吐息のほうが多い声だった。よく覚えている。野営中のテントの中で、伊達は猫の首筋に顔を埋めて眠っていた。眠っていたといってもただ目を閉じていたというだけで、頭の芯のほうは起きている。ここではそういう種類の睡眠しかとれない。
 だから、そういうかすかな声であってもすぐに気づいた。政宗殿。真田の声である。数人が雑魚寝をしているテントの中に、低く低く響く。伊達は閉じていた瞼を開けて、目の先にちらつく光に目をすがめた。開けた幕の向こうは星灯りを反射する雪のせいでほのかに明るい。伊達は折り畳んでいた体を少し伸ばし、どうしたと問いかけた。その声が少し大きくなった。体の横半分を預けていた伊達の猫がわずかに身動きする。その喉元をくすぐってやりながら、少し待てと猫に囁いた。真田の腕が伸びる。伊達は少し笑って、自力で立ち上がった。所在なさげに空にとどまった真田の腕が、なにか言いたげにゆらゆらと揺れた。
 その腕とともに幕の外に出ると、そこに猫の姿もある。真田の猫である。紛らわしいことこの上ないが、彼らは同じ名を持っていた。思ったより反射光がひどく、伊達は思わず眼球を押さえた。ぐうと真田の猫が唸る。そのうなじをくすぐっている、真田の腕。
 真田と伊達は幼年学校からのつきあいである。身分の上では伊達は将家の傍系には当たるが、その実半ば放逐された身であった。その後の人生を軍において全うするのだと伊達はそのころから覚悟していた。生家は弟が継ぐだろう。それを、母親も、母親の実家も望んでいた。彼らにもそれなりの矜持があるらしい。片目の鬼子が当主では対外的にまずい。その点、軍にいればその程度の障害など取り沙汰されなかった。少なくとも、この戦争においてはだ。伊達もその程度のことだと割り切っている。たかだか病で得た傷でしかない。しかし周りは伊達をそうは扱わない。幼年学校の講師でさえ伊達を腫れ物に触るように扱った。向こうから放逐したくせに、どういうバイアスがかかっていたかを伊達は知らない。興味もない。あのころの伊達は、いつこの国と他国が戦争になるだろうかと、そういうことばかり考えていたように思う。死ぬのならば戦場で、この血肉のなにもかもを飛び散らせて死にたいと思っていた。そうすれば片目であることなど、もう本当にどうでもよくなるだろう。
 伊達のそういうこころうちを、真田は知っていたろうか。少なくとも伊達から話したことはなかったが、剣牙虎隊に共に配属になり、実地訓練や野盗狩りの際には誰より一歩踏み出したところで目を澄ませている伊達の狂気は見知っていただろう。……いい男だった。いつも陽の気を振りまいていながら、太陽のように無神経ではない。
 彼の猫を真田と言う。同姓である。紛らわしいという理由でその猫を真田にあてがうことを大隊長は反対したが、どのみち同じことである。ひとの真田を名の幸村、猫の真田をそのままの名で呼ぶことがいつの間にか隊の中では慣例になっていた。真田と呼ぶと、彼と猫が同時に振り向くのがひどくおかしく、いつもそれでからかわれていた。
 ようやく慣れた目を上げると、ゆっくりと真田の腕から先から肉体が再構成されてゆく。黒の軍衣を着けた筋肉の固まり。軍帽の下で目が雪を反射して光る。この次に真田がなんと言うのかを伊達は知っている。映像はなにもかもが鮮明に脳髄に焼き付いている。その実、真田の存在そのものはなぜだかもう薄い。なにごとかを伊達に伝えているそばから、その目の光、その発熱している筋肉、彼の体を構成しているなにもかもがこころもとなくなってゆく。そうして、気づいたときには真田の体はそこにはなく、猫だけがそこに座っている。伊達をじっと見つめるその黄色い目の縁が、ぐっと赤い。先の戦争で、この猫がわずかに負った怪我のためである。
 そっと息を吐いて辺りを見回すが、ここはあの北領の戦場ではない。軍舎の奥、猫の宿舎である。猫と伊達を隔てている木造の檻のそばに膝を突いて、伊達は中に手を伸ばした。猫がそのてのひらに額をすりつけてくる。真田と呼んでみる。猫はぐるぐるとのどを鳴らす。今度は幸村と呼んだ。猫は束の間伊達の目の奥をじっと見つめたあと、その赤い目を細めて伊達の手を甘噛みする。
 あの戦争で伊達は己の猫と真田を失った。あの夜の、翌日のことである。真田は大隊と離れ、特別任務に就いた。あとからその内訳を聞いてみれば、なんのことはない、ただのおとりである。合流場所の指定はあったが、無理に合流する必要はないという命令が出ていた。その時点で、小隊の運命は決まっている。事実真田を含め数十人の小隊はその数十倍の敵国軍の足止めのためすべて散華した。唯一真田の猫を残して。
 よろしく頼みます。声のみが伊達の脳髄に響く。よろしく、頼みます。伊達は笑っている。なにをだよ?こいつを。そう言って、真田の腕が猫の喉をくすぐっている。そうすると猫はぐるぐると喉を鳴らして、伊達をじっと見据えてくる。こいつは、某のほかには政宗殿にしか懐かぬでしょう。だろうな。なにがあっても戻ってくるように言い含めてあります。……だから、なんの話だ。
 真田の腕が伸びた。伊達の視界が利かなくなる。目の前は暗闇である。感覚器に異常はない。吸った息は真田の体臭を拾った。饐えた臭いである。己も同じようなものだ。伊達は真田の腕に囲まれて、くくっと笑った。くせえ。そう言って笑った。真田も笑う気配がして、そうしてすっと空気が冷えた。伊達はひとりで雪原に立っている。かたわらに己の猫が血まみれになって骸となっていた。その首筋に顔を埋める。数年来相棒を務めてくれた猫は、もうすでに冷たかった。小十郎。名前を呼べば、少し頬が濡れた。その伊達にぐりぐりと鼻先を擦り付けてくる猫がいる。これもまた、血まみれの真田である。牙の端に、敵国軍の軍衣の端やら肉のかけらを引っ掛けている。それを血に汚れた手で取り除いてやりながら、その額を撫ぜた。あいつは、なんでお前を残したんだろうなあ。
 そういう夢をよく見る。伊達にも、それが夢なのか現実なのかがよく判らない。軍舎の寝床の上で目を覚まし、その天井がテントの幕でないことに安堵し、そうして安堵している自分を嫌悪する。ふらふらと寝巻のまま猫のいる宿舎に足を向け、真田の檻の前で夜を明かすこともあった。俺は病気なのだと伊達は思う。なにもかもをあの雪の上に置いてきてしまった。ここにあるのはただの動く肉の塊だ。幽霊に等しい。
 そう思って、真田の喉元をくすぐる。けもののにおいが伊達の胸いっぱいに広がる。首にまわした腕にがぶがぶと噛みついてくる。馬鹿、やめろ。剣牙虎の牙だ、一つ間違えたら話にもならない。笑いながら真田をなだめていると、真っ暗闇の中で真田の目がぎらりと光る。赤い目である。殺気を感じ取って伊達はわずかに背中を震わせた。
 あいつは、なんでお前を残したんだろうなあ。
 雪の夜のあの男の狂気だ。伊達はあのときの真田の目の光を思い出して戦慄した。
 よろしく頼まれたのは、どちらだったのだろう。ああ、と伊達は呻いて、そうして目を閉じる。目のふちを赤くした真田のその牙が、伊達の喉元に食らいつくのを待っている。
 そういう夢を、よく見る。

雪下心中(091122)