった。でも私だってこれに負けないくらい……いいえ、これ以上のものを入れられる。でも、悔しいけれど、私では駄目なの。あの人にとって重要なのは紅茶のレヴェルではなくて、それを入れる人なのよ」
「それは……御手洗が、僕の入れた紅茶を飲みたがっていると……そういうことでしょうか」
 困惑しつつ私が言うと、レオナは肩をすくめる。
「たぶん、紅茶は口実。あの人本当は、ただあなたに会いたいだけなんだわ」
 呆れたようにそう言われ、私は再び言葉を失った。
「ただあなたの紅茶を飲みたいというのなら、ここに帰ってくればいいだけのことだわ。でも彼が望んでいるのは、あなたが自分から彼の元へ行くことだと、私はそう思うの」
 レオナは空のカップをようやく置くと、ピンと背を伸ばして居住まいを正す。
「石岡さん。ほんの小さな一歩でも、踏み出すのには勇気がいる時があるわ。でも、それが必要な時もある。私は今のあなたが、それができない人だとは思っていません」
「それは……」
 かいかぶり過ぎだと言いかけたが、それはレオナの声に遮られた。
「石岡さん」
「……はい」
「御手洗さんのところに、行ってあげてください。今でなくてもいい。でも、いつかは、必ず」
 返事は……できなかった。
 私は、ただ黙って俯く。
 そんな私の耳に、レオナの溜息が聞こえた。
「私が今、どれだけ悔しい気持ちでこの台詞を言っているかわかりますか?」
 ハッとして顔を上げると、目の前には泣き笑いのような彼女の表情があった。
「それが私だったら、どんなにいいかと思うわ。でも、彼はあなたを待っている。だから、他の誰がどんなに美味しい紅茶を入れたとしても駄目。彼が飲みたいのはあなたが入れた紅茶だけなのよ」
 レオナは一瞬目を伏せた後、すぐに顔を上げる。そこに浮かぶのはもう、いつもの自信に満ちあふれた表情だけだった。
「私、どうしてもそのことをあなたに伝えたかったの。あなたの紅茶を飲みたかったのも本当だけれどね。……ああ、もうこんな時間ね、そろそろ戻らないと」
 彼女は壁の時計に目をやると立ち上がる。私もそれにならい、慌てて立ち上がった。
「ごちそうさまでした、美味しい紅茶をありがとう。時間があったらまた寄らせていただくわ。エッセイ、楽しみにしています」
 レオナはそう言い残し、瞬く間に私の前から去っていった。


 レオナが帰った後、私は自分の紅茶を入れ直し、再びワープロの前に座った。しかし電源は入れず、ただ黒いままの画面を見つめる。
 御手洗が、私の紅茶を飲みたがっている?
 多分、レオナの勘違いだ。きっと何か嫌なことでもあって、ふてくされていただけだろう。
 私を待っているって?
 そんなこと、あるわけがない。紙切れ一枚残して、私を捨てていったくせに。
 一向に文章を書く気にならず、私は溜息をつく。
 ふと、机の引き出しに目をむける。何気なくその引き出しを開くと、その奥底からしまい込まれたままになっていたある物を取り出した。
 パスポート。
 まだ期限は切れていない。
 ――僕はいつだって美味しい紅茶を飲みたいと思っているさ!
 私が入れる紅茶を、彼は本当に喜んでくれるのだろうか。
 ――結局私の煎れた紅茶も飲まずじまいよ。
 私の紅茶を飲めば、彼はそんな不誠実な態度を取ることをやめてくれるのだろうか。
 握りしめていたパスポートを、ティーカップの傍らに置く。
「とりあえず、エッセイを仕上げないとな」
 私は呟いて、ワープロの電源を入れた。
(2000/10/25)
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