鈴虫の鳴く合間に、なにかいきもののうごめく気配がする。虫の音が澄んだ玻璃を叩くように聞こえるので、それはひどく顕著であった。そうであったかと思えば、酒精に犯された頭は遠く宴の乱痴気騒ぎの音を拾う。太鼓が打ちならされ鐘がカンカンとその間を埋める。白拍子のさざめくような笑い声。真田はこめかみを押さえて少しの間瞼を閉じた。
その間も、いきものの気配は消えることがない。時折、うめくような声も聞こえる。ならばこれは人なのだろう。暗闇に篝火がぽつんぽつんと焚かれているだけの小さな庭である。濡れ縁から見下ろしたそこは、もうすでに静まっている。昼間ならば秋の花を咲かせて華やかに彩られるだろう。しかし今では重たく空気を底に沈殿させているのみである。
回廊をぐるりと周り、いきものの気配を探った。すると、庭のはし、柱の陰にうずくまっているものがある。真田はすっと袴を裁いてそれに近づいた。大事ないだろうか、と声をかける。おおかた、宴で飲み過ぎた輩であろうと思っていた。
するとそのいきものはぐっと伸び上がって柱に手をかけた。……大事ない、少し一人にしてもらえるだろうか。その声は案外としっかりしている。真田はそれを聞き、少しだけ膝でにじり寄った。気分が悪いのならば部屋を用意させるが。いきものはうつむいて、まだえづくようにしている。しかし真田の提案にはかたくなに首を振った。その拍子に胃が揺れたか、また首を伸ばすようにして腹の中身を吐き始める。びちゃびちゃと音をたてて庭の砂に吐瀉物が巻き散らかされた。その背中をさすってやりながら人の気配を探すが、このあたりに人はもういないらしい。遠く、大広間のあたりだけが篝火に照っているのが屋根越しに見えた。
豊家による上洛の達しに、最後まで渋っていた東国、西国の大名がここ何日かで相次いで京に上った。今日はその歓待の宴である。主家が誰であるかはもう忘れた。そういう宴は毎夜のように開かれている。真田もそういうものにはすっかり飽いてはいたが、政はそうもいかぬ。父の名代でなんどか末席を汚した。
いきものは柱に掛けた手をずるずると下げて、肩で息をしている。もうすっかり吐き出してしまったのだろう。それまで不規則だった呼吸が少し落ち着いたようにも見えた。失礼と言いおいて、背中をさすってやると、そのてのひらの下で分厚い筋肉の固まりがうごめくのが判った。
ふと、それまでうつむいていた顔が跳ね上がる。白い表がわずかな灯りに露わになった。下げ髪にした長く黒い糸が、顔の右半分を覆う。ふとその様子が、真田の胸を打った。その様子が相手にも知れたのであろう。いきものは少したじろくように体を揺らせたあと、さなだ、と口にした。
此度上洛した大名の中に伊達の名前があることには気づいていた。気づいて、そうして宴への参加を促す知らせが届いたとき、真田の胸が波打ったことは否定できない。二つ返事で参加すると応え、しかしそれでどうするかなど考えないようにした。所詮真田など小大名の一端にすぎぬ。事実、宴で真田に用意されたのは縁に近い末席であったし、伊達は遠く上座にいたように思う。広い部屋では顔の色さえうかがえぬ。ただ、健勝であることを知って胸の内がすっと晴れたのを覚えている。
戦でぶつかっては一騎打ちを繰り返し、何度も刃を交え、死ぬのならばこのひとの手にかかって死ぬのだと、当然のように思っていたあの頃はすでに遠い。世はすでに豊家の手によって太平へと導かれつつあった。真田もまた赤揃えや二槍を行李にしまいこんで何年も経つ。鍛錬を欠かしたことはないが、この足でいくさばに立ち、前線に炎を放つ機会は失われてしまった。その事実に耐えきれず、息もできずに日々うめいたのももう遙か遠い。
そうして腹の底でほとんど消えかけていた種火が、なぜだかちろちろと赤く燃え始めた。真田は少し首を傾げ、おひさしゅうござる、と小声で告げた。伊達の鋭い左目が、すっと細まる。汚れた口元を手の甲で拭って、すっと顔を逸らした。何年ぶりだ、と言う。
……さあ、もうひどく昔のようでございますな。老けたな。伊達殿はそうお変わりなく。てのひらの下で、小刻みに背中が揺れる。笑っているようであった。そういう様子さえ、真田には新鮮に映る。思えば、いくさばでの様子しか互いに知らぬ。目の覚めるような青い陣羽織をひらめかせ、六つの雷刃を繰り出す伊達のその姿が、目の前にうずくまる小さないきものに重なってはじきに消えた。
それは伊達にとっても同じであるらしい。柱に背をもたれさせて、改めて真田の様子をうかがってくる。そうして、目をぱちぱちと瞬かせた。老けたな、ともう一度つぶやく。息の方が多いような声であった。そのたびに上下する胸が、まだ怖気が伊達に残っているのを知らせた。そう言ったきり、伊達は黙ってしまう。あるいは今、真田が胸に詰まらせているものを伊達もまた身のうちに湧かせているのだろうかとも思う。庭に焚かれた薪が大きな音をたてた。そうして、二人とも沈黙に身を沈めた。
りん、と鳴いていた虫が、いっときその声を止めた。そうして、伊達がすっと腰を上げる。しかしその膝はすぐに崩れてしまう。てのひらが大きく床を叩き、げえっと喉が鳴った。はらわたすべてを吐き出そうとするかのように大きく口を開いて、伸びた舌からぼたぼたと胃液が滴る。ばねのように真田の体が動いた。その背中をさすってやる。どうも様子がおかしい。宴の席で真田がうかがう限り、それほど酒杯を空けていた様子はなかった。嫌な予感がいっとき真田の胸によぎる。このような席でそんな暴挙に出る輩がいるとは考えにくいが、伊達の苦しみようは酒精によるものの域を脱していた。
……伊達殿、まさか。静かにそう呟くと、床についていた伊達の手が持ちあがって真田の肩にかかった。押しのけるようにして力がこめられる。体を離して、伊達はくちびるを手で拭った。……違う、料理に嫌いなもんが入ってただけだ。そのような。昔ちょっとあってな、苦手なんだよ、体が受け付けねえの、もう大丈夫だろと思って口に入れたが無理だった。はは、と伊達は笑う。もう随分経ったのになあ。そう呟いた。そのそばから、ぐっと首の後ろがせり上がる。喉が鈍く鳴った。ゆっくりと吐き出される息。失礼、と真田は呟いた。人差し指と中指を伊達の顔の前に差し出す。なにを、と伊達の目が真田を向いた。開いた口の中に指を入れる。喉の奥を強く押してやると、ぐうと伊達の喉が鳴った。筋張ったてのひらが真田の腕に絡む。指の付け根に伊達の前歯が当たった。噛み切られても文句は言えまい。だが伊達の歯はやわく押しつけられるだけである。なぜだかその感触に背筋が粟立った。やがてえづきながら伊達は胃液を吐き出してゆく。もういい、と伊達が胃液に焼けた喉で言うまで、そうしていた。
柱に背をもたれさせて、真田を見上げてくる。その目尻はわずか赤らんでいた。白湯を、と言い、その乱れた前髪を整えてやる。白く盛り上がった瞼が震える。悪い、と伊達が呟いた。構いませぬ、少しお待ちを。足早にその場を後にしながら、右の、その指を気にしている。彼の中の、やわい粘膜の様子。もうすっかり空気が冷たくなったせいであろう。背筋が震えた。
第七官界彷徨(090913)
10000hit企画「嘔吐する筆頭」