携帯電話の機種変はあれ以来していない。あの夏に変えたばかりのスライド式で、それでもその年の春に出た型落ちの機種だった。カメラは324万画素。データフォルダは1GB。そのデータフォルダの奥底、ロックをかけたユーザーフォルダの中にあの夏の残滓が凝っている。ゆえに機種変ができなかった。あの頃のことをふとした瞬間に思い出すことはあっても、実際にその残滓をすくってみることはまったくといってない。だがそのデータを消去することはなんとなくできなかった。見苦しいと思う。真田は少し笑う。
 画面で時計を確認して、顔を上げた。緩やかに続く坂道の果てに、真田の勤務する県立高校がある。少し煤けたクリーム色の校舎が春の光に照った。まだ生徒が通学しているような時間ではない。春とはいえ早朝の空気は少しだけ肌を粟立てる。革靴の爪先が小石を蹴った。それが転がった先に、小さな交差点がある。信号は赤。横断歩道の手前に立った黒いコートの隣に立って、おはようございますと声をかけた。眼鏡の右目がこちらを向く。視線は合わされることなく、彼はおはようと返事をする。少し長めの前髪を横に流すようにして、アイパッチをした右目は秘匿されている。
 この春に真田はこの高校に赴任してきた。企業に三年勤めたあとの、転職である。大学で教職課程をとっていたのが功を奏した。父親の知り合いで、昔剣道道場で世話になったひとが校長をしている高校に赴任が決まった。二年生の国語を担当している。九クラスを三つに分けて、それぞれ現代文と古文と漢文を。
 信号が青に変わった。彼の右足が横断歩道にかかる。隣を早朝の部活練習があるのだろう生徒の自転車が通り過ぎてゆく。おはようございまーすと徐々に小さくなってゆく声。その背中に二人揃って声をかけた。そのタイミングに、彼は少しだけ肩を揺らせた。……まだ少し、寒いですね。そうだな。会話は続かない。重たい沈黙が足元にまとわりついて、うまく歩けない。
 視線が合ったのは一度きりだ。真田の赴任一日目、職員室での紹介時に。頭を下げて、ゆっくり持ち上げた先、ぐるりと見渡した広い職員室の中程に彼はいた。下を向いていた目が持ち上がって、真田を向く。アイパッチをした右目。その上の細いフレームの眼鏡。あの夏より、少し短くなった髪と削げた頬。真田と目が合う。眩しさに少しだけ細められた左目は、見る見るうちに丸くなった。開け放たれた窓から差し込む光に照っていた頬が血の気を失ってゆく。デスクに置かれた右手が、ぎゅっと握られるのを真田は見ていた。間違いなかった。彼だった。
 彼と初めて出会ったのは、大学時代のある飲み会でだった。どういう集まりだったかは真田ももう覚えていない。他大学の学生も混ぜて行われたその場で、彼は隅のほうで煙草を吸っていた。そのあたりは喫煙者がたまるスペースで、そのにおいを嫌う女子学生はほとんど寄りつかない。よどんだ空気の中で、ひたすらに煙草とアルコールと枝豆と串を消費していた。時折、長い前髪が揺れて彼の眼帯があらわになる。左目はニヤニヤと細められて、細く長く煙が吐き出された。見ない顔だった。
 そうぼんやりとしていると、隣に座った女の子がぐっと体を寄せてくる。ゆきちゃんちゃんとのんでる〜?そうして、氷のほとんど融けたグラスに焼酎が注がれた。綺麗に根元まで染められた茶色い髪がさらさらと揺れる。かんぱ〜い。かちりとグラスが重ねられる。視線の先で彼が席を立つ。眼帯の目が一瞬、真田を向いたような気がした。真田はグラスを一気に飲み干して、同じように立ち上がる。細い通路に裸足を滑らせた。スリッパではなく、自分のサンダルを履く。もう夜も深いというのに、学生街のこのあたりの店はまだ活気に溢れている。その隙間を縫うようにして外に出た。途端にむっとした空気が額を叩く。店の壁にもたれかかって、彼は煙草を吸っている。その左目と、目が合う。彼は小首を傾げてくちびるを歪めた。……どうする?飲みなおすか? 某の家では? 近いのかよ。歩いて十分ほどですな。
 OK。言って、彼は吸っていた煙草の火を靴の裏で消した。携帯灰皿に押し込んで、歩き始めた真田のあとを追ってくる。無言だった。蒸し暑い空気が足元でかきまわされて、からだ全体にまとわりつく。横に並んだ彼の肩が楽しそうに揺れる。横道にそれると一気に静かになる夜道に、二人の足音が響く。
 マンションの二階の部屋に辿り着いて、彼をドアの中に押し込んだ。後ろ手に鍵を閉めて、靴を脱いでいる彼の腕を引っ張る。上がりかまちの壁に押し付けると、後頭部をぶつけた彼はいってえ、と顔をしかめた。そのくちびるに触れる。喉で彼が笑う。真田の後ろの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、きつく舌を吸ってくる。酒くせえー。お互いさまでござろう。そうして、額を突き合わせて笑う。軽く彼が足を開くのに合わせて、太腿をさしこんだ。緩く刺激しながら、背中から腰までてのひらを這わせる。薄いTシャツはくっきりと彼のからだの線をあらわにした。皮膚の下の厚い筋肉と、太い骨の感触。ぞくぞくと背筋を蛇が這ってゆく。たまらず、彼のボトムのボタンを弾いた。反応し始めている彼の陰茎をてのひらに包みこむ。はあっと彼が熱い息を吐いて、真田の首筋を濡らせた。ちゅ、ちゅ、と音をたてて彼のくちびるが真田の肌を舐めてゆく。もうすっかり勃起した彼の陰茎をさすっているうち、真田のそれもまたデニムの中で窮屈に体を縮めている。それに気づいた彼の指がジッパーを下げる。骨ばった指が真田のそれをなぞるのを見下ろして、いやらしい眺めだと改めて思う。……なあ、ベッド。彼の提案を、口をふさぎながら却下した。とりあえず、一回……。ぐっと腰を抱きよせて、ボトムをアンダーごと引き下げた。尻の間、孔のあたりをくるくるとなぞるようにすると、くぐもった声を上げて彼は真田にしがみついてくる。無理を承知で指を二本入れた。びくびくと彼のからだが跳ねる。陰茎は萎えていない。愛撫というより広げるために指を使った。じきに三本の指を飲み込んだそこが柔らかくうねる。ここに入れるのだと思うと興奮が収まらない。そんなに、切羽詰まった顔をしていたろうか。落ちつけよと彼が真田のくちびるをついばむ。無理に、ござる、こんな……。緩やかに指を抜き差しするたび、彼の足がびくびくと震えた。そのからだを反転させて壁に押し付ける。腰を引き寄せて、割った肉の間に十分に勃ち上がった陰茎を押し当てた。突き上げる動きで彼の中にそれを押しこんでゆく。あ、あ、あ、あ。壁に指先をつきたて、頬を擦る。すっかり壁と真田の間に彼のからだを挟み込んでしまって、ゆっくりと息を吐いた。熱いと思う。彼の中も、なにもかも。
 玄関で二回。狭い部屋の床の上で一回。ようやくベッドの上に移動してそこで二回。泥のような睡眠を挟んで、きつい陽光を降らせてくる窓をカーテンで遮断した。牛乳をパックからじかに飲み、笑いながらくちびるの端から白い液体をこぼすさまにまた欲情する。そうして、それでもカーテンから漏れる夏の光の中でまた三回。
 回数は途中から数えるのを止めた。セックスをして、寝て、簡単に食べられるもので腹を満たし、またベッドの上でからだを揺らせた。一度も外出をせずに、そういうことを一週間ほど続けた。閉めっぱなしのカーテンから漏れる光で昼夜を知り、バイト先からの着信でうるさい携帯電話は電波を切った。汗と体液を吸ったシーツはなんどか交換されて、その都度洗濯機に放り込まれた。一度も、それが動くことはなかったが。
 一週間で食糧が尽きた。それが判った朝、彼は真田より早く起きてシャワーを浴びていた。タオルで髪を拭きながら、じゃあ帰るわ、こともなげにそう言う。ぼんやりと彼が身支度を済ませるのをベッドの上で真田は眺めていた。そうして、ドアが閉まる音がする。その音で完全に目が覚める。シャワーを浴び、ゴミを集め、洗濯機を回し、汚れた蒲団を紐で縛り、ごみの収集日を確認する。からっぽの冷蔵庫を埋めるために買い物に出かける。外は光に溢れていた。眩しすぎて、なんどか目がくらんだ。食糧を買い、新しい蒲団を買ったら、財布の中身はすっからかんになった。久しぶりに電波を繋げた携帯は、友人たちとバイト先からの着信で溢れていた。……彼の名前も、連絡先も知らされなかったことに気づいたのは、そうして一息ついてからだった。
 伊達政宗。職員名簿に印字された、それが彼の名前である。同じ二年生の英語を担当し、隣り合ったクラスの副担任を務めた。字面上は、それだけの繋がりでしかない。伊達は真田とほとんど視線を合わせない。会話も、事務的なもの以外はほとんどない。
 ……伊達先生。靴を履き替える伊達の背中に呼び掛けた。黒いコートは振り返らず、なんだというそっけない声が返ってくる。あの夏のことを蒸し返す気はさらさらなかった。ただ、歳の近い同僚としてうまくやっていければそれでよかった。だが伊達はそれを取り合おうとしない。はなから真田とのコミュニケーションを拒否して、黒い背中を向けてくる。かたくなな様子はときに真田を苛立たせた。……あの、ことは。そう言いさすと、途端に伊達のからだは頑強な壁に囲まれてしまう。
 その黒い肩を掴む。伊達はその腕を払おうとする。それに抵抗しようとして身動きすると、体がぶつかって伊達の眼鏡が床に落ちた。目の前のからだが、一気に膨らむ。眼鏡の下にあった左目がぎろりと真田をにらみ、顎を振ってきた。リノリュウムの床を足音高く踏むその背中を追う。早朝の、人気のない校舎端の階段下にあって伊達は真田のコートの襟首を掴んできた。なに考えてるのか知らねえけどこういう職場でああいうことしてたことがばれたらどうしようもねえんだよちょっとはものを考えろこの馬鹿。一息にそう言って、真田のからだを壁に押し付けてくる。血走った左目には殺意が走った。……いや、だからそのことは……。ああ?下目に真田を睨みつけて、伊達は真田の言い分を聞こうともしない。コートの中の携帯電話を握りしめて、真田は目を伏せた。すると、ぱっと襟首を掴んでいた伊達の手が離れる。今後一切話しかけてくるんじゃねえぞ。……真田の耳奥には伊達の足音のみが残る。
 その日、帰宅して真田はあれから封印していたロックフォルダの中身を開けた。日付ごとに作られたフォルダ。それは夏のあの一週間を示している。一枚目の彼の寝顔。枕に埋まった、綺麗な稜線を描く鼻筋。二枚目の彼は笑っている。目をつぶればそのときの会話さえ思い出せる。……馬鹿、止めろよ。構わぬでござろう、一枚だけ。三枚目は彼のてのひらで遮られた。四枚目からは、もう見れたものではなかった。そう思いながらも息を熱くした。彼も真田も、若かった。そう思いながら目をつぶる。白い彼の背中。汗の浮かぶこめかみ。薄暗い部屋の中の、さらに暗い、肉と肉のはざまのあたり。……若かった。どうしようもないぐらいに。

ハローグッバイ,ハローグッバイ, ハローグッバイ(100320)