あれから伊達の姿を見ない。どれだけぼかしても事の顛末をまとめれば暴行を働いたことに違いはないので、誰かに相談することもできずにいる。そうしてもやもやと悩んでいるうちに一月二月三月経ち、三月の終わりになった。そういうことになってしまうのだろうと真田は思う。改めて謝ろうにも真田は伊達の連絡先も、どの学部に所属しているのかも、どこに住んでいるのかもまったく知らなかった。……接触はいつも、皮膚感覚を伴っていた。そう思いながら、コンビニでワンカップの酒とホタテのヒモを手に取る。関西地方で開かれた学会からの帰りである。新幹線の中で駅弁とビールの一杯を腹に入れたが、どうも腹がくちてこない。研究室の連中と別れて帰途についた目に、コンビニの潜水艦のような灯りが眩しかった。
 レジに向かう間際に焼酎の瓶のあたりに差し掛かって、少し足を止める。アパートにある黒霧島の瓶の中身を思い浮かべる。鉄幹に手を伸ばしかけて、止めた。コンビニの床に革靴がカツカツと鳴る。会計を済ませて出入り口に目をやると、隣のレジで会計をしていた男が真田を凝視している。伊達である。思わず、うわ、と声を出した。伊達はそれに気づいていないのか、きょろきょろと視線をさまよわせた。その、と真田が呟くと、あからさまに肩をびくつかせる。胡乱げな視線を店員が寄越してくるので、真田は思わず伊達の腕を引っ張って外に出た。途端、春先の少しぬるい空気が首もとをさらってゆく。
 照明が後ろから照らしてくるので、駐車場に長く長く影が伸びる。呆然と伊達は真田に腕を引かれていたが、駐車場の、白線をまたぐにあたってようやく腕に力を入れてきた。振り返った先の伊達はやはり真田を見ようとせず、足元に視線をとどめている。……この間は、その、申し訳なかった。この間と言っても三か月も前だ。出会ってからあの正月までの時間をとっくの昔に越してしまっている。久しぶりにまじまじと見た伊達の顔には、見慣れた赤い色の傷はほとんどない。伊達がなにも言おうとしないので、真田はそれが答えなのだろうと思う。掴んでいた腕を離した。緊張していた筋肉は真田が手を解くと同時にゆっくりと弛緩してゆく。それじゃ、と言って踵を返した。二車線道路の街灯が眩しく、思わず目を細める。コンビニのビニール袋がきつく指に食い込んだ。
 そうしてアパートへの道を歩いていると、後ろをついてくる足音がある。真田の足がたてるような、重い音ではない。後ろのほうから速いピッチでアスファルトを蹴る。息遣いさえ聞こえてきそうな距離で、恐る恐る真田は振り向いた。伊達である。右手に同じコンビニの袋が揺れた。真田の視線にさらされて、決まり悪く眉をひそめてくる。別に、なんとも思ってねえから。しかし。それより、とそう言いかけた伊達がびくりと身動きした。急くように後ろを振り返って舌を打つ。やがて複数の重たい足音が近づいてくる。目を凝らすと、街灯の灯りに、どう考えてもまっとうな柄ではない男たちが走り寄ってくる。彼らは伊達の姿を目に留めるや否や、にわかに吠えて走るスピードを上げた。歯の隙間から鋭く息を押しだして、伊達は真田をちらりと見やる。悪い、持ってて。言って、提げていたビニール袋を真田に投げて寄越した。そのスニーカーの足が力強くアスファルトを蹴って、先頭を走る、ピアスを何個もくちびるにはめている男の顔にめり込む。それと同時にビニール袋を真田は両手で受け止めた。目を前にやると、伊達はもう一人の男に殴りかかっては、よろけた胸元をわしづかんで額を打ちつけていた。ぐらりと男の頭が揺れて、地面に崩れ落ちる。それをおもちゃのように放って、今度は起き上がろうとしている最初の男のこめかみに膝をくれた。ぐうと男が呻くのを背中に置き去りにして、伊達がこちらにやってくる。瞳孔の開き切った目が真田を捉えて、ニッと笑った。空気に押されるようにして真田は上体を傾がせる。その腕を、今度は伊達が掴んで走り出した。
 アパートの、真田の部屋の中に二人して文字通り転がり込んだ。息を切らして、伊達はずるずると座り込む。荒れた息はやがて笑い声に変化して、しばらく伊達は肩を震わせていた。ようやく落ち着いてきた呼吸をなだめるようにして真田は立ち上がる。スーツについた土ぼこりを払い、いまだに座り込んでいる伊達の腕を引っ張り上げた。重たい体を引きずるようにして廊下に上げる。なんか、言いたいこと、すげえあったんだけど、今ので吹っ飛んじまった。息の合間にとぎれとぎれにそう寄越して、真田の腕にてのひらを絡めてくる。その指の強さが先程の伊達の様子を思い起こさせて、真田は少し唾を飲んだ。
 なんかすっげえ派手な頭のリーマンだなと思ったら、アンタだったし、スーツだし、ワンカップとか買ってるし、三か月なんも連絡寄越さないと思ったら、今更謝ってくるし。強い指はやがて真田の腕をたどって、肩までのぼってきた。重たい体が、真田の膝を崩させる。尻もちをついた真田の胡坐の上にのしかかって、伊達はまだ瞳孔を開かせたままだ。廊下の、橙色の照明にそれが光る。……いや、連絡もなにも。言いかけたくちびるをべろりと舐められて、息が止まった。
 我に返ったときには、もう伊達の体の重みがない。座り込んだ隣をデニムの足がすれ違ってゆく。廊下の上に転がったビニール袋を拾い上げて、リビングへと入ってゆく足音。振り返ると、首をのけぞらせてワンカップを喉に流し込んでいる伊達がいる。政宗殿、その。廊下に手をつき、ようよう腰を上げる。半分ほどカップに残して真田の顔を覗き込んでくる伊達の目元は、今の酒のためか喧嘩の興奮のためか、わずか赤い。
 ……連絡先を、うかがっておりませんが。リビングの入り口で真田が呆然と呟くと、ワンカップを飲み干した伊達が空の容器をこたつの上に置く。コン、という音が温い空気に響く。嘘ぉ。いや、本当に。言いながら、スラックスのポケットに入れた携帯を伊達に放った。フリップの開く音。アドレス帳を見ているだろう伊達の眉間はどんどん寄っていって、とうとうそのくちびるから、マジかよと零れ落ちる。素早く動く親指がボタンを押している間、真田は大きくため息をついて首元をしめていたタイを抜いた。ジャケットをハンガーにかけ、シャツのボタンを上から一つ二つあける。ベッドを背にして座り込んだ真田は転がったビニール袋の中から伊達の発泡酒を取り出して、プルトップを開けた。終始袋の中で揺れていた缶は泡を溢れさせて、慌ててくちびるをそれに押し付けた。
 ん、と携帯が差し出される。ダークレッドの小さな機械がこたつの上を滑る。缶を傾けながらそれを受け取り、フリップを開いた。タのボタンを長押しすると、三列目に伊達の名前が表示される。フリップを閉じる。勝手にテレビを付けて液晶を眺めている伊達の横顔は、なぜだかいつもより輪郭が濃い。多分自分も、少し血が沸いている。
 振り向かせたくちびるの端に、くちづけた。間近で見た左目の睫毛が震えて、その下の強い目が真田を睨みつけてくる。床に押し付けた手が真田の手を払って持ち上がる。ゆっくりと体を傾げてゆくと、その手が真田の後ろ髪を掴んで、頭皮がびりりと痛んだ。数本か抜けた感触がする。眉をひそめると、熱い息が鼻先をかすめた。伊達は、笑っている。……アンタに言われたから、喧嘩とかちょっと我慢してた。しかし先程は。一人だったら走って逃げてた。しかし。……もういいから。息のほうが多いような声でそう言って、もう片方の腕が真田の首に回る。久しぶりだったから、興奮してんだ。口の中に入り込んできた伊達の舌が、火のように熱い。

濃い夜も(100111)