気が向いたのでレジからちょっと目を離し、チャーシューまんを、と店員に伝えた。パックの牛乳とは別に袋に入れようとするのでそれを制し、手で熱いそれを受け取る。背中でありがとうございましたーと言う声を聞きながら、真田は薄曇りの空を見上げた。日本中が、年明けからずっとこんな天気だ。富士山にでも登らない限り、初日の出も拝めなかったろう。ジャケットの前を合わせて、ずっと鼻をすすり上げた。大晦日から日付の変わる頃こそ友人たちと過ごしたが、箱根駅伝の往路は一人で見た。年末、研究室から人が消える間際に准教授が言い出した一言のせいで、実家に帰りそびれてしまった。もともと帰ることに乗り気でなかったのもある。年に二回しか帰らない信州の実家に、真田の居場所はほぼないだろう。
学生の住むマンションの多いこのあたりは、正月と盆だけは少しもの寂しい。そのアスファルトをチャーシューまんにかじりつきながら歩いている。時刻は八時過ぎ。毎年惰性で見続けている箱根駅伝の中継が始まるまでまだ少しあった。ふと、部屋においてある焼酎の瓶の中身が気になって後ろを振り返る。コンビニまでの道のりを引き返すには、外の空気は冷たすぎた。
あ、という声がする。アパートの階段を上ろうとした矢先である。見上げると、キャップをかぶった伊達がそこに棒立ちになっている。すっかり見慣れた姿だ。手にはビニール袋を提げている。真田が目をしばたかせていると、伊達は少し笑った。実家、帰んなかったの。そっちこそ。俺は昨日戻ってきたの。階段の途中で立ち止まったままの伊達の横をすり抜け、コンクリートを踏む。階段の上から伊達を見下ろして、上がっていかないので?と訊いた。伊達はやはり少し笑って、ずっと鼻をすすり上げた。
こたつの天板に置かれたビニール袋はいつもより重い音をさせていた。つけっぱなしにしていたテレビはもうすぐ駅伝の中継を始めようとする。二人分のジャケットを壁に掛けながら、エアコンのスイッチを入れた。振り向くと、こたつの上に小さな重が広がっている。……総菜ばっかだけど。言いながらこたつ布団の中に潜り込み、もぞもぞと体を揺らせた。
形の揃っていない小皿を二枚、ストックの割り箸を二本、グラスを二つ持って戻る。残った焼酎の量は少し心許なかったが、お湯で割ってちびちびと飲めば数時間はもつだろう。いっとき、皿を箸が叩く音と、グラスが天板を叩く音、テレビからの実況アナウンサーの声と歓声が部屋を支配した。おせちなど、ここ数年まともに食べていなかった。きんとんや煮豆は総菜の味がしたが、煮染めや筑前煮、だてまきは彼の作った味がした。にわかにやってきた正月の空気が床板の近くに沈殿して、ざわざわと揺れる。
斜め横に座る伊達の顎から首のライン、その所々に貼られた絆創膏だとか、鬱血した跡ごしにテレビを見つめている。数ヶ月前まで非日常であったはずの伊達のそういう姿と、温もった空気、焼酎のにおい、駅伝の中継が馴染み始めているのを真田は感じた。真田自身が向こう側に引きずり込まれようとしているのか、伊達がこちら側に近寄ってきているのか、それは真田には判じかねたけれども。
……政宗殿。重の中身もあらかた片づけられて、彼の前のグラスが空になっている。焼酎の瓶も空に近い。テレビの中で選手は九区から八区を走っている。伊達はびっくりしたような顔で真田を振り向き、え、と呟いた。音のするようなまばたきをする。その頬がこたつの温度にか酒のためか赤く照った。そのあたたかそうな色と、口の端の痣の赤黒さのギャップがひどい。……もう。瓶の軽さを示すと、ああ、と伊達はこちらに戻ったような顔をした。深呼吸を一つして、これ終わったら帰るわ、とテレビを指して寄越す。そうして真田の、目の奥をじっと見つめてくる。左目はわずか、酒に澱んでいる。そういう目に見つめられるのは少しつらい。真田はそれから目をそらすようにしてグラスの中身を一息に飲み干した。少し喉が焼けて、頭の奥がぐらりと揺れた。……やっぱもう少しだけいる。そう伊達が呟く。左目はすでにテレビを向いている。もう少し?うち、こたつねーんだもん。背中を丸めて、口元のあたりまでこたつ布団を引き上げる。あいた隙間から少し冷たい空気が入り込んで、裸の足のあたりがにわかに冷えた。
最初にゴールテープを切ったのは、ここ何年か優勝から遠ざかっていた古豪大学だった。往路・復路ともに一位の、完全優勝である。その紫色のタンクトップが正月の空に映えた。紙吹雪が舞っている。その様子を少しの眠気と共に真田は見つめた。伊達はすでに落ちてしまっている。寝転がった背中が真田のほうを向いて、呼吸のたびに穏やかに動いた。小さなこたつの中で、足が触れそうになるのを真田は苦心して避けている。
空になった重をキッチンで洗い、冷たい水で赤くなった指のままリビングに戻った。テレビの電源を落とし、再びこたつの中に足を潜り込ませる。床に除けておいたノートパソコンを机の上に戻すかどうかを少し躊躇い、結局そのままにした。三が日ぐらいは研究のことなど考えたくなかった。……あんた、M2?唐突に伊達の声がする。いや、M1。あ、そう。そうしてまた黙る。それがなにか?M2だったらもう就職とか決まってるよなーと思って。M1でもこの時期にはもう内定がでている者もおりますよ。……あんたは?俺は進学するつもりですから。ドクタ?ええ。
そうして伊達は黙ってしまう。穏やかな寝息が床の上に降る。窓の外は、薄い雲を通った光でなにもかもが白っぽい。後ろに手をついて、しばらくその様子に目を細めた。俺は人の機微には疎い、と思う。もともと情緒のない人間だ。数値とデータで表せられない、はっきりしないものには深く関わりたくない。そこに足を踏み入れたら、ずぶずぶとはまってしまって戻ってこられないような、そういう根源的な恐怖がある。恐ろしいなあとふと思った。こたつの中の足を動かすと、足の裏が伊達のふとももに当たる。呼吸が、少し浅い。……政宗殿。呼びかけた先の背中はやはり動かない。テレビはバラエティの正月特番を始めた。駅伝中継とは違って音声の途切れない画面が、今ではひどく心強いと思う。くちびるだけで、笑ってしまう。足を畳んで、こたつに体を寄せた。……政宗殿。あと何回この名前を呼べばいいのだろう。早く起きてしまえばいいとそう思う反面、皮膚の下の血流がそれを否定する。こたつで温められた体液が全身を回って、首の太い血管から頭にのぼる。腰をいざらせて、床に左手をつく。体重をそこにかける。緩やかなあごと首のライン。ぱさぱさに乾いた髪がそれにかぶさる。相変わらず体を覆っているのはカットソー一枚で、その薄い生地の下で骨や筋肉が静かに息づいているのが一目で判ってしまう。……政宗殿。
右手をのばし、かさぶたの剥がれかけたくちびるの端に触れた。わずかに開いたそのうつろな洞窟に、指を差し入れたい、そういう欲求に駆られて親指を滑らせる。……政宗殿。ああ、自分の声ではないようだ。ひどい声だ。彼の中は熱くぬめっていた。いつも薄いくちびるの中からのぞいている白いエナメル質の粒一つ一つに触れてゆく。その奥の筋肉の末端。緊張をしていないそれは柔らかく真田の親指に触れる。しばらくそのざらついた表面を撫でていた。そのせいだろうか、にわかに湧いた唾液が伊達のくちびるから垂れ落ちる。それが右手指に触れた。そこから、血の温度が一度上がる。手が痙攣するのに合わせて、彼の前歯が真田の親指に噛みついた。……前髪の奥から、あの強い目が真田を見つめてくる。息が止まる。
伊達は真田の親指をくわえたまま体を起き上がらせて、後ろのベッドに背をもたれさせた。やわく押し当てられた前歯の感触は、今にも噛み切られかねない危うさを保っている。伊達のまぶたがいっとき伏せられて、もう一度持ち上がった。そのわずかな時間に親指が抜ける。唾液でべたべたになった右手をくうにさまよわせて、真田は。
そこから先はもう視界がハレーションを起こしてしまって、よく覚えていない。筋肉と太い骨でできた体を無理に開いて、中に入り込んだ。皮膚の下を流れる血の言うままに体を揺すって、何回か体液を吐き出し、そうしてまた中に入り込んで繰り返した。伊達は傷と痣だらけの体をさらして、ずっとシーツを握りしめていた。無体を強いた。なのに伊達は呻き声ひとつあげない。上下する胸から吐き出される速い息だけが彼の辛さを真田に知らせていた。一度も前を触らなかったのもあるだろう。彼が吐精したのは、最後の一回だけだった。真田の体液で汚れた胸を呼吸で荒らして、汗で束になった前髪の向こうからすがるような目で見つめてくる。もう少しで上りつめそうなそれを中から抜き出して、腹の上で揺れている伊達のそれと擦り合わせた。あぅ、そう伊達は一つ声をあげて、全身を震わせて達した。窓からの白っぽい光がそれを照らしている。ぬるぬると痣だらけの腹から胸を撫でていると、たまってたのかよと伊達は呟いた。茫然と呟くその様子がなんだか常軌を逸している。胸の、色の違うところを親指でいじると嫌そうに眉をひそめた。……そうかも、知れませんなあ。……ふざけんなよ、あんた、キスひとつ。
言って、伊達はぎゅっと目をつぶった。今のなしと呟いて枕に顔を埋める。俺は本当に人の機微に疎くて、情緒のない人間だ。そう真田は心底思う。汗のにじんだうなじが目の前にさらされている。それは、舐めたらきっと塩辛いだろう。どこもかしこも、そうだ。シーツの上にのたくっている体の曲線のすべて。それがひどく卑猥に思えて、そうして初めて真田は赤面した。
濃い夜へ(091129)