昼飯時になると長曾我部が購買の袋を提げてやってくる。だいたいこの男は前を向いて歩くことをせず、横を向いたり後ろを振り返りつつと忙しいので、今日も出入り口の鴨居に額をぶつけている。騒々しい音が空調の効いた温かな教室に響く。入り口近くで弁当を食べている女子などに、チカくん大丈夫ー?などと様子を問われ、もう慣れたもんよとへらへらと返している。ずれた眼帯をなおしながら、窓際で弁当をつつく伊達と徳川に向かって手をあげる。二人は箸をくわえながら無言でこの男に目を寄越した。
今日のおかずなに?と問われて、伊達は几帳面に今朝仕込んできた弁当の惣菜を見る。出汁巻き卵、金平ごぼう、じゃがいもと玉ねぎのサラダと、ブロッコリー、昨夜の残りの鶏の唐揚げ。白飯には赤い梅干しがのっている。唐揚げくれよ、焼そばパン一口やるから。長曾我部にそう言われて徳川は気前よく二つ詰めたうちの一つを長曾我部に譲っている。うっめえ、なんでこんなジューシーなん?おい、食べてる最中に口開くなよ。伊達は少し眉をひそめながら長曾我部の、鮮やかな銀色の髪を見る。彼がなにか頬張るたびに、わさわさと揺れた。
伊達が徳川の分の弁当も作り始めたのは一年前の春である。幼馴染二人してこの高校に入学し、少し経った頃だった。彼の両親は既に事故で他界している。父方の祖父母と共に暮らしていた。昼食用にコンビニの袋を提げて教室に現れた徳川に、伊達はこう言ったのである。そんな昼飯じゃ伸びるもんも伸びねえんじゃね。……徳川は中学の頃から背丈の小ささがコンプレックスになっている。小学校の頃は伊達と同じくらいであったのに、中学卒業時にはもうその差は歴然となっていた。今では歳の離れた兄弟と間違えられるほどである。……婆ちゃん叩き起こすわけにもいかないだろ。器用にサンドイッチのビニールを剥がしながらそう呟く徳川に、伊達はこの幼馴染に一つ貸しを作ることに決めた。どうせ弁当を一つ作るのも二つ作るのも変わりはしない。
番茶の香ばしい匂いが水筒からのぼる。伊達は徳川が持ってきたそれをすすりながら結露した窓を眺める。上空、風が強いためか雲の動きが速い。夏とは違うぼんやりとした色合いである。曇りなのか晴れているのかさえ判別がつかぬ。伊達は最後に残しておいた出汁巻き卵と白飯をかきこんで弁当箱を蓋を閉める。長曾我部はとっくに食べ終わったふうで、机の上にスポーツ新聞を広げている。彼のひいきの球団は昨夜はサヨナラ負けだ。
徳川と長曾我部が野球談議に華を咲かしている横で、伊達は壁にもたれながら教室の様子をぼんやりと眺める。右手に握った水筒の蓋がじわりと熱を伝えてくる。ふと、真ん中の列の、前のほうに座った男の姿が目に入る。あんな男がこのクラスにいただろうかと伊達は一瞬思い、いや、いたはずだと思いなおした。ただそれがこんな形で伊達の目には入ってこなかったというだけだろうと思う。男の髪は、無彩色に滲む教室の中で彩度を高く保っている。それが男を異質に見せている。彼は机の上に広げた雑誌を熱心に読み、前に座った友人と軽口を交わし、時折コーヒー牛乳のパックをすすっている。彼の背中のまっすぐに伸びているのを伊達は眩しく思った。……ふと、視線が伊達を向く。それすら意識せず伊達はぼんやりとしていたが、男は伊達と目が合うとにっと笑ってまた顔を雑誌に落とした。
おい、竜。徳川が伊達を呼んでいる。彼は伊達を本名で呼ばずずっとそのあだ名で呼んでいる。名前とこの右目をかの戦国大名になぞらえているのだ。伊達本人はかの血筋ではけしてない。父の出身は北陸である。母親が面白がってこの名をつけた。おかげで昔から大人受けだけはいい。
よほどぼんやりしていたのだ。手慰みに右手を動かしていたのも気づかずにいたらしい。水筒の蓋から茶がこぼれでて、長曾我部のスポーツ新聞を濡らした。長曾我部は馬はやんねえから気にすんな、と笑っている。なあ、あいつの名前なんてったっけ。唐突に問われ徳川はきょとんとしている。ややあって伊達の視線の先を探り、谷だろ、と返す。違う違う、その後ろのあの赤いの。そう言いながら、伊達は前にも同じようなことを訊いた気がすると思う。そうならば俺は本当に薄情者なのだ、クラスメイトの名前一つ思い浮かべられない。そう思い、とても愉快になって肩を揺らせた。なんだあ、と長曾我部が首をひねっている。もうすぐ徳川があの名前を言うのだろう。……赤いのって、真田だ、真田幸村。
気づいてしまえば、真田幸村というのはとても目立つ男だった。そうして、恐ろしいほど滑らかに伊達の日常に入りこんできた。例えば今、伊達は部活を終えて茶道部の部室に鍵をかけている。すると廊下の向こうのほうからなにやらどたどたと走る音がしてくるのだ。驚いてそっちを見ると、剣道着の真田が息を切らせて伊達の目の前に立っている。右手に面を抱えて、左手に竹刀をぶらさげている。頭につけたままのてぬぐいは、びしょびしょに濡れた額の汗を吸いこんで色を変えた。……、なに、どうした。片手で鍵を鳴らせながら問うと、今日は茶を点ててくれる約束だった、と切れた息で寄越す。そういえば第二水曜日である。その日と、第四木曜は真田に茶を点ててやる日なのだ。そういうことになっている。それが、最近のものなのかもうずっと前の知り合ったころからの約束なのか伊達にはもう判別がつかない。時折こういうことがある。断続的な記憶と、不連続な記憶が折り重なっている。ただそれを伊達の脳が異常と認識しないだけなのだ。真田という男に関して伊達の意識は驚くほど柔軟に対応する。
あんた、部活は。今は後輩たちの打ちこみの時間ゆえ。そろそろ息の整いつつある真田を見やって伊達はてのひらの中の鍵を転がす。そうかよ、ちょっと時間食うぞ、そう言ってもう一度鍵穴に、その手垢にまみれた金属を差しこんだ。
備え付けのコンロで伊達が湯を沸かしている間、真田は一言も喋らず畳の上に端坐している。左手に、窓からのぞく中庭の様子を眺めてはまた畳の目を見つめ、それに飽いたらまた目を遠くにやりを繰り返している。……部員が欠席したせいで余った菓子を二つほど出してやる。本来は茶と一緒に食べるものだが中途半端に余っているうえに生菓子だ。忝いと低く言って真田は紺の胴衣の腕を伸ばした。真田は伊達と二人きりになればそういう言葉遣いになる。教室で、他の目があるときには普通の言葉で喋るというのに、伊達にはその区別の仕方がよく判らない。なんで俺と喋るときはそんなふうなんだと問えば、癖になってしまって、と返す。しかし伊達はそれがいつからの癖であるのかを問い正せない。会話はそれで終わる。
湧いた湯と、道具とともに畳に座る。運動部の掛け声も、ブラスバンド部の音の群れもここからはほど遠い。驚くほど音のない部屋にサカサカサカと茶の点てる音だけが響く。こそりと息をつめて、茶碗の中の緑を見つめる。そうしているといくらかこの沈黙に耐えられるような気がするのだ。真田の目は伊達の手元からつむじまでをゆっくりと見回している。そういう感触がする。ただ快とも不快ともつかぬ、その感触がこそばゆくてたまらぬ。
茶碗の底に泡立つ抹茶をゆっくりと飲み干して、政宗殿の点てる茶は今も昔も変わりませんなぁと真田が呟く。伊達はそれを中庭の景色を見ながら聞いている。昔とはいつの話だと内に問う声を、伊達の意識がゆっくりと押しつぶしていく。左の眼球は中庭のいちょうをとらえた。もうすっかり黄色くいろづいて、秋の様子である。ガラス窓はすっかり冷たくなった風にがたがたと揺れた。……部活は、いいのかよ。ガラス窓ににじり寄り、耳をそばだてると、かすかに剣道場のほうから掛け声が聞こえてくる。まだ時間がありますれば、今しばらく。耳のすぐ後ろで真田のささやく声がする。汗臭い胴衣にすっかり抱えこまれてしまっている。衣替えしたばかりの制服の、その襟もとに鼻先を擦りつけた。……かようにそなたに触れられる日がこようとは思いもせなんだ。ガラスに押しつけた右頬がひどく冷たい。そう感じるのは真田の腕にすっぽりとおさまっているせいである。そう思うと、伊達の内側がまたゆっくりと動き始めた。
体の前で組まれた真田の指を辿りながら、伊達はふと口を開く。この男の体はいつも熱い。赤いという印象を常に与える。真田を知覚したあの冬の日からずっとである。あの冬の日とは、いつだったろうか。なあ、今日は何月だ?……十月にございます。伊達の意識もまたゆっくりと動き始める。蓋をしなくてはならぬと動き始める。伊達の体の、腹のあたりで組まれていた真田の指がほどかれ、触れるか触れないかの感触を与えながらゆっくりと上にのぼった。首筋を撫で、頬を包む。一つきりしかない左目が、真田の熱い指で塞がれる。そうして、伊達の記憶は不連続になる。その瞬間、口の中で呟いたゆきむら、という彼の名前だけが頭蓋の中で延々と反響しつづけた。
廻れ廻れ 秋(090104)