隣で殺気がぶわりと湧いた。あ、と思ったときにはもう遅い。伊達は手にしたペットボトルを地面に叩きつけ、当の真田の胸倉を掴んでそのこめかみに拳を叩きこんでいた。真田の体がアスファルトに転がる。持っていたコンビニ袋からおにぎり、総菜パンとガムがこぼれでた。その合間を縫うようにして伊達の足が進む。痛みに緊張している体をもう一度引っ張り上げて、今度はその額に頭を打ち付けた。真田がぐうとうめく。緊張していた伊達の腕は次には弛緩して、それと同時に真田はもう一度アスファルトに落ちてった。鈍い音がする。振りかえった伊達は目をぎらぎらと光らせて、その様子を見つめていた毛利と長曾我部を睨みつけた。……あいつが入るなら俺辞めるわ、セカンドもできるっつってたし、イロンはないだろ。低い声でそう寄越してくる。首に巻いたマフラーでぐっと口元を隠して、二人の間をすり抜けていった。
 やっと九人揃ったのになあと横で長曾我部が呟いた。まったくだと毛利はため息をついて、道に、ひしゃげたペットボトルとともに転がっている真田を見やる。気温は低く、なにもかもが白っぽい。光量の少なさのためか、晴れていてもどこか視界はすすけている。長曾我部は真田の傍らに座りこんで、その頬を叩いている。おい、起きれるか。うなっているのを見下ろしてもう一度毛利はため息をついた。こめかみが切れてしまって、血が滲んでいる。放っておけばすぐに塞がるような、些細な傷である。少なくとも、真田がその口から放った凶器で伊達が受けた傷よりは、些細なものであろう。伊達の歩いていった方向に顔を向けるが、もう繁華街の雑踏にまぎれてしまって背中すら追えない。しまったなと毛利は口の中で毒づいた。自分が追えばよかった。しかし全身でなにもかもを拒絶していた伊達に近づけたかどうか。
 やっとのことで上半身を持ち上げた真田は砂利で汚れたてのひらでこめかみの傷を拭っている。その腕を引っ張って立ちあがらせた。まだ脳みそが揺れているのだろう。ふらふらと背中を揺らせているが、構わず転がったペットボトルを拾いあげて真田に持たせた。
 あいつはああ言ってたけど、悪いけど抜けてもらうのはお前になるかも知んねえから。長曾我部は早口でそう真田に告げて背中を向けた。途方に暮れた顔をしている真田にちらりと目をやって、毛利もまた踵を返す。
 あいつが殴らなかったら俺が殴ってたな。モッズコートから取り出した煙草に火をつけながらそう長曾我部が呟いた。石がもうないのか、なんど擦っても火がつかない。毛利はポケットを探って、百円ライタを差しだした。お、悪い。煙が鼻先をくすぐる。携帯を取り出して、伊達の番号を呼び出した。さしあたって、合流せねばならないだろう。飲み会や忘れた頃にのみ練習に参加するような幽霊要員とは別に、やっと九人揃ったと思ったのに、また一人、いやあるいは二人抜けてしまうかもしれない。

 で、連絡つかねーの?氷のほとんど溶けてしまったろうコーラをずるずるとストローで吸いこみながら、前田は呟いた。電源切ってやがんの。長曾我部は貰いものだと言うストラップを一つつけた携帯をテーブルの向こうに押しやった。フライドポテトを黙々と口に運んで、毛利はその鏡面加工された小さな機械を見つめる。着信があるわけでもないのに、長曾我部の携帯電話はいつもLEDを光らせている。幸村のほうは?知らね、つかあれはあいつが全面的に悪い。まあなあ。がしがしと長い髪をかきながら、前田は唸っている。
 ……あのとき、重たい液体の入ったペットボトルを、真田は伊達の右側から投げて寄越した。そうして、なんなくそれを掴んでみせた伊達に向かってこう言ったのだ、あの男は。見えては、いるのですな。その後にこう続けた。その目でようボールが追えますなあ。
 悪気があったわけではない。貶す口調でもなかった。ただ単純に真田は疑問を呈しただけなのだ。だがそういう放ち手の意図とは関係なく、言葉は受け手の解釈によってどうとでも姿を変える。
 伊達の右目は、幼いころに負った怪我が原因でほとんど視力を失っている。ぼんやりと光を捉えられる程度であるらしい。気にされるのが癪なのだろう。眼帯やアイパッチ、眼鏡の類はしていないから周囲でも知らない人間のほうが多い。だが違和感に気づいた人間が尋ねれば嘘はつかない。伊達はそういう人間である。訓練をしているおかげで日常生活に支障はないが、中学時代からシニアで続けていた野球を高校で続けることができなくなった原因はそこにあると聞いている。それ以上の詳細を毛利は知らない。二遊間を組む上で支障がないのであれば問題はない。事実伊達の守備能力は並み以上だ。確かに右側からの刺激には多少反応は鈍いが、それをカバーしてあり余る脚力とコントロールのよさがある。それは、持って生まれた才能でもあろうが、才能のある者にはそれを常に磨き続けなければならない義務がある。
 すでに陽は落ちた。ガラス窓から冷気が這い寄る。毛利は温くなったブレンドを一口含み、頬杖をついた。繁華街の端にあるファストフード店は今の時間帯、学生で賑わしい。狭い雑居ビルの一階と二階に店舗を広げていて、二階の席はほとんどテキストを広げている学生で埋まった。もう少し時間が遅くなれば、待ち合わせや酔いざましに訪れる社会人で溢れかえる。
 せっかく九人揃ったのになあ。前田がポツリと呟いた。道を挟んで正面にある家電量販店の照明がガラス窓を通して、ひどく眩しいと毛利は思う。道行く人の足は早い。師走はまだまだ先だが、このところ時間が過ぎるのが速いのであっという間にやってくるだろう。年が明ければ気温が上がり始めるのももうすぐそこである。

 二人と別れ、駐輪場で自転車を拾った。繁華街を通り過ぎ、河川敷に向かう。伊達が長曾我部とキャッチボールをしているときに真田を拾ってから、もう二週間ほどが経った。あと一人の欠員は、真田の従兄だという猿飛で埋まった。何回か練習で顔を合わせたが、人好きのする男である。だが真田が辞めるというときになったとき、果たして猿飛が残るだろうかと毛利は思う。首元から入り込んでくる空気の温度が、思考を冷えさせた。一度グラブの中におさめたボールをファンブルして落とすような真似を毛利は好まない。
 街灯すらない堤防の道を自転車のライトが照らす。タイヤとの摩擦音のみが冷えた空気に響いた。目を凝らさなければそこに川面があることは判らない。ねっとりとしたなにかが緩やかに動いているのが判るのみだ。時折、遠い光が川面を照らしてゆらゆらと揺れる。緑のバックネットを視認して、毛利は自転車から降りた。堤防の中腹に、人影がある。毛利の気配を察したか、ゆっくりと振り返った。……真田か。その顔がくしゃりと歪んだ。前に向きなおってしばらくうなだれていたが、意を決したか勢いよく立ち上がる。尻に付いた土を払いながら堤防を上がってくる。……どうも。低く告げてくる声は無惨だった。伊達でなくて、よかったろう。自転車を引きながら毛利は口元を歪める。それには答えず、真田は毛利の隣についた。手にはあのときのまま、コンビニ袋を提げている。
 そうして道中、伊達のことを少し話した。真田を咎めるような口振りになってしまうのを極力抑えたが、やはりそう聞こえてしまっても仕方はないだろう。真田は毛利が話している間一言も口を挟まなかったし、毛利が知っていることをすべて話したあとでもそれは変わらなかった。……長曾我部はああ言ってたが、せっかく九人揃ったんだとは思ってる。最後にそう寄越して、毛利は横に目をやった。もう堤防をすぎて、まばらに街灯の灯る線路沿いである。時折轟音をあげて列車が通り過ぎた。細い照明に、真田の顔の影はいっそう濃い。殴られて腫れた目元が赤く鬱血している。そっとため息をついた。ここから歩いて十数分ほどのところにあるバッティングセンターの名前を告げる。……そこにいなかったら、今日はもう諦めろ。
 サドルにまたがる。動こうとしない真田に毛利は口の中で舌を打った。毛利より何センチか高いはずの背は小さく丸まって、いっそ哀れだ。いつも陽の気を放っているような男に、なにがそうさせているというのだ。街灯の明かりが眩しい。毛利は少し眉をひそめた。
 あのときお前はなにも言わなかったな、伊達に殴り返そうともしなかった、それはお前に後ろめたいところがあるからだろう、失言だったと認めるのはいいが、それを向こうに示さないでなにが反省だ。
 弾かれたように真田が顔を上げた。血の気の引いた頬をさらしてくる。その目ばかりがぎらぎらと光った。無言で頭を下げ、来た道を走ってゆく。その背中が夜に消えるのを待って、毛利はペダルを蹴った。額を冷たい空気が切る。冬を越えたら春がくる。そうしたら野球ができる。

close encounter of the white 2(091108)