ベランダで煙を吐きながら、先程ぶるぶると震えた小さな機械について考えている。料理と発泡酒の缶の林立するテーブルに置かれた携帯電話が震えたのは、楽天が再逆転を食らったときだったと思う。思わずFで始まるあの単語を吐きそうになり、ぎょっとして横の真田の様子をうかがってしまった。そのときの真田の顔といったら、やにさがったようなニヤニヤとした笑顔でテレビの画面を見つめていて、伊達はそれでもう駄目だった。やはり自分は、他球団ファンと野球観戦をするのが向いていないのだ。試合に全く関係のないチームのファンならともかく、ましてや敵チームのファンである。
 ゆっくりと吐いた煙がゆらゆらと上空にのぼっていくのを見つめながら、目の間をつまんだ。フルキャストスタジアムの芝生と土のコントラストは、目が疲れる。……着信は長曾我部からだった。短いメールである。腐るなよ、誘ったのお前だろ。件名もないメールの本文はそれだけだった。その画面に一瞬目を通して、すぐにフリップを閉じてしまう。そうだけどよ。口の中だけでそう呟いて、伊達は腰を上げた。テレビ画面ではさらにヤクルトに追加点を上げられてしまっている。点差を確認し、次のイニングの先頭打者を思い浮かべた。逆転はもう無理だろう。ベッドの上に放り投げた煙草のパッケージを取り上げると、なにか言いたそうだった真田はちらりと伊達に目を向けただけで黙ってしまう。ベランダの戸を開けながら、歯の間から鋭く息を吐きだした。無声音は夜闇にまぎれてすぐに消える。フォローの一言ぐらい、入れろっての。真田もたいがい空気の読めない男だ。自分のことを棚に上げて伊達は煙草に火を付けた。
 コンコン、とガラスが叩かれる。振り返ると、真田の背中が薄いカーテン越しにもたれかかっているのが見えた。かすかに聞こえるテレビ音声が、試合終了を伝えている。一気に煙を吸い込んで、短くなったのを足元の空き缶に放り込んだ。戸に手をかけると、真田が背中を浮かせてくる。低い位置にあるその緩やかな額を眺めおろして、伊達は二つ瞬きをした。……アンタ、元親になんか言われた?ブグッと、喉が鳴る。口に含んでいたらしい酒をどうにか飲み干して、真田は涙目で伊達を見上げてきた。え、え?それか、元親になんか言った?きょろきょろと目を泳がせる真田を置き去りにして、伊達はベッドの上に煙草を投げる。テーブルの上に広がった料理の皿をひとまとめにして、酒の空き缶をビニール袋に放り込んだ。……洗いものするから、その間に風呂入っとけよ。あえて真田を向かずにそう告げたのだが、あまりに無反応なので恐る恐る振り返ってしまう。そうして、後悔した。手早く食器を持ちあげて、さっさとキッチンに足を向ける。手を水で濡らしながら、真田の惨状に舌を打った。あんな顔を赤くさせているのを見てしまったら、こちらまで顔に血がのぼってしまう。
 手を洗剤まみれにしていると、のろのろと背後を真田が擦れ違った。そのまま洗面所に入ってゆく。タオルと着替え、置いておくから。振り返らずにそう寄越すと、かたじけないと小さく真田が答えた。じきに、シャワーの音が聞こえ始める。洗い物やその他もろもろを片付けているうち、少しだけ血は下がってきた。リビングに戻ってベッドのシーツに顔を埋める。梅雨どきの、ぬるいはずのシーツが今はやけに冷たいと思う。
 そのまましばらくまどろんでいたら、背後でガタッという音がした。ゆっくりと首を巡らせると、Tシャツに水滴をたらせて真田が立っている。水分を含んだ髪は後ろに撫でつけられていて、陽に焼けた額があらわになった。湯にあたっていたというには赤すぎる顔で、いまだにきょろきょろと視線が定まらないでいる。ありがとうございましたと小さく寄越してくるのに返事をして、その横をすり抜けた。誘ったのお前だろ。長曾我部の言葉がやにわに頭の中に翻って、少し心臓がはねた。そういう意味で言ったのではないとしても、真田の様子があれではどうしようもない。

 髪を拭いたタオルを肩にかけ、リビングに戻ると真田はリモコンを持ってテレビ画面を注視している。ニュース番組のスポーツ報道が始まる時間だ。ベッドを背にして、隣に座る。NHKから民放をはしごして、セ・パ両リーグの順位表に見入った。……今年は、どうなのヤクルト。クライマックスシリーズでござるか。おお。阪神と中日次第でしょうなあ……。自信がなくても行けるって言っとけよ。喉で笑うと、しかめっ面で振り向いた。その顔の近さに、少し身を引く。真田もまた同じことを思ったらしく、なにか言いたげに開いていた口元は見る間に真一文字に結ばれてしまった。もごもごと、楽天は、と呟いているのが聞こえて、間髪入れずに今年は行ってやるよと呟いた。そうして二人して、代わり映えのない週間天気予報に見入っている。視線は動くことがない。真田は気づいているのだろう。フローリングについた手の、小指が触れている。不用意に体を動かせない。なにか一つでも間違ったら、その一瞬で奔流に飲み込まれてしまうのではないかという恐怖と、少しばかりの期待がある。
 やがてテレビは十一時台のバラエティ番組に切り替わった。騒がしい音声と賑やかな画面が、部屋にみっしりと詰まっていた静寂を少しずつ崩し始める。触れている小指は動かせないまま、互いに笑い声を上げては肩を揺らせた。しかしそれも、CMになってしまうと駄目だ。不自然な沈黙が裸足をざわざわと舐めてゆく。それでも下には視線を向けられず、かといって互いに目も合わせられずにいる。息を詰めて、その空白をやり過ごした。
 画面下を流れるスタッフロールを眺めながら、明日は?と訊く。……講義は、二つ目からですが。俺も。左様で。おお。ふと、落としてしまった視線が触れている小指を捉えてしまう。瞬きをしながらそれを見つめていると、真田のそれがもぞりと動いて離れていこうとする。皮膚がすっと冷えた。思わず、あ、と声を上げるとぎょっとして真田が伊達を振り返った。伊達の視線をたどったのだろう、息を飲む音がする。……元親に、なに言われた?視線を落としたままそう訊くと、ため息の音がする。ヤクルトが勝ったし、その、頑張れよ、と。なにを?顔を上げると、絶句した様子の真田がいる。見る間に赤くなってゆくのを見て、伊達も思わず目を伏せた。口の中で、小さく舌を打つ。動くに動かせなかった左腕を持ちあげようとすると、その腕もそっくり抱き込まれて頬骨のあたりを真田の肩にぶつけた。なにを、などと……。もごもごと小さく呟きながらも真田は伊達を抱き込む腕を緩めようとしない。耳の、皮膚の薄いあたりに真田の息を感じて伊達はブルリと体を震わせる。そのまま絞め技を決められてはかなわないと、なんとか動く顎で真田の肩をタップした。おい、しんどい。
 すると、今度は慌てて体を離してくる。その様子にもう笑みを零すしかなくて、伊達は口元を緩めた。真田はやけに真剣な目をしているくせに、その下でくちびるは中途半端に開かれては噛みしめられたりと忙しない。頑張るんだろ?そう寄越して口の端を吊り上げると、真田の目がわずかに動いた。視線の先になにがあったかを知って、いよいよ伊達は笑ってしまいそうになる。あと十秒待って真田が動かなかったら、伊達は自分からくちづけてやろうと、そう思っている。

5月19日火曜日晴天、観戦日和 その後(100104)