伊達の口元が動いたので、なにごとかと耳をすませたがひとりごとであったらしい。足元で土が鳴る。大きく振りかぶってボールを投げて寄越す。大きな弧が蒼穹に描かれる。雲はすでに遠い。少し前まで空を支配していた積乱雲は海上に去った。千切れた綿のような雲が点々と空を覆う。秋である。
 右に少しそれたそれをキャッチャーミットで捕球する。バシィッという小気味いい音が少し気温の低い空気に響く。少し助走をつけて高く上空に放った。今の今まで己の手の中にあった白球が、次の瞬間空に踊る。この瞬間こそと長曾我部は思う。十数メートル先で伊達は両手を広げて空を見上げている。オーライ、オーライ。その背景に川面がギラギラと光り、思わず片方しか効かない視界を狭めた。
 少し動けば汗ばむ陽気である。随分と低い軌道を描く陽が二人の影をわずか長くした。パーカーのジッパーを下げていると、同じように向こうのほうで伊達も上着を脱いでいる。河川敷のダイヤモンドはいまだに汚されてはいない。数分前に伊達と長曾我部でトンボをかけられたままの姿をさらしている。チームメイトに集合の約束はしていなかった。暇だという伊達を誘ってグラウンドにやってきて、こうしてキャッチボールをしている。もう一人二人呼んで、ノックでもやればよかったかなと思っている。平日昼間、堤防の上を行くのは暇そうな散歩老人とそれに就いて歩く柴犬のみである。
 大学の知り合いや、バイト仲間と始めた草野球チームはいまだに人数がゲームをするまで揃っていない。方々に口を聞いて探してはいるがあと二人足りなかった。その中でも経験者は五人だけだ。あとの二人はスポーツ経験者でも野球はかじったことがないという初心者である。始めたばかりであるし、なにより草野球だ。細かいルールはどうでもいい。気持ちよくボールを打って、走って、うまい酒が飲めればそれに越したことはないと長曾我部は思っている。
 上着を腰に巻きつけて、伊達はぼうっと突っ立っている。脇に挟んだグラブはそこから動かない。どうした、と叫ぶと、なんでもねえと返ってくる。白球を握った右手をぐっと突きだして、スライダー投げるから座れ!と寄越す。馬鹿言え。長曾我部はにやにや笑いながらそれでも腰を下ろした。右下にミットを構える。セットポジションから投げられたボールは大きく右にそれて、長曾我部は体を流してやっとのことでそれを捕球した。使えねースライダーだなおい、もうちっとコントロール磨けや。うっせーよ。憮然と伊達はそう叫んだ。
 少し縫い目のほつれ始めたボールをミットの間でこねながら、足元の土をならした。顔を上げると、やはり伊達はぼうっと長曾我部の向こう、空を見つめている。視線の先を追う矢先、足早にその横を伊達はすりぬけていった。いつのまにか土手の中腹に男が座っている。もうほとんど芝の緑は失われた。トーンの低い色相に男の着ている赤い上着がきつく目を刺す。秋の、気候のいい平日の昼である。天気もいい。やあやあと声を上げながら練習をしている様子をこうして土手で見物してゆくひとは、多いとは言わないまでもぼちぼち目にした。
 呆気にとられている長曾我部をおいて、ずんずんと伊達は土手を登ってゆく。そうして男の目の前に立った。慌ててその後を追う。……あんた、この間もその前もいたな。伊達がそう言っているのが、小さく長曾我部の耳に届いた。向かい合う男はきょとんと伊達を見上げて、首を傾げる。よう御存知ですなあ。歳のころはほとんど変わらないように思うのに、やけに時代がかった喋り方をする。それには伊達もびっくりしたようで、ぱちぱちと音のするようなまばたきをした。にわかにやってきた沈黙を、遠く救急車のサイレンの音がかきまぜる。振りかえった先の川面がギラギラと目に痛い。ははっと、伊達は笑った。
 聞けば、学部は違うが同じ大学だと言う。真田と名乗った。伊達が見せろと言って広げられた手にはマメが硬くなっている。誘うと、真田は二つ返事で了解してみせた。セカンドと外野ができると言う。……基本的に複数ポジションが守れるよう、というのが方針でしたから。立ち上がり、尻を払いながら真田は言った。目線は伊達と同じぐらいか、わずか低い。強い目をしている。その目で、真田は伊達の様子をじっと見つめている。視線に気づいた伊達が肩を揺らせると、ふいと顔を逸らした。入部試験などが?長曾我部にそう問うてくるが首を振る。趣味でやっているような草野球にそんな大層なものはない。セカンドはもう埋まっているから外野でいいか?異論はござらん。イロン?横で伊達がまた肩を揺らせている。
 遠投が得意だと言うので、伊達と連れ立って河川敷に下りてゆくのを長曾我部は土手に腰を下ろしながら眺めた。膝の上で指を組んで、真正面の陽に目を細める。少し翳ったか、空気は黄色くなっていた。もう随分と陽が落ちるのが早い。堤防の上を小学生の集団が走ってゆく。キャッキャッと声が上がる。大きく助走をつけて放たれた白球が、ぐんぐんと伸びて大きく弧を描く。その様子がひどく眩しくて長曾我部は眉間を思わずつまんだ。あと一人。あと一人で野球ができる。

close encounter of the white(091107)