煙草の先から灰が落ちる。彼はそれに気づいていないようで、ただぼんやりとそれを口にくわえたままだ。煙を吸い込むでもなく手すりにもたれている。どんな顔でいるのかは判らない。目深にかぶったキャップが頬に濃い影を作っている。真田が部屋に近づくにつれ大きくなる足音に気づいたか、キャップの下の目が真田を向いた。相変わらず寒々しい格好は変わらない。もうずいぶんと短くなった煙草を靴裏で消して携帯灰皿にしまう様子は几帳面極まりないが、それが彼の一側面でしかないことを真田はもう知ってしまっている。彼は薄いくちびるでにっと笑んで、片腕をあげた。
 あれから、あの寒い夜から二週間ほどが経っていた。それまでに伊達が真田の部屋に現れたのはこれで都合三度目である。一度目はあの夜の翌々日であった。日曜日は昼まで寝ることに決めている。その部屋のインターホンが昼過ぎ、真田がもそもそと起き出した頃に鳴らされた。宅配便の知らせはなかった。レンズから外をのぞくと、見覚えのある長い前髪の顔がゆがんで写っている。ドアを開ければまだ怪我だらけの伊達の顔がぎこちなく笑う。
 唐揚げを作ったから、と言う。差し出されたビニール袋には唐揚げの詰まった大きなタッパーが入っていた。あんた、なんかあんまり食べてなさそうだったから。……助かります。寝起きの、まだ働いていない頭でそう返す。タッパー、百均のだから返すこととか考えなくていいから。ジャケットからのぞく手はまだ腫れ上がっている。鬱血した跡がそこここに浮いた。そんな手で料理ができるものだろうかと真田は思う。だが伊達が帰ったあと、テーブルの上で開けたタッパーの中身はどう考えてもスーパーの総菜の味ではなかった。少し冷めてはいたが、奥歯で噛んだ途端肉汁があふれる。
 二度目は、避けようと思えば避けられたと思う。しかし体はそれに反して動いていた。関わり合いになることを望んでいたとしか思えない。お互いにだ。そうして、帰り道の途中、小さな公園のベンチに倒れていた伊達を拾った。今度もひどい怪我をしている。目の周りは痣で腫れ上がって、口の周りも血塗れだ。頭が揺れる度に砂がぱらぱらと落ちた。……息はある。
 肩を貸して起きあがらせた。真田のアパートまでは普通ならば歩いて五分ほどだ。それが、十五分かかった。苦労して階段を上り、玄関先に彼の重たい体を転がす。お世辞にも丁寧には扱えなかったが、彼は目を覚まさなかった。硬い筋肉で覆われた体が呼吸の度に上下する。汚れた服をそれからはがす。腹周りは痣だらけだ。顔の血を拭い、ベッドに押し込んだ。洗濯機を回しながら、真田は暗い部屋に座り込んでいる。窓から差し込む薄い光のみが光源であった。……まだ、冷凍庫に彼の寄越した唐揚げが残っている。首を巡らせると、夜闇に慣れた目が傷だらけの青白い頬を写した。呼吸は穏やかだ。一つため息をつく。毛布にくるまって床で寝たら、翌朝には背中が少し痛んだ。彼はまだ傷だらけの顔で眠っている。
 そうして、伊達はまたこうして真田の部屋の前にいる。手にはビニール袋を提げている。鍵を開けながら彼を振り向くときょとんとした顔をさらした。中に入るよう促すと、少しだけ嬉しそうな顔をする。テーブルの上に置かれたタッパー。コロッケを作ったからと言う。金曜日の、深い夜である。
 いつから待ってたので?自分と彼のジャケットをハンガーに掛けながら問う。……九時ぐらい?キャップをいじりながらそう寄越してくる。目の周りの痣はだいぶ小さくなったが、顔のそこここに浮かぶ傷はまだ痛々しい。白い顔を絆創膏だらけにして、ぎこちなく笑う。院生って、大変なんだな。
 冷蔵庫にはかろうじて発泡酒の缶が四缶入っていた。それを開けて、彼のコロッケをつまむ。お世辞でもなんでもなく、うまいと、思う。伊達は缶を傾けるたびに顔をしかめていた。傷にしみるのだろう。血まみれの彼の顔や、服、痣だらけの腹周りが脳裏に浮かぶ。……余計な御世話かもしれないけど、そういうの、ちょっと控えたらどうだろう。伊達は発泡酒を啜りながら腫れた瞼を伏せている。うん、と小さく言う。
 しんと沈黙が降る。エアコンの稼働音が部屋に満ちた。ぐっと缶を干してしまって、伊達は空のそれをテーブルに置いた。アルミ缶特有の、軽い音がする。そうして無言で立ちあがった。ジャケットに手を伸ばそうとする、その顎のあたりを見上げる。タッパー、百均のだから。そう言い置いて伊達は部屋から出ていった。階段を降りる金属音が冷えた空気に響く。真田は空になった缶を手にぶら下げて、じっと床を見つめた。穏やかに膨らんだ彼の瞼の様子が浮かぶ。余計なことを言った。もう伊達はここには来ないだろうと、そう思う。

 唐揚げもコロッケもすべて食べてしまった。空になったタッパーは、不燃ごみの日に捨てた。いつのまにか師走が過ぎ去ろうとしている。研究室のカレンダーには二十五日に赤く印がうってある。教授たちを交えての研究室の忘年会である。最初は文句が出たが、特別用事があるわけでもないのだ。二十四日は日曜日である。へっぴり腰で研究室に顔出すなよと冗談が交わされた。
 忘年会シーズンは店側も忙しい。二時間という時間制限は厳守してくれと言い含められた。七時から始まったそれはあっという間に終わって、教授をタクシーに押しこむ。寒空の下をぞろぞろと二次会の大衆居酒屋へと歩いた。気温が寒いと話題も寒い。就職活動がどうだ、論文の出来がどうだ、年明けの学会での発表の用意がまだできてない、そんなおしゃべりがそこここで交わされている。寒いなあと真田は思う。博士課程まで進学することを決めているので就職活動はまだ関係ないが、最近の実験結果は芳しくなかった。寒い。
 ふと、嫌な音がした。一緒に歩いていた後輩がぎょっとした顔をしている。ネオンに照らされたその顔が橙に浮かび上がる。思わず顔を見合わせた。店と店の間の、狭い路地である。肉のぶつかる音と、呻き声と、怒声。ああ、と思う。これで何回目だろう。もう回数は関係ないのか。後輩に先に行くように告げて、路地に入った。後ろで後輩が困ったような声で呼んでいる。冷たい空気が首を撫でる。思わずマフラーを締め直した。
 相変わらずの薄着でいる。白目がギラギラと光る。相手の襟首を持ち上げて額を打ちつける、そのたびに乾いた髪がばらばらと揺れた。二人とももう血みどろだ。ずるりと力を無くして座りこんだ相手を見下ろして、彼は血交じりの唾を吐きかけた。はあと息を吐き、壮絶な笑顔で膝をその顎に打ちこもうとする。相手の耳のあたりを掴む。その、肩を叩いた。
 もう、そのへんで。
 ぴりぴりと真田のうなじを叩いていた空気がしぼんだ。真田を向いた目は、あどけない。だから少し常軌を逸している。あんたか、と彼は呟いた。言って、足元を見下ろす。これ、このままにしておいたら死ぬかな。呆然とする伊達の傍らに座りこみ、男のジャケットのポケットを探った。携帯電話の着信と発信を調べ、頻度の高い番号をいくつか選択する。あ、俺、今ちょっと動けないから迎えに来て、***の裏の路地にいるから。やがて繋がった相手に早口でそう告げて、通話を切った。念のために男のジャケットでその表面を拭う。
 立ちあがって彼の顔を覗きこむと、左目はすっと真田から逸らされた。……怪我は。ため息ののちにそう問いかけると、彼は小さく首を振ってくる。真田が踵を返すと、足音がそれについてくる。真田のアパートまでは、ここから歩いて二十分ほどかかる。無言だった。少なくとも、彼は無言でずっと真田についてきた。

 部屋に着くなり服を脱がした。どれもこれも砂と血で汚れている。風呂場に押しこみ、エアコンのスイッチを入れる。それでもまだ人心地がつかない。ベッドにもたれて天井を見上げていると、幾分かましな様子になった伊達が部屋に入ってきた。洗濯機はまだ回っている。
 真田がずっと無言なので、伊達も口を開かない。少し離れたところに座りこんで、同じように天井を見上げている。……コロッケ、おいしかった。そう呟くと、空気がわずかに揺れた。目だけを伊達に向けると、左目の、その白い部分が光っているのが見えた。その瞼のあたり、まだ塞がっていない傷から血が浮かんでいる。手を伸ばしてそれを拭った。指先が触れた瞬間、彼の体がびくりと震えたのが少しおかしかった。
 熱いシャワーを浴びて部屋に戻ると、彼はもう真田のベッドに潜りこんでいる。緩やかに膨らんだ布団を横目に、髪を乾かした。テレビのリモコンを持ち上げるが、クリスマスの夜の番組はどれもこれも浮かれていて、どうもこの空気には合わないな、と思う。電源を落とすと、しんとした空気が足元から湧きあがってきて窒息しそうだ。伊達は布団に丸まってはいるが起きているのだろう。そういう気配がした。
 そうしていると、末端から冷たくなってくる。生乾きの髪のまま、布団をめくり上げた。シングルサイズのベッドは男二人が寝るには狭すぎる。伊達がもぞもぞと端に寄ろうとするのを捕まえた。腹に腕を回すと、彼の体が緊張するのが判る。これが、つい先程まで殺気を撒き散らせていた男かと思うと気が抜ける。寒いから、と真田は呟いた。合わせた背中と腹から、じわりと体温とは違う熱が湧いた。いつか近いうちにそういう仲になるのだろう。血と泥にまみれた彼の体がまなうらにちかちかと瞬く。或いは、ぎらぎらと目を光らせた様子。おそらく彼が本気を出したら、俺などひとたまりもないであろうなと他人事のように思った。そんな、熱く恐ろしいものが大人しく真田の腕の中にある。それがひどくおかしかった。吹きだした息で彼のうなじの髪が揺れて、頬にそれが優しい。

濃い夜に(091024)