あんことクリームどっちがいいと訊かれてあんこと答えた。男はやっぱりそうだよなと言いながら鯛焼きを二つ注文している。やがて両手に持った鯛焼きの一つをこちらに寄越して、しまったという顔をした。
大学購買のピロティでは冬になると鯛焼きや、たこやきを売る屋台がときどき出ている。商売は繁盛している。今日も朝の十時頃にその脇を通ると、何人かが朝食のついでにと列を作っているのを見た。昨今の不景気であんこの量が減ったやら、たこが小さくなったという噂も聞くが、それでも学生の懐具合を察して一尾八十円、十個二百五十円で提供してくれるのはありがたいことなのではと真田は思う。
……男は気まずそうに目を泳がせて、ああだのううだの唸っている。真田はビニール袋と雑誌で両手が塞がっていたので、雑誌を小脇に挟んでありがたく差し出された鯛焼きをちょうだいした。ごちそうさま。代わりに、ビニール袋の中からホットコーヒーの缶を寄って彼に渡した。男はこの季節だというのに、薄いジャケット一枚だ。マフラーすら巻いていない。もしかしたら冬国育ちで寒さには慣れているのかもしれないが、見ている分には寒々しさのほうが勝った。……その真田の一連の動作に目を奪われている男に軽く会釈をして、きびすを返す。スニーカーの足は軽く階段をかけ降りた。所属している研究室までは五分ほど歩く。右手に持った鯛焼きをじっと見つめて、頭からかぶりついた。あんこは先の先まで詰まっていて、思わず舌を焼いた。
その次に会ったのは、図書館のロビーだった。中途半端にできた実験の合間に、新聞でも読むかと足を向けた先である。すでに陽は落ちていた。夕食の時間で、研究室の皆は出払っている。財布には八百円しかなかった。奨学金と仕送りの金がやってくるまでもう少しある。霞でも食うしかあるまいなあととぼとぼと歩いた。理系の院生はバイトをする暇もないのが現状だ。
彼はコピー機の前でぼんやりと液晶表示を見つめていた。一枚紙が吐き出されるのを待ってページを一枚繰り、またスタートボタンを押す。その繰り返しの動作が延々と続いた。学部生はテストの時期なのだろう。ウォータークーラーの冷たい水を飲み、腹の足しにする。新聞を手にとって椅子に沈み込んだ。後ろから読み始める。四コママンガ、地方記事、スポーツの結果、連載小説、三面記事。すっかり活字を読み終えてしまって、新聞を畳んだころにはコピー機はもう静まり返っていた。代わりに、はす向かいに彼が座ってコピー紙の束を選り分けている。きちんと端を揃えて半分に折る様子に彼の几帳面さが伺えた。外に目をやる。街灯がぽつぽつと緑陰を照らしている。夜が濃い。
そうして目線を前に戻すと、彼があんぐりと真田を見つめている。この間は気づかなかったが、右目に医療用の白い眼帯をしていた。切れ長の目をめいっぱい見開いている様子がなんだかおかしくて真田は少しだけ口元を緩めた。……鯛焼き、ごちそうさまでした。あ、いやこっちこそ、コーヒーを。人違い?え?誰かと間違った?……ああそう、後ろにいるの、てっきりダチだと思ってたんで。そうして、黒くて硬そうな髪をかく。止まっていた手元の作業を再開させた。もうほとんど紙は折り終わっている。……テストが近い?
彼はなにを言っているんだという顔をして真田を見る。そうして数秒のちに、見る見るうちに顔をこわばらせた。……院生?
あの顔は面白かった、と真田は思う。そういう、あどけないとも言えるような顔しか見てこなかったので、今真田は少し困惑している。日付が変わってしばらく経った。研究室からの帰りである。夜はもう爪先まですっかり降りてきてしまっていた。冷たい空気をかき回すようにして足早に歩を進める。寒い。
彼は真田の数メートル先、電柱の傍に立っている。そうして熱心に足を動かしていた。薄いジャケットと、マフラーのない寒々しいすがたは相変わらずである。足下に、人が転がっている。彼は間断なくそれを蹴りつけている。なにか文句を言うでもなく、無言でそうしている様子はどこか常軌を逸していた。見れば街灯に照らされた白い頬も血と泥で汚れている。足下のそれはもうずっと動かない。彼がそれを踏みつける度、地面に投げ出された腕が反動で動いた。
そっと近づいて、背後に立った。その腕を引く。もう止めといたほうがいい。そう告げると、ぎらぎらと振り返りしなに真田を睨みつけていた左目が一瞬揺れた。ああ、と唸る。あんたか。ぼそりと低い声で呟いて、目を足下に戻した。真田もつられてそれに目をやる。彼と同い年ぐらいの男である。顔の怪我は彼と同じぐらいだが、着ている服はずたずたであった。これ、このまま放っておいたら死ぬか。……さあ。十一月も終わりに近い。
終電はもうないが、通りに出ればカラオケもネットカフェもあるからと彼は言う。その格好で?と訊くと、初めて気づいたとでもいうふうにまじまじと腕や胸、腹に飛び散った血を見つめている。顔もひどい。そう告げると、どおりでなんかバリバリすると思った、そう言って口元に固まった血を拭った。そんななりで途方に暮れた様子が少し滑稽に思えた。笑ってしまう。うちに来るかと言ってしまったのは、多分低い気温も関係しているのだろう。
汚れた服を洗濯機に全部放り込んで、洗面所に彼を押し込んだ。ジャケットは濃い色をしているのですぐにはそれと判らないだろう。泥を払ってハンガーに掛けた。真田が寄越したTシャツとジャージを着て、タオルを血塗れにして洗面所から顔を出してくる。そのタオルも、洗い途中の洗濯機に入れた。あいにくと、消毒薬や絆創膏のたぐいは持っていない。そう告げると、いや、そこまではと彼は言った。よく見ると、前髪に薄く隠れた右目のあたりも怪我をしている。ソファにぐったりと座り込んだ、それに無造作に手を伸ばした。あ、これはもともと。触れる直前に彼が呟く。もともと?そう、ガキのころに。
指の先で、ふ、と彼が笑った。そうすると口元や頬の傷が痛むのか、少しだけ顔をこわばらせる。だが一度沸いたものは止められないのか、腕に口元を押しつけてくっくっと笑う。とうとうそれでは抑えきれずに、ソファに額を押しつけて背を揺らせた。
もうそろそろ会うと思ってた。……三度目だから?そう。ソファから上げた顔は、傷や痣がなければ、やはりあどけないと言ってもいい表情をしている。多分、自分もそうだ。真田はふとそう思う。二度あることは三度目もあるし、そう意識した途端その先の回数は意味をなくす。
体は疲れていたが眠気は飛んでいた。冷蔵庫から研究室から頂戴した発泡酒の缶を取り出して、ちびちびと二人で飲む。彼は泡がしみるのかしきりと口元を拭っていた。どうでもいい話をしたと思う。その内容を真田はほとんど覚えていない。ただ一つ、覚えている。便所に立とうとする彼の横顔に、名前を問うた。彼はニヤリと笑って、伊達、と言う。伊達政宗、……冗談みたいな名前だろ、全然血筋とか関係ないけど。ふらつきながらワンルームの部屋から出てゆくその背中を見送りながら、発泡酒の缶を空にした。伊達政宗。口の中でその名前を転がす。冗談みたいだろ。彼の、少し酔っぱらったような浮かれた調子の声がもう一度頭の中に響いて真田は少し笑った。冗談みたいだな。
濃い夜と(091018)
10000hit企画「真田先輩と伊達くん」