打ち返されたボールがファーストの鼻先を抜けていったのを確認して、伊達はトットッとステップを踏んでいた足を回転させた。目指すサードの向こう、コーチャーズボックスでランコーがぐるぐると腕を回している。走っている間はなにもかも音が消える。視界は半分しかきかず、感覚器のほとんどが機能していない中で、白いベースだけが正確にその居場所を知らせている。スパイクでサードベースを蹴り、次のホームベースに体を向ける。キャッチャーが足でそれをブロックしている。クロスプレーになるのだろうかと伊達は思う。そう思いながらスライディングの体勢に入る。しかしボールは帰ってこない。悠々とベースにタッチして、伊達はユニホームの土を払う。ダイヤモンドを見渡すと、そこで初めて音が戻ってくる。ベンチからの歓声と、球場の外から聞こえてくる自動車の音、上空の風の音。ふと目を上げると、そこにカバーに入っていたのだろうピッチャーの姿がある。目深にかぶったキャップの下で、真一文字に口を引き結んでいる。ストレートの球速はあったがそれだけのピッチャーだった。伊達はまばたきをなんどかして、その横をすり抜ける。ナイピッチ、とすれ違いざまに言ってやった。口元を引き上げる。二球目の、ノーコンインハイの球の仕返しだ。
 ベンチに戻りしな、バックスクリーンを振り返った。名前だけ確認してやろうと思う。一という番号の下には真田という名前が書かれていた。マウンドの上に戻ったその姿を見やり、その視線がまだ伊達に向かっていることに気づいてまたにやんと笑ってしまう。ノーコン真田。口の中で呟いて伊達はヘルメットをとった。一瞬世界は真っ暗になり、そうして伊達は、ああ、まただと思う。これは夢だ。
 復帰した視界は薄いカーテン越しの青天である。ふとんの上を腕で叩いて、携帯電話を探す。やがて指先に触れた小さな機械を目の先まで持っていって、時刻を確認した。五時。体にかかっているタオルケットをはねのけ、じわりと首筋に浮かんでいる汗をぬぐう。寝巻きのTシャツとジャージを脱ぎ捨てて、手早く着替えた。住人のほとんどが学生のアパートはまだ眠っている。洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。夏の気温にさらされていない水はまだきりりと冷たい。そうしているうちに、ゆっくりと体が起きてくる。
 玄関の戸を開けると、やにわに朝の陽射しが額を打った。すでに町は活動を始めつつある。二車線道路をトラックが走り去る音、ハトの鳴き声、見上げた先の、高く積みあがった積乱雲。玄関先で軽くストレッチをして、伊達は走り出した。もうずっと、朝のジョッグは欠かしたことがない。
 そうして一キロほど走った先、マンションの敷地に公園がある。滑り台とブランコがあるだけの、小さな公園である。その緑眩しい芝地に銀髪の頭が寝転がっている。それまで速い回転を続けていた足を止め、公園に入った。……チーッス。すると銀髪の頭がびくりとはねあがった。うっす。Tシャツについた草を払い落しながらシューズの爪先を地面で叩いている。長曾我部は、眼帯の下を指で擦りながらまだ眠ーよと呟いた。思わず、笑ってしまう。別に、付き合ってもらわなくてもいーんスけど。や、俺もちょっとからだなまってたし。肩をぐるぐると回し始めた長曾我部の隣に立って、伊達もまたぴょんぴょんと飛び跳ねた。左のフェンスで、鳩が飛び立つ。二人して走り出す。耳の奥で心臓が全身に血を送り出す音がし始める。それまで聞こえていた鳥の鳴き声や、トラックの走行音、町が活動を始める全ての音が遠くなってゆく。
 長曾我部は高校野球部の先輩で、浪人ののちに伊達と同じ大学に入学している。それまで坊主頭の彼しか見たことがなかったのが、入学式で声をかけてきたと思ったら、誰もが振り向くような銀髪でいるので目を剥いた。いや、それよりも、一年の冬には野球部を辞めてしまった伊達のことを彼が覚えていたことに驚いた。……長曾我部はあの高校の野球部で、ずっとレギュラーでキャッチャーを務めていた。三年の初夏に怪我で左目の視力を失うまで、ずっとレギュラーだった。
 昨晩まで雨が降っていたのでアスファルトがまだ濡れている。水たまりにシューズを突っ込むと飛沫があがるが、地面に落下する前にその水滴を置き去りにする。小路はじきに河川敷へ抜ける。白い陽が水面を照らして眩しい。向こうから犬の散歩をしている老人が近づいてくる。会話をしたことはないが、馴染みの顔だ。ウェルシュコーギーを連れている。目だけで挨拶を済ませて彼らとすれ違う。長曾我部はまだ着いてきている。体がなまっていると言う割には、まだ息すら上がっていない。伊達は横を盗み見て、彼の輪郭が陽を受けている様子に目を細めた。
 高校時代、会話をした覚えはなかった。一言二言事務的な会話をしたことはあったかもしれないが、そこにあるのはレギュラーキャッチャーと、高校に入ったばかりの一年生のそれであるのに違いなかった。少なくともあの野球部で伊達が特異な個体として認識され始めたのは、右目のことが部内にじわじわと漏れ出始めてからである。
 ……野球やりたくねえ?
 梅雨が明けたばかりの、夏の暑い日だった。中ジョッキに注がれたビールを半分まで飲み干してから長曾我部はそう切り出した。伊達はたこわさの、ワサビの茎を奥歯で噛みしめていた。鼻に刺激がツンと抜ける。思ったよりも辛い味に、伊達は少しだけ眉をひそめた。長曾我部はその表情に首を傾げたが、てのひらを彼に向けてなんでもないと示す。レモンサワーで口の中を洗い流した。随分薄い、レモンサワーだった。
 じわじわと気温が上がり始める。むきだしになった額に陽があたって、こめかみに汗が浮き始める。隣で、長曾我部は息を上げている。右側に広がる町が、本格的に活動を始めている。伊達は変わらず足を回転させ続ける。そうしていなければ、糸が切れてしまう。なにかとなにかを繋ぐ糸。
 河川敷の道路は障害物のない一本道である。伊達は少しだけ目を閉じる。隣に長曾我部の息づかいを聞く。まぶたの裏にもう一枚ある膜を下ろす。感覚は鈍重になる。しかし目の前に土で汚れたベースが浮かび上がる。それに向かって走ってゆくのを想像する。いや、今まさに内野安打を打ってファーストベースに走っているのだ。ベンチからの声が伊達の背中を押す。一塁手が必死な形相でグラブを構えている。もうあと二歩、一歩。駆け抜ける。走れ走れという声がする。振り返ると、投げられたボールは大きくそれてファールグラウンドまで転がっている。緩めたスピードをもう一度最高速度まで上げる。セカンドベース上で大きく息を吐く。振り返ると、マウンドの上には相手ピッチャーの背中がある。背番号は13。
 はっと伊達は目を覚ます。橙色の豆電球が部屋を鈍く照らしている。ふとんの上を叩き、小さな機械を握りしめる。時刻は五時。窓の外はまだ夜である。低い気温がうなじを舐めていって、伊達はぶるりと身震いをした。寝巻きのスウェットを脱ぎ捨て、ジャージを着こむ。嫌になるほど冷たい水で顔を洗い、歯を磨く。ネックウォーマーを口元まで引き上げる。ドアノブが氷のようだ。
 固まっている筋肉を起こすために念入りにストレッチをする。ゆっくりと息を押しだす。皮膚の下で筋が伸びてゆくのを感じる。たっぷり十分の間、そうして体を起こして伊達はアパートから続く小路を睨む。街灯がまだちらちらと揺れている。息が白い。体温を上げるために最初からペースを上げる。じきにあの公園の丸い時計が見えてくる。橙色の、少し掠れた光に照らされて五時二十分を示している。
 ……チーッス。入口に立っている人影にそう声をかけた。薄暗闇からぬっと白い人間の顔が浮かび上がる。……おはようございます。男は茶色のジャージをシャカシャカと鳴らせて、足の筋を伸ばした。先輩は?長曾我部殿は、二日酔いだそうです。あ、そ。そうして、無言で走り出す。二人分の足音が冬の朝に響く。民家の屋根の向こうから太陽が顔を出すには、あとたっぷり一時間はかかるだろう。その頃には河川敷を向こうまで走りきって、Uターンしているだろう。朝陽を受けて、河川敷の道を走っているのを想像する。二人の影がアスファルトの道に長く伸びる。伊達はこっそり横をうかがった。光量の少ない薄暗い道行であるのに、真田の目の、白いところがやけに鮮やかに焼きつく。

night wood park(100502)