翌日はよく晴れた。武田の城から戻ってきた城主はやはりどことなく浮かれているように見える。小袖の袖を抜き、上半身をさらして庭で槍など振っている。その炎槍、繰り出すたびに空気を裂く音が奥の畳にまで聞こえてくる。濡れ縁に茶と団子の用意をし、城主に呼びかけると、おお、すまぬと声をかけてくる。側仕えの小姓相手にこの主人はどこまでも気安い。
ふとまじまじと烈火の如く走り回る主人の様子を見ていると、その首になにか揺れている。主人の首には常に六文銭がかけられているが、それとは別である。守袋のようにも見える。先日上田の城を発ったときにはそれはなかったように思う。はて、信玄公からなにか賜りなすったかと首をひねる。
やがて槍を振るうのにも飽きたか、主人は汗を払いながら屋敷に戻ってくる。濡れ縁に片膝をつき、湯呑に手を伸ばす。一息に飲んでしまったのに、新たに注いでいるともう団子の二本三本が消えていってしまう。おお、鍛錬のあとの団子は格別よと、主人はおおよそ理解できない言葉を発している。傍らに置いた朱槍がカタリと音をたてる。もうないのかと問うてくる主人に残念ながらと応じていると、忍隊の長が庭の木陰から姿を現す。おお佐助、戻ったか。ええ、ただいま帰参しましたよっと。猿飛というこの甲賀ものは主人の横に座りながら、鉤爪の指で髪をわしわしとかいている。主人の髪の色よりももっと鮮やかな橙色である。その色と、この長が好んで着ている忍び服はどうにも目立つ配色で、いくさ場であれば、真田の六文銭の旗印とともにこの二人はようく映えるだろうと思う。湯呑に長の分の茶を注いでやり、どうぞと寄越すと、どうもと笑顔を返してくる。だがすぐにその口元は締まる。
少し離れて座っていると、奥州の、という単語が聞こえた。武田の軍勢が上杉から向こう、奥州をも平らげたのは数か月前のことである。あれは盛夏のことであった。他ならぬ真田の赤が伊達の大将首をあげたのである。首級は主人の手で清められ、信玄公の決によって伊達に送られたはずだった。その一行が山賊に襲われるのを誰が予想したろう。結局首級もろとも一行は数日行方不明になり、後日出された捜索隊によって川辺に散らばる屍が確認された。伊達の統領の首はとうとう戻らなかった。それがまだまだ彼方との遺恨になっているらしい。もともと首を渡すつもりはなかったのだろうと因縁をつけてくる。とんだ濡れ衣だが、そう思う気持ちはしかし、判る気がする。
ぼうと庭の紅葉のはじまった楓などを見ていると、もう長はいなくなっていた。主人は相変わらず湯呑を片手に団子のくしをねぶっている。そう思うと、首の守袋からなにかかけらを一つ二つ取り出して口に含んだ。白く、粉の吹いたそれは干菓子のようにも見えた。信玄公からの賜りものですかと問うと、うん?と首をひねる。ああ、そうではない、……いや、まあそのようなものだな。なんとも煮え切らない答えを返して口をもごもごとやる。だがその顔は穏やかに凪いでいる。あの夏から向こう、主人は驚くほど大人びたように思う。
旦那、と突如声がする。今度は軒先から猿飛が顔を出している。報告し忘れたんだけどさ、と続ける忍に、主人は驚いたではないかと返している。どうやらその拍子で干菓子を飲みこんでしまったようである。喉に詰まったそれを冷めた茶でどうにか嚥下しようとする。そうして、どこか目が覚めたような顔をして猿飛の話に聞き入った。右手で胃の腑のあたりをしきりにさすっている。
やがてまた鍛錬に向かった主人の背中を見やりながら、未だ頭だけ軒先からぶら下げた猿飛と言葉を交わす。腹さすってたけど、なんか悪いもんでも食べたかね。いや、驚いて干菓子をそのまま飲みこんじゃったみたいですよ。干菓子?ほら、あの首からかけてる守袋に入った。すると、猿飛は似合わず暗い目をして主人の向かった先に顔をやる。ああ、まあ、そうするだろうとは思っていたけど。低い声の独り言を拾いあげてなんのことかと問うと、やはり暗い目をして向き直った。あんまりあれに興味を持たないほうがいいよ。そう言い残して忍は首を引っ込めてしまう。はあ、さてはどこかのいい人からの贈り物だろうかと、小姓は湯呑を片付けながらそう思っている。
かさかさと仏舎利が(090104)