グラウンドに、フライングで投げ込まれたテープを見て横に座る伊達は少し笑ったようだった。テーブルの上に置かれた発泡酒の缶を持ち上げて、一口含む。ライトスタンドからの応援歌と、あと一球、というコールがぐるぐると渦巻いている。かろうじてバットに当たったボールはきりかえられたカメラの先でショートゴロに終わった。実況アナウンサーがゲームセットを告げるより速く、ドームを歓声が包み、三塁側のベンチから選手たちがダイヤモンドに押し寄せる。
伊達の手の中で揺れていた発泡酒の缶が、軽い音をたててテーブルに置かれる。もうほとんど中身の入っていないような音だった。煙草吸ってくる。そう言って立ち上がり、ベランダに出る。薄いカーテンを通した外はすでにたそがれである。網戸から流れ込んでくる空気は相応に冷えた。バルコニーにもたれかかった伊達の丸い背中の向こうから、煙がゆらゆらと揺れて上空にのぼる。床に置かれたノートパソコンに手を伸ばし、ネット中継を切った。その途端に、沈黙が目に見えて足元に積もる。手にした酎ハイの缶を飲み干した。一つ息を吐いて後ろのベッドに寄りかかると、壁際のラックに置かれたデジタル時計が六時をさすのが目に入った。
夕飯はどうする、外で食う?夜の気配とともに伊達が部屋に戻ってくる。酒の空き缶で散らかったテーブルの上を見渡す。手にした缶を潰しながら、真田はそうですなあと答える。言って伊達を振り向くと、なにか途方にくれたような顔をしていた。そんな顔を見るのは、おそらく初めてであったように思う。煙草のパッケージを握りしめた腕さえ、力なく体の横にぶら下がっている。……あ、帰る?やがて呟かれたその言葉の意味を理解するまで少し時間がかかった。なんとなく、返事をしそびれてしまう。
ひしゃげた缶をテーブルに置いた。もう膝のあたりまで積もってしまっているそれをかき分けるようにして真田は立ち上がった。伊達はその横をすりぬけて、煙草をハンガーラックにかけたジャケットのポケットにしまう。そうして、ビニール袋に空き缶を放り始めた。カシャンカシャンとアルミ缶が躍る。つまみに少し残っていたさきイカを二人して口の中に放りこむ。ゴミをすべて片付けてしまって、暗転しているテレビに目をやった。ぼんやりと伊達と真田がそこに映りこんでいる。
この間の月曜日も、確かこんなふうだった。あの日はタイで迎えた三戦目で、ヤクルトが中日に負けて、第二ステージへの道を断たれてしまった日だった。負けると思って試合は見ていない。事実九回表、青木がホームランを打てば同点という場面では思わず歯を食いしばった。だが、それまでだった。バットが空を切った瞬間、大きく息を吐いて後ろのベッドに背をもたれさせた。終わったのだと思った。隣で伊達が、ゆっくりと息を吐くのが聞こえた。それだけだった。
この夏、こうして野球中継を二人で見たり神宮へ観戦に行ったりしたことは、両手の指では足りないぐらいである。巨人戦や阪神戦ならともかく、中日戦となると伊達はレフトスタンドに行くと言いだして、結局二人で見に来たのに別れて観戦するはめになってしまう。中継を見ていても同じざまだ。中日の勝利で試合が終わった日には、その場で徳川に電話をかけるものだから堪ったものではなかった。交流戦の時期などはもっとひどい。……それが、その日に限って真田を気遣うようなそぶりを見せる。
テーブルの上に芋焼酎の瓶がまだのっそりと佇んでいたが、これ以上飲む気にはどうしてもなれなかった。ペナントレースの最中だったら空にするまで飲んだろう。だがその日だけはどうしても駄目だった。みっともないところを見せてしまう。そう思って、伊達の部屋を早々に後にした。……あのときの空気によく似ている。なにか声をかけようとしてもどことなく口を開きづらいような、そういう空気である。終わりが重たく背中にのしかかって、どんな言葉も上を向いた口からは出てこない。……結局、二人してジャケットを着こんで玄関を出るまで会話はなかった。
ドアを開けた途端、冷えた空気が首元からさしこんできた。さっび、と伊達が小さく漏らす。コンクリートの階段を足早に駆け下りて、マンションの入り口に立った。物言わず伊達が真田を見つめてくる。
……王将は? うん? すぐそこだし、走って行って、すぐ食べて帰ってこれば七時に間に合うんじゃ……。帰んねえの?ぎょろっと目を動かして伊達がそう寄越すので、真田は思わず笑ってしまった。……帰っていいので?
意味を解した伊達はギュッと眉毛を寄せて、真田の向こう脛をおもいきり蹴った。やつあたりにしてはひどすぎる暴力だったが、とりあえず七時からの巨人中日戦の中継に間に合わないといけないので王将まで全速力で走った。
10月24日土曜日曇り、王将日和(091121)