最初に見かけたのは、真実あの河川敷である。ダイヤモンドを囲ったネットの脇で、銀色の髪の毛と黒いのがキャッチボールをしていた。その二人をたびたび見かけたと思ったら、今度は人数が一人二人と増えていった。大学の、図書館裏の空き地であの独特のかけ声を聞いたのも二度や三度ばかりではない。キャッチボールしかしていなかったのが、ノックをするようになり、バッティングの練習をするようになり、人数もだいぶ増えたところで、初めて彼と目があった。よく覚えている。図書館裏のベンチに座って、購買で買ったおにぎりを食べていたときだった。グラウンドの向こうから銀髪の男が打った緩いゴロを、腰を落とした彼は難なく捕球して送球する。その次には、ぐっと深いところに速いゴロが転がる。間に合わないだろうと思ったのが、その次の瞬間彼はものすごいスピードでボールに駆け寄り股の間のグラブでそれを掴んだ。わずかに送球の位置がずれたが、誤差の範囲だ。思わず米粒をかきこんだ口を開けた。少し息を荒らしたその肩がびくりと揺れる。前髪と横の髪を後ろにくくったその顔が真田を向いた。目があったと思った。強くぎらぎらとした目だった。
その目が殺気を帯び、自分へと向かってくるのを真田は呆然と見つめていた。コンパクトに振りかぶった腕は正確に真田のこめかみを打ち、痛みよりも先に熱を感じた。そうして、地震のように視界が揺れる。思わず顔を歪める。胸元を引き上げられ、今度は額に衝撃を感じた。そうして真田の目にはもう空の青と、まぶたの裏の赤がモザイクになったのしか映らなくなってしまった。その間の記憶さえ薄い。おそらく一瞬であったろう。彼に投げたペットボトルの冷たさがやけにしみた。
青と赤のモザイクは、やがてじわじわと黒に浸食されてゆく。絵の具の黒のようなあっけらかんとした色ではない。パレットの上の色を全部混ぜて彩度をひどく落としたような、こってりとした黒である。そこにぼんやりと黄色い光が瞬いている。街灯の光である。線路脇に、等間隔に立てられた目印の光。全速力で真田は走る。線路脇から、コンビニの角を右へ。飲食店の並ぶあたりを抜け、少し静まったあたりに深海の潜水艦のようにそれは息づいている。あたたかな黄色い光、そこから心臓の音のように響くバッティングの澄んだ音。その数メートル先で真田は走る足を止めた。息など切らしてはいない。わずかに踊る心臓をなだめながら、バッティングセンターの入り口をくぐった。
一番手前のケージには高校生らしき未発達の背中がうずくまっている。白い開襟シャツは防具で覆われた。マシンが繰り出す白球はバシィッという小気味よい音をさせてミットに収まった。丸まっていた体がぐっと盛り上がり、捕球した球を向こうに放る。そうしてまたキャッチング音。しばらくその背中を眺めていた。そうして、数年前の、高校生だった頃の自分を思い浮かべた。
そうした感慨はすぐにかき消される。金属バットの甲高い音が真田の耳を貫いたためだ。視線を送ると、一番奥のケージに人が入っていた。こちらを向いて、左打席に入った人影。真田はそっとため息をつく。伊達は右打ちである。踵を返そうとしたその背中を再び打球音が叩く。鈍い音であった。思わず振り返ると、バットを提げた人影が真田を向いて動こうとしない。唸る音をさせてマシンは白球を吐き出したが、それは彼の前を横切っただけでネットにあえなくぶつかった。そうして、もう一球。その球がネットにぶつかるより速く、真田の目は彼の目をとらえていた。ぎらぎらとした、強い目である。
ケージに近寄ると、伊達はちらりと視線を真田に寄越しただけでまた左打席でバットを構えた。空気を切るボール。バットはボールの上を通り過ぎて、ぐるりと空振った。舌打ちの音が聞こえる。もう一球。今度は当たったが緩いゴロであった。
見えているのか。真田はぶるりと背中が震えるのを感じる。キィン、という澄んだ音をさせて今度は右手にライナーで伸びていった。見えて、いるのか。
もう一度殴られてもいい。半殺しにされたって構わなかった。彼の血反吐を吐くような鍛錬に比べればそれがなんだというのだ。見えているのでござるか。そう問いかけようとした真田を、うるせえなと伊達はさえぎった。じろじろじろじろ見てんじゃねえよ、散れ。
真田に目をくれることすらしない。ゆらゆらと背中からなにかがたちのぼっては消える。空気を切る音をさせてバットは白球を遙か向こうのネットに押し込んだ。ハハっと伊達が笑う。ざけんじゃねえぞ!ビリビリと声を響かせて、もう一度伊達の体に力がぎゅっと込もる。しかし力みすぎたのだろう。ボールはバットの上っ面に当たって高くフライとなった。
音をたててバットが足下に転がる。左右に首を鳴らしながら伊達はケージから顔を覗かせた。真田に一瞬視線をくれ、物言わずその横を通り過ぎる。白い、能面のような顔であった。恐ろしくさえある。その真ん中で、目だけが違ういきもののようだ。
伊達殿。思わず呼びかけた。それで伊達が足を止めるはずもなかったが、構わずもう一度その名を呼んだ。広がっていた二人の間の距離はだんだん狭まるが、しかし伊達の背中は頑なである。乱暴な二人の足音の間を、先程の高校生のキャッチング音が埋めた。腕を伸ばす、その肩に手をかける。渾身の力でもって振り向かせた伊達はギロリと上目に真田を睨みつけた。あえぐように息をする。堤防に座り込んで息を潜めている間、深海を走っている間、彼にかけようと考えていた言葉の数々はあえなく腹の底に沈んでしまって、喉元まで上がってくることはなかった。代わりに真田の口元から出てきたのは低い低い声である。
……謝りはせぬ。
ぎゅっと伊達を睨みつけて、それだけ真田は絞り出した。真田を睨みつけていた伊達はそれを聞いてわずかに眉を痙攣させ、肩に乗った手を乱暴に引きはがした。言いたいことはそれだけか。真田が眉をしかめて黙っていると、鼻を鳴らして視線を斜めにやる。謝りにきたなら今度は半殺しにしてやるところだったけどな。にやんと笑って、伊達はそう呟いた。そうして、踵を返す。スニーカーの足音が遠ざかってゆく。たまらず、伊達殿ともう一度呼びかけた。なんだよ、と入り口近くで伊達も声を張り上げる。しかし野球はしたいのだ!勝手にやりゃいいだろ!
そなたと、野球がしたい!
入り口近くで伊達が絶句している。きょとんとそれを見つめ返して、真田は己の言った言葉の、なにがおかしかっただろうかとふと思った。
思い出されるのは高校の一年生だったあの時代である。そのとき真田は投手をしていた。コントロールもままならず、変化球もスライダーの一つしか投げられない、真ん中に投げ込む速球だけが売りのピッチャーだった。夏大が終わって、それでも蒸し暑い日の続く頃である。新人戦の、中継ぎとして登板した真田に対したのはメットの下でぎらぎらと光るひどく恐ろしい目であった。左打席である。ゆっくりと構えたバットは真田の速球をかろうじて打ち返したが、ボテボテのゴロになった。マウンドの右手に緩く転がる。しとめたと安堵して、ボールを拾い上げた真田の耳を、ファースト!と指示する声が鋭く突き刺した。グラブの中でボールを握り直す。上げた目線の先で、バッターはもうあと二、三歩でベースを踏み抜く位置にいた。間に合わない。焦った真田の送球は大きくファーストの頭上を越えた。バッターはスピードを緩めない。コーチャーズボックスの選手が腕をぐるぐると回している。ダイヤモンドにボールが戻ってきたときには、彼はセカンドベースの上にいた。
結局その次の打者にライト前に運ばれて、真田は公式戦初登板を失点一という成績で終えた。覚えている。そのときホームベースを悠々とスライディングで奪った彼の姿。ユニホームの土を払いながら真田を睨みつける目。小さく、にやんと笑った口元。しかしそれ以降の試合で彼の姿を見ることはなかった。バックスクリーンに書かれた伊達の二文字だけが白々と真田の腹の底で発光し続けている。その冬に真田は外野手に転向した。……もう彼と対戦することがかなわないならば、せめて伊達が一塁と二塁の間で打球のために腰を落として構える、その後ろ姿だけでも、と。
そう思って真田は両のまぶたを腕で押さえつけた。なに泣いてんだよ。思ったより声が近い。呆れたような色である。泣いてなどござらん。じゃあなんなんだよ今の。……言葉の通りにござります。あんたが入るなら俺は辞めるって言ったよなあ。辞められるので?
ああ?と伊達が声を張り上げた。目の先に、眉を吊り上げた伊達の顔がある。頬が赤く照った。一人で野球はできませんぞ。言って、真田は伊達のするように片頬を上げて笑って見せた。彼のするように、うまく笑えただろうか。
三本のうち、一本でもホームランにできたら戻ってきていただけますか。歪めていたくちびるを引き結び、横のケージを指さした。じっとその目を覗き込むと、左目がぎょろりと動く。束の間泳いだ後、伊達の口は勝手にしろとかたどった。ケージに入る真田の背中を、どうせできやしねえだろという声が叩く。140キロだ。さて、と真田は息を吐いた。左打席に入る。そのうなじに、彼の視線が刺さった。痛いほどだ。
一球目を空振った。勢い余って体勢を崩し、視界のすみに入った伊達の顔をとらえて真田は思わず息をのんでしまう。途方に暮れたような、顔をしていた。なんという顔をしているのか。そう思うが首を強く振り、雑念を振り払った。今は打席に集中せねばならない。ただ速いだけの、ど真ん中のストレートである。思い切り振り抜けば飛ぶ。二球目は低いライナーである。もう少し、もう少しと思う。
バットを握る手をじっと見つめる、その頬に痛いほどの視線を感じる。そっと目をやれば、少し怒ったような顔の伊達がそこにあった。目が合う。上目に睨みつけてくるそれが、ぎらぎらと光っている。マシンに向き直る。スローモーションで起動するその機械。全身の筋肉の緊張。
はっきりとした手応えとキィン、という音が重なる。白球はホームランと書かれた板に確かにぶち当たって、地面に落ちた。しばらくその方向を見つめていた。ああ、と伊達が息を吐くのが聞こえた。ゆっくりと振り返ると、伊達もまた打球の伸びていったほうを見つめていた。視線はゆっくりと真田に移る。その目が眩しいものを見るように細められて、そうして次の瞬間やわらいだ。真田は衝撃の残る手でバットを持ったまま、口元を緩めてケージを出る。もうすっかり夜も更けた。しかしその夜が明ければ朝になる。そうすれば彼と野球ができる。
close encounter of the white 3(091115)