見下ろした先、いくばくもない爪と肉の間に土が入り込んだ。爪が白い。一つ深呼吸をした。昼になって上がり始めた気温が、じりじりとつむじを焼いた。一番遅くに満開を迎えた校庭のソメイヨシノがすっかり葉桜になって幾日か経つ。黒々とした枝をさらしていた木々は今では眩しいばかりの緑を茂らせた。四月も中旬の、晴れの好い日である。
ゆっくりと息を肺から押し出して、にわかに暴れ始めた心臓を鎮めようと努めた。しかしそのそばから頭の血が音をたてて下がってゆく。雨の音に似ている。雲ひとつない晴天だと言うのに、耳の奥は水音でうるさいほどだ。もう一つ、深呼吸をした。ノイズのかかっていた視界がわずかに明瞭さを取り戻す。土で汚れた自分のてのひらを見下ろして、伊達はしたくちびるを噛んだ。どうして忘れていたのだろう。あの男の顔より先に、これを思い出すべきだった。そうすると、花壇に咲き揃ったアネモネの彩度の高いはなびらが、急に色褪せて見えてくる。
肘のあたりまでまくったシャツで額の汗をぬぐう。すると、さっとそこに影がさした。伊達先生……。そう呼ぶ声がする。その声が、うなじを舐めてゆくようでぞっとした。目をきつくさせて振り返ると、そこになにか夢の中にいるようなふわふわとした様子で真田が立っている。視線は宙を泳いだあと、うつろに伊達を見下ろした。**先生が、お呼びです。
判った。極力視線を合わさないようにして、立ち上がった。首に巻いていたタオルで額の汗をぬぐう。すれちがいざま、気づかれないようにそっと様子をうかがったが、やはり真田はなにかこころここにあらずといった様子でぼんやりと花壇を見つめていた。数歩でその背中を置き去りにする。おかしな男だ。そう思う。校舎に入りしな、もう一度振り返ったがやはりあの男は変わらずそこに突っ立ったままであった。その背中が、あの夏、あの部屋でさらされていた均等に筋肉のついた背中に重なる。伊達はまた心拍数を上げ始めたこの胸の内臓を叱咤する。
それまで思い出すことはほとんどなかった。もう細部はぼやけてしまっている。しかし腹の奥底で弱弱しく光り続ける小さな豆電球の存在を否定できない。今更取り出してまじまじとその光を覗き込むことはしないが、その光を遠く見るとき、ある種の懐かしさが胸の内を占める。
そうして、そういう甘ったるく粘度の濃いものが内臓をさらっていったあとには苦々しいものしか残らない。豆電球はいつの間にかてのひらのなかにある。電池のほとんど切れてしまった弱弱しい光。なるほど、思い出とは自分の都合のいいように美化されたものであるのに違いない。そうして、目前に迫る忌々しいほどの眩しい太陽に伊達は目を細めるしかない。太陽はいつの間にか真田の形をして、かんかんと光る。
あの男を最初に視界に入れたのは、大学時代のとあるバス停でである。真田は列の先頭でバスを待っていた。梅雨の入りをしたばかりで、雨とも曇りともつかない天気の日が鬱々と続いた。徒歩で行ける距離の立地にある大学にそれぞれ進学した友人を訪ねた、その帰りである。雨の降らないうちに出かけたつもりが、運の悪いことに少し降られた。バス停の時刻表を見、バスを待つかそのまま走って自分の大学まで戻るか逡巡する。濡れた前髪をかき上げ、蒸れた眼帯の下に指を差し込んでいると、使いますか、という声が聞こえる。目を上げると、赤い男が立っている。自分の持っている傘を指差して、これ使いますかともう一度言って寄越した。……いや、もうバス来るし……。赤男は伊達のその返答にぴくりと眉毛を動かして、一つ頷いた。無言で前に向き直る。伊達はその横に並ぶ。服についた水滴を払う。そうして右方向からバスがやってくるのを待っている時間、伊達のつむじを打つ水滴はなかった。明らかに濡れ方の違う左肩と右肩に戸惑いながら、左目で瞬きする。自分の頭上に差し掛かっているのだろう傘の色を思う。
やがてバスが来た。伊達は運転席の後ろの席に座って、そのまま四つ目のバス停で降りたのでその後の赤男のことは判らない。しかし再会は意図的であった。○○大学の赤い男。それだけの情報で伊達が探り当てた真田という男も参加するという合コンに入り込んだ。なぜそこまでしたのかという動機の言語化はすこぶる簡単である。おそらくはつこいだった。雨の日のあれが、伊達のはつこいだった。
そういうことを、デスクの上で考えている。次の授業のテキストを揃え、配布する資料の確認をする。二枚ずつ数え上げた藁半紙を軽くそろえ、テキストに挟み込んだ。薄い紙はコピーの文字をわずかに透かせている。
影が差す。顔を上げると、赤い男が立っている。伊達は顔を歪めて目をそらした。……あの花壇は、伊達先生が?デスクの上の時計は始業ベルの三分前を指している。デスクの上のテキストを掴む。だからなに?努めて硬い声でそう応えて、立ち上がった。いえ、……なにも。首を巡らせた先、真田はやはりぼんやりとした目を伊達に向けた。
……放課後、少し時間寄越せ、話がある。目の先で、豆電球が切れようとしている。その後ろの太陽に飲み込まれて、なにもかもが白く光る。ぎゅっと目を閉じて、その間の皮を指で揉んだ。写真だ。確かこの男はあのとき、携帯で写真を撮っていた。世に出たらなにもかもが終わる。目を開けた先、親指の爪が少し黒くなっている。口の内側の粘膜を噛む。赤い男をきつく睨みつけると、彼はぼんやりとしていた顔を少し強張らせている。その目の奥の光を伊達はまだ覚えている。忌々しいが、覚えている。
ハローグッバイ、ハローグッバイ、ハローグッバイ 2(100409)