来客を見送るために玄関を開けると、パラパラと雨が降っている。慌てて三和土に戻り、玄関に無造作に立て掛けてある黒傘を手に取った。もう曲がり角にきえようかという来客の背中を追って走り出す。捕まえたときには、もう随分とアスファルトが黒くなっていた。来客に傘を差しだすと、彼は目尻に皺をよせる。悪いね。いえ、……返さなくても結構ですので。なんども頭を下げる来客に軽く会釈を返し、家に戻った。開け放したままだった玄関の引き戸に手をかけると、三和土のすみに黒いものが蹲っている。猫である。濡れた耳が気持ち悪いのか、しきりに前足を使って掻いている様子に真田はそっと笑みをこぼした。中に入るように促すと、猫は黙って真田の後をついてくる。洗面所でタオルにくるんでやると、猫は体にタオルを引っかけたまま居間へと歩いてゆく。居間の座椅子の上が猫のお気に入りの場所であった。
郊外の小さな平屋を借りて暮らしている。古い木造だが、もともと実家も同じようなものなので不便を感じたことはない。小さな庭もあるが、真田は壊滅的に土いじりが苦手なため、時折雑草を刈る以外は放置してあった。今の時期は石塀に沿って植えられた紫陽花が見ごろである。青紫の、しんと深い色の花がいくつも庭を彩った。
居間は庭に面している。縁側へと続くガラス戸は薄く開けられ、扇風機が休日午後の蒸し暑い空気をかきまわした。雨露に濡れていた毛並もすっかり乾いてしまって、猫は座椅子に丸まってテレビをじっと見つめている。真田はその隣にそっと座り、その顎を撫でた。黒猫である。足の先と、額の一部分が白い。そして、怪我でもしたのだろう、右目は潰れてしまっていた。しかし猫がそれを気にかける様子はなく、ピンとしっぽを高くあげよろめくことなく歩く。額の一部分の模様が三日月のようなので、真田はかの戦国武将の名前で猫を呼んでいる。
真田が飼っているわけではない。彼は時折こうしてふらりと現われては居間の座椅子で時を過ごす。そうしていつの間にかいなくなっている。他の家では、違う名前を持っているのだろう。ある平日の夕方などに、小さな子供の横を音もなく歩く様子をたびたび目にしている。本来であれば名前を付けるのは良くないことだと思う。情が移る。だがそうして名前を呼んでいると、最初は呼びかけても無関心にしっぽを振るだけであったのが、顔を向けるようになった。指を差しだすと甘噛みするようになった。些細なことだが、一人暮らしの潤いにはなっている。
猫が座椅子から降りた。もう出ていくのかと思うと、じっと真田を見つめてそこから動かない。ゆっくりと腰を動かして座椅子に座ると、その膝に頭をのせてくる。顎を撫でると目を細めて気持ちよさそうにする。……政宗殿。ん、と猫が頷く。夕ご飯はどうなさいますか。外はいまだ雨である。陽の届かない薄暗い曇り空だが、それでもだんだんと翳っていっているのが判った。お前がいいなら、食べてく。真田は口の端を緩めて、その黒い毛並みを撫でた。畳の上に丸くなる猫をおいて、台所に向かう。夕食の材料を確かめる。
そういう穏やかな暮らしをしている。共に夕食を食べ、シャワーを浴びて、扇風機の風に当たりながら野球中継を眺める。ウトウトしはじめた猫の耳をくすぐりながら、泊まってゆきますかと問う。うん、と頷いて猫は居間からふらりと出てゆく。襖で仕切られた向こうが真田の寝床である。ごそごそと音がするので、隅に畳んである布団の上で丸くなっているのだろうと思う。
在京球団の勝ち星を見届け、飲んでいたビールを一缶空ける。台所で洗いものを済ませ、居間の電気を消した。寝室に向かうと、案の定三つ折りに畳んだ布団の上で猫が丸くなっている。半分寝ぼけている彼をおろし、畳の上にふとんを敷いた。豆電球の一つついた、橙色の部屋の中で二人、大の字に寝転がる。薄く開けた窓から湿気を帯びた、ひんやりとした空気が流れてはくるものの寝苦しい気温なのに変わりはなかった。
なんかお前、今日変だな。……判りますか。なにかあったのか。向こうを向いていた猫の目が、真田を見つめてきらりと光る。きれいだと思う。猫の目は、光の下で見るとハッとするような青色をしている。引っ越します。……いつ?さあ、……ただこの家がもう貸し家ではなくなるようで。昼の来客は大家であった。北海道に住む息子夫婦の元に身を寄せることが決まったので、もう貸し家の管理はできないと言う。勿論真田の引っ越し先も世話をしてくれるらしい。急な話で申し訳ないが、と大家は切り出したが、実際の引っ越しはもう少し先とのことであった。この一軒家に愛着はあったが、そういうことならば仕方がない。二つ返事で了承した。そうして、この猫のことを考えた。
くるりと真田に背を向けた猫の頭をそっと撫でる。湿気のこもった空気の上に、沈黙がしんしんと降り積もった。……政宗殿がよかったら、うちの猫になりませんか。伸びた背筋がぐっと丸まる。馬鹿言うなよ。頭に置いた手をそのまま体に滑らせて、猫の体をぐっと抱き寄せた。あたたかくしなやかないきものの感触である。俺がお願いしても駄目ですか。だから、馬鹿言うなって。腕の中で猫がもがいた。腹に回した腕の力をとく。器用に猫は体を反転させて、真田の正面を向いて体を丸めた。飼おうとするときに、猫に了解を求める馬鹿がいるか?……さあ、しかしするにこしたことはないのでは。言いかけた鼻っ面を前足ではたかれた。もう黙れと言う。真田は口の端を緩めて、いいのですかと小声で問うた。明日の朝まで雨は降り続くと言う。いっとき雨の音が大きくなって、すうっと静かになっていった。豆電球の灯りがまぶたに焼き付いている。猫の青い目の光と同じく、きらりと光る。
綺羅、星のごとく(090630)