バイトが終わってそのまま友人のうちに雪崩れこんで朝方までずっと麻雀をしていた。ので、ひどく眠い。早朝でも夏の陽射しはそれ自体が暴力に等しい。西の空に積乱雲が積みあがって、その空の高さに目が眩みそうになる。Tシャツから伸びる腕にじわじわと水分の膜がはる。暑いと呟いて、その言葉に一度二度、気温が上がった気がした。
並木や塀の影を選んでふらふらと歩いているうち、次の角を曲がればもうすぐ根城にしているアパートである。犬の散歩をしている老人と二人すれ違い、この暑いのにジョギングに精を出す若者と一人すれ違った。流石に、目がちかちかする。今日は一日中寝ていようと前田は思う。思いながらアパート脇の階段に足をかける。音を鳴らせてそれを駆け上がるうち、最上段に足が四本揃っているのに気づく。見上げると、ぐったりしている男に肩を貸しているのが前田が階段を登りきるのを待っている。肩を貸しているほうの男は、見たことがある。一つ向こうの部屋に住んでいる、ひどく不愛想な男である。長い前髪をたらして顔半分を覆って、もうひとつの目をいつも剣呑に光らせた。
前田は少し顎を引いて、その様子を眺める。酒に潰れているのか、肩を貸されているほうの男はぐったりとして動かない。前田がしげしげとその様子を眺めているので、その男はその左目を細めて前田を睨んだ。体をよけながら階段を登りきると、男はその体をぐっと抱えあげてゆっくりと階段を下りてゆく。その背中を茫然と見下ろしながら、前田は後ろ髪をかいた。あの、と声をかけたが男が振り返ることはない。
そういえば、抱えられているほうの男は靴を履いていなかった。そう思いながら部屋の鍵を開ける。じきに、高い音をさせて階段を登ってくる音がする。その音が聞こえなくなる前に前田は部屋にするりと滑り込み、一直線にベッドに倒れこんだ。カーテンを引くのを忘れている。夏の陽が差し込んで、部屋のどこもかしこも明るい。瞼が血を透かせて真赤だ。真赤といえば、あの男の口元や目元も真っ赤に染まっていた。思考回路はすでにずぶずぶと泥の中に沈みつつある。階段を歩く音はそれから何回か続いた。そううつらうつらと前田は考えている。遠くからゴミ収集車のあの音楽が聞こえてくる。そういえば今日は燃えるゴミの日だったと、玄関の上がりかまちにたまったゴミ袋の山を前田は思い起こしている。
そうして、思考は急に浮上した。窓から差し込む光はすでに黄色い。手首に巻いたままだった腕時計は午後五時をさしている。汗をじっとりと含んだシーツに頬をすりつけ、深く息を吐いた。シャワーを浴びて、水を飲んで、このすきっ腹になにかを詰め込まなければならない。夢さえ見なかった睡眠のおかげで頭の中はすっきりとしていた。反動をつけて起き上がり、Tシャツを脱ぎ捨てる。冷蔵庫のミネラルウォーターのペットボトルを一息に飲み干してしまって、やわい感触のそれを手の中で小さくねじった。どう考えても夏向きではない長い髪をかき混ぜながらシャワーを浴びる。そうしてようやく人心地つく。
窓を開けると、少しだけ湿った風が吹きこんできた。灰色の分厚い雲が西から迫りつつある。珍しく夕立が来るだろうか。デニムの尻に財布をねじこんで、あわてて部屋を出た。追い立てるようにして東に逃げる。空気がおかしな色をしている。黄色いような、紫のような、走りながらこれが世界の終わりかと前田は思う。アスファルトを蹴り上げるたびにスニーカーが間抜けな音をたてた。
走って五分の立地にある老夫婦が経営している総菜屋で折り詰めを二つ見繕い、今度は西に走る。水分を含んだ積乱雲は南に流れてしまっていた。薄い色の空に遠く不穏な色の雲が浮かんでいる。走ったせいでまた汗をかいた。Tシャツの袖で顎から頬の汗を拭き取る。四つ辻を曲がる。足が止まる。
アパートのごみ捨て場からにょっきりと足が伸びている。思考が止まる。ひとつ息を吸って吐いて、前田はそろそろとそれに近づいた。コンクリートで仕切られたゴミ捨て場は、曜日が違うために回収されていないペットボトルの詰まったゴミ袋が隅に置かれているほかは綺麗なものである。そこに男が一人ぐったりとしている。投げつけられたようにスニーカーが一足散らばった。頭を垂れている様子は穏やかだがこの状態はなんら穏やかではない。きょろきょろとあたりを見回すが、今日に限って犬の散歩をしている老人も、ウォーキングに精を出す中年女性も見当たらない。その目の端に、ごみの収集曜日が書かれたプラスチックの看板が目に入る。今日は燃えるゴミの日だ。……あ、ひとって燃えるゴミじゃないんだ?ふと浮かんだそういう不穏な考えを、前田はあわてて打ち消した。
視線を感じて首を戻すと、茶色い前髪の下から前田を見つめている目がある。それも半分しか開いていない。両目の周りは赤く腫れて、白い部分は黄色くにごった。よくよく見てみれば口の端も切れてひどい有様だ。……どうも。そのくちびるがいきなりうごめいた。思わず声を出して後ろに飛び退いてしまう。男はそうしてゆっくりとゴミ捨て場におさまっていた体を動かし始めた。上半身から、下半身。散らばったスニーカーをのろのろと履き、顔についた血糊をTシャツで拭う。しかし乾いてしまっているそれは容易には取れないらしく、擦るたびにぱらぱらと乾いた血の粉が散った。
形ばかりに大丈夫かと問うと、心配はござらんとやけに時代がかった口調で男は答える。ようやく立ち上がった上半身はふらふらと揺れた。その首がぐるりと巡る。釣られて視線を沿わせると、アパートの二階の、ある部屋の窓が開いている。カーテンがゆらゆらと揺れた。政宗殿!男はそうその窓に向かって叫ぶが、窓に変化は訪れなかった。男は一つため息をつく。そうして、前田に会釈して道をよたよたと歩いて行った。
またも視線を感じて首を巡らせると、あの男がいる。カーテンの揺れる窓の柵にもたれかかって煙草をくわえている。前田を、あの剣呑な目で見下ろして夏の空に煙を吐き出した。右手に提げた折り詰めがもうすっかり冷めていることを思って、なんだか前田は理不尽な思いである。
可燃ごみではありません(091123)