かの人から頂戴した硯である。存命の折、手紙を送ったことがある。上田の桜もそろそろ満開になる故、酒を用意してお待ちしておりますと書いて送った。その返事には、領内の瑣末事に追われて誘いには乗れないこと、いつか夜桜でも眺めながら酒をともに飲みたいと書かれており、一緒に届けられた包みにはこの硯がおさまっていた。書状の最後に走り書きされた鍛錬なされよとという言葉に、己の字の汚さを遠回しながらたしなめられてひどく赤面した。
 すと背を伸ばし、墨をする。しかし結局かの人と酒席を囲むことはなかった。甲斐と奥州の同盟の折には大きな酒宴が開かれたが、かたや国主、かたや一介の武将に過ぎぬ。真田は末席を汚すのみで、上座で己が主とかの人が楽しそうに酒を飲みあうのをちらちらと見るしかできなかった。あわよくば声をかけてはくれまいかと期待していたが、しかし自分から膝を進めることもできずにいる臆病者にかける言葉などあるまい。畢竟酒宴もたけなわになる前に主とかの人は連れ立って席を立ってしまった。……外ではせみが喧しい。筆を握る手にも汗が滲む。ようよう書き終え筆を置くと、額から首、うなじのほうまで汗で濡れている。やはりひとところにじっとしているのは性に合わぬ。
 そうしているうちにすっかり時間がたってしまったようで、庭から差しこむ光はすっかり黄色くなっている。上空、積み上がった雲は複雑な影の色をしている。畳に後ろ手に手をつき、その様子をじっと見ていると、西のほうからぐんぐんと雨雲が這ってきて、一気に空が暗くなってしまった。そのままてのひらを畳に滑らせて、音をたてて後ろに倒れこむ。頭の後ろで腕を組み、瞼を閉じしな、バタバタバタと夕立のやってくる音がした。途端にあのにおいが鼻に流れこんでくる。
 かの人の最後は他ならぬ真田が見送った。瞼を閉じれば一年の経った今でも鮮明に浮かび上がってくる。目の覚めるような青の陣羽織が土ぼこりとかの人の血に汚れる様子や、かろうじて露出した左の、白い頬が返り血で染まる様子や、己の槍がその脇腹を貫いた様子、最後の言葉。だからこれは真田の作りだしたまぼろしなのだろうと強く思う。とうとう部屋中に蔓延しはじめたあのにおいに真田は低く唸る。土ぼこりが雨に打たれたときに発するあのにおいである。皮膚の下の血流に入りこんで、体を鉛のように重たくする。
 それでも片手をついて起き上がり、濡れ縁へと足を運ぶ。びしょぬれの白い足が覗いている。障子に手をかけて窺うと、群青の着物をびしょぬれにさせてかの人が寝そべっている。膝のあたりまで群青はまくれあがっていて、白いふくらはぎが水滴をはじいた。雨を吸って重たくなった着物が背中にべたりと貼りついて、その中心を這う蛇を露わにさせている。……風邪をひきますぞ。ようやくそう舌に乗せると、伊達はゆっくりと頭を起き上がらせて真田に目をやった。右目に眼帯はなく、疱瘡で潰れた痕が髪の隙間から覗く。だったら早く脱がせろ。そう言うなりさっさと袖から腕を抜いてしまう。さらしと着替えを取りに行き、戻ってみるとやはり元の通りに濡れ縁に寝そべって、先程から一歩も動いてはいない。その間に夕立はすっかり止んでしまって、その湿気に息をするのも億劫だ。
 弛緩する腕を引っ張り起き上がらせる。諸肌の肩、腹、腕、びしょぬれの肌を拭い、最後に頭に布をかぶせた。いってえな。文句を言う口を無視して滴をひっきりなしに落とす髪を乾かしていく。あらかた水分を吸い取って、濡れた着物をすっかり剥いだ。いくさ傷と疱瘡の痕の残る体に着物を着せ、柱に背中を寄り掛からせる。
 ああもう駄目だ、雨もすっかり止んじまった。晴れているほうが視界もききましょうに。駄目だ、駄目だ。雨でないと駄目な理由を、伊達はちっとも話そうとしない。春先からひょっこりと現れたときからずっとである。だから、真田は伊達がもうそういういきものになってしまったのだと思うようにしている。雨でないといけないいきものだ。真田がそういうふうにしてしまったのだ。鳥になどしてやれるものかとあのとき願ってしまったのだ。
 弛緩していた体が動く。裸足のままで庭に下り、腰に手をやってもう向こうのほうに行ってしまった雲を眺めている。真田もまた立ち上がり、部屋の奥、誰かに見つからないようにこそりと隠した行李の中に手を伸ばす。右手に重く硬い感触。左手に己が得物を持って真田もまた庭に立った。独眼竜の背中は夕日を透けさせてひどく赤い。血潮の色である。
 四爪は最後の一騎打ちで駄目になってしまっていた。最後の最後で伊達のてのひらから引きはがした二爪を、足元に投げる。先を丸めてなどいない槍をその喉元に突きつけるようにして構えた。おう、と伊達は嬉しそうに笑う。薄いくちびるを、右手の親指をぺろりと舐めて、その一振りを上段に構える。ぬかるむ土を蹴った。みる間に迫った伊達のあの特徴的な目が、真田を射る。ああこの瞬間こそと真田は思う。両の槍に炎がともる。その頭蓋を叩き潰すようにして振り下ろすと、帯電した空気がバリバリと音をたてた。暗雲が再び空を覆う。水が飛び散る。それはさきほど伊達のふくらはぎを濡らしていた色であったか、それとも夕暮れの色であったか。

血潮の色しか見えぬ(090104)