政宗殿にござりますか。矢傷だらけの背を楠木に預け、真田はぼんやりと呟いた。眉のあたりの刀傷から溢れた血で、もうほとんど右目は用をなしていない。左目をじっと凝らすと、なにやら真田の前のあたりの空気が凝ったように歪んでいる。その形は、人のようにも見えた。いや竜かも知れない。どちらでもよい。腕を伸ばすと肉のような感触がある。徐々に上のほうにてのひらをやってゆくと、判るのか、という声がした。いよいよ耳までいかれてしまったらしいと真田は思う。
判りませぬ、だが、判りまする。空気が揺れた。訳判んねえな、おい。確かに伊達はこういう笑い方をしていた。もうずっと昔の記憶を探りながら、真田はいよいよてのひらを空に泳がせた。もやもやとした空気は形を持たず、やわやわと真田の中で形を変えた。肉を掴んだと思ったのも、いよいよ手足が痺れてきた前兆かもしれぬと真田は思う。
信濃守信玄は上洛後、日の本をよく治めた。だが織田との戦で得た傷をもとに、数年で家督を長子勝頼に譲る。そうしてほどなくこの世を去った。甲斐の虎という異名とともに名将と謳われた信玄公の死は各地の諸大名を揺るがせ、第一に徳川が反旗を翻した。徳川を東軍、武田を西軍としてここに天下分け目の合戦が繰り広げられた。真田勢は西軍として、ここ大阪によく働いた。越前松平勢を突破し、徳川本陣にまで切り込んだが人海戦術を得意とする徳川軍にはかなわなかった。真田は敗戦の将としてここにある。じきに徳川の兵が真田を追ってくるだろう。鬱蒼とした神社の楠木の根元に、うずくまるようにしている。この首が胴と離れるのは、いつになるやらと目を閉じたときであった。
やわかった空気が急に鋭くなる。ひたりと首元に寄せられたその感触を、真田は確かに覚えていた。竜の爪と謳われた伊達の六爪、その一振り。自分はうまく笑えただろうかと思う。顔の筋肉さえ動かすのもままならぬ。それでも力を込めれば、皮膚に貼りついた血がぱらぱらと落ちていった。……アンタは俺との約束を一つ破ったな。申し訳ござりませぬ、しかしながらあの約束は無理があり申した。首元に手をやると、刃を指でつまんで横によける。抵抗するかと思われたそれは、存外と容易く真田の言うことを聞いた。無理か、と言う笑い声がする。政宗殿以外の刃で死ぬなとは、そなたが逝ってしまわれた今ではとてもとても、床の上で死ぬなどもってのほか、この身はいくさ場でしか死ねぬ身にて。くっくっと肩を震わすと、骨に振動が響いて痛む。それでも深く息を吸いこんだ真田を前に、空気がまた歪む。
そのときである。左手にがさりと音がした。もうほとんどつぶれた目をやると、槍を構えた足軽がじりじりと楠木との距離を詰めている。それさえもう暗い膜を通してしか見えぬ。とうとうこのときが来まいたな、と真田は呟いた。誰に聞かせるでもない呟きである。真田左衛門佐信繁殿とお見受けする!足軽が叫ぶが、その声さえすでに遠い。申し訳ありませぬ、政宗殿。そう真田がこぼしかけたときであった。バリバリと空気が音をたてる。その瞬間、遠い昔に幾度も合わせたあの雷刃が閃くのが確かに真田のまなこに焼きついた。どさりという音がする。あの足軽が雷に焼き切れて倒れた音であろう。
ああ、と真田は思う。ゆえにこうして来てくださったか。……当たり前だ、死んだってあんたは俺のもんだ。てのひらで顔を覆い、真田はぐうと呻いた。そうして指の間から目を凝らすと、空気が青く光っている。人の形をしているとも、竜の形をしているとも見える。しかしそこにいるのはまごうことなき、己が生涯の相手と見定めた伊達独眼竜政宗であると真田は強く思う。……覚悟はいいか。伊達が竜の爪を抜いた。ひたりと雷刃が真田の首元に押しつけられる。今自分はかつてないほど穏やかな笑みを浮かべているに違いない。伊達がくくっと笑った。老けたな、幸村。政宗殿は、相変わらずお美しゅうございますな。それを最後の言葉にするか?否、と真田は首を振る。そうしてすうと息を吸いこんだ。今言わねばもう届かぬであろう。……ずっと、お慕い申し上げておりました。
ふと空気が揺れた。鉢巻をした額に、なにかあたたかいものが触れる。首元に突きつけられた刃とは似ても似つかぬ、やわくて恐ろしいものである。それがなにかを知ることはかなわなかった。もうすでに真田の目はかすんでしまっていて、瞼裏に、遠い昔の、伊達の笑顔を思い浮かべることで精一杯であったので。
淵にて奪取(090507)