そういや言ってなかったけど、と学食の赤い箸を手に取りながらそのひとは言った。トレイにはネギトロ丼と、赤だしと漬物が乗っている。そのてを醤油刺しに伸ばし、ぐるりとどんぶりの中に回しがけた。俺、楽天ファンだから。十二時十五分、学食が最も混む時間帯である。白い長机には隙間なくびっちりとパイプ椅子が詰め込まれ、ひといきれで呼吸が苦しい。冷房は効いているのかいないのか判らない、そういう気温である。真田はその一言に虚を突かれ、間抜けにもはあと声を漏らした。米粒を口の中にかきこみながら、そのひとは片眉を吊り上げる。アンタは、どこファン?言外に、パリーグファンだったら容赦しねえと言われているようなものだった。眼帯に覆われているはずの右目からも殺気が押し寄せてくる。真田は目の前の五目うどんを見つめながら、ヤクルトですが、とようよう呟いた。
 ヤクルトぉ?真田の隣に座っていた長曾我部が素っ頓狂な声を上げる。唐揚げを口の中に押しこみながら、俺ヤクルトファンにあったの初めて、そう言う。そりゃ四国にヤクルトファンなんてそういねえんじゃね。そう言いながらそのひとはもうどんぶりを空にして、赤だしを啜っている。真田は慌ててうどんを啜りこんだ。つるりと滑るマイタケが、喉に詰まって苦しかった。
 昼時、教養棟近くの学食は戦場に近い。おしゃべりなどもってのほか、早いところ飯を腹に詰め込んで席を立て。そういう空気である。十分で食事を済ませて席を立った。ほどなくその席は次にやってきた学生で埋まる。食器を返却口に音をたてて置き、蒸し暑い通路を歩く。出入り口が陽に照らされて眩しい。
 購買に向かうという長曾我部と別れ、次の講義のある棟までぶらぶらと歩いた。たかだか二三分歩いているだけでこめかみに汗が浮かぶ。まだ梅雨すら本格的に始まっていないものの、そういう季節が近づいてきている。隣でライターをする音がした。一本もらえますかと問うと、メントールだけどと返ってくる。構わないと答えると、緑色の箱が目の前に突き出された。メントールが鼻に、ツンと抜ける。久しぶりのニコチンが染みた。
 あー、と唸り、眉の間をつまむと隣でそのひとが笑う気配がする。きッついの吸ってるんですね。まあなあ、と言いながら煙を吐き出す、その目の先で長い前髪が揺れた。その背中が揺れる。購買に行っていた長曾我部がそのひとにタックルをかましている。スポーツ新聞をデニムの尻ポケットに捻じ込んで、うまい棒をくわえている。コーンポタージュ味とサラダ味が目の前に突き出されるが、瞬時にサラダ味はそのひとの手に持っていかれてしまう。靴の裏で煙草の火を消し、そのスナック菓子を腹に収めた。
 つうわけで代返とノートよろしく。また去ってゆく長曾我部の背中を二人して見つめながら、一つ息を吐いた。つか俺気づいちゃったんだけど、とそのひとは呆然と呟く。虚を突かれて真田は間の抜けた声を出してしまった。今日の試合ってヤクルトとじゃね?それが交流戦のことだと気づくのに数秒かかった。
 ……真田がパソコンとテレビをつないで、某ポータルサイトにアクセスしている間に、そのひとは夕飯の準備をしている。すでに発泡酒の缶は一つずつ開けられていた。小鉢に盛られたキムチとチャンジャを箸でつまみながら、するすると滑る時計の針を追った。長針と短針が一直線になる。ライブ動画をクリックすると、しばらくのブランクの後に芝の緑と赤土が眩しい球場が映し出された。
 テーブルにゴーヤチャンプルーと焼いたスパムが置かれる。先発誰?石川と……ラズナー。石川ってあのちっさいの?はあ、まあ、小さいですね。発泡酒の缶を飲み干しながら、その外国人選手の第一球がキャッチャーミットに投げ込まれるのを見つめる。隣に座ったそのひとの息の詰まる音さえ聞こえてくる。ビニール袋の中から、汗のかいた缶をもう一本取り出してプルトップを起こした。
 どうもそういう雰囲気ではないことに気づいたのは、4回の表が終わった頃だった。そのひとは冷奴を乱暴に箸で崩しながら眉をしかめている。2-0で楽天が勝っていたのを、その回ガイエルがスリーランでひっくり返した。2回裏に山崎が先制ホームランを打ったときは飛び上るほどそのひとは喜んで、真田もその笑顔を微笑ましいと思って見ていたのだが、どうもこれはそういう和やかな雰囲気には戻れない様子である。少しだけ、ほんの少しだけ真田は後悔を始めている。この人は他チームファンと酒を飲みながら野球観戦をするということに関して、あまり空気の読めない人間であるらしかった。熱心なファンであることは認めるのだが。……当初の予定でさえこれでは達成は難しいのではないかと真田は思い始める。その後も、楽天が点を入れて同点になったのもつかの間また引っくり返され、9回表に3点入ったところでそのひとは観戦を半ば放棄した。ベランダに出て煙草を吸っている。テーブルの上の料理はもうあらかた互いの腹の中に収まって、あとは酎ハイの缶が一つ残るのみだ。そのプルトップを起こしながら、真田は立ちあがってベランダへと続く窓を爪で叩いた。9回裏が始まる。そのひとはちらりと真田に視線をやってすぐに手元に目を落とした。ライターの火が一瞬そのひとの手元を明るくして、彼の伏せた目を縁取る睫毛の陰影を露わにした。真田はそのまま窓に寄りかかるようにして酎ハイの缶を傾ける。アウトカウントが二つを数えたところで真田の携帯が着信を告げた。長曾我部である。ヤクルト勝ちじゃん。はあ。伊達なにしてる?ベランダで煙草。だろうな。だろうなって……。まあヤクルト勝ったし、頑張るんだろ?
 携帯のフリップを閉じながら、首を曲げてベランダを覗いた。丸められた背中と、その向こうに煙を見る。試合終了!と叫ぶ実況アナウンサーの声を聞きながら、もう一度真田は窓を指の付け根の骨で叩いた。ヤクルトが勝ったので、今日は頑張らねばならない。

5月19日火曜日晴天、観戦日和(091121)