家に、忘れてき申した。咄嗟に口をついて出た。そうして、今日彼の前で携帯電話を使っていなかっただろうかと思考を巡らせた。実際、鞄の中で真田の携帯は眠っている。仕事中は電源を切っているので着信でばれることはないだろう。しかしうなじに少し汗が浮いてくるのを真田は感じた。陽が陰り始めたために、薄暗い渡り廊下である。目の前で伊達は顔をしかめている。これ以上ないくらいに眉間にしわを寄せて真田を睨んだ。小さく舌を打つ。彼の思考を占めている事柄について思う。彼と真田の携帯を繋ぐもの。彼の連絡先など知らない。だとしたらあの写真だ。ロックフォルダの奥底に眠っているあの写真だ。素早くこれからどうするかを考えて、真田は小首を傾げてみせた。……俺の携帯が、なにか。
放課後である。グラウンドから運動部の掛け声が響く。サッカー部が土を蹴る音、野球部のノックの音、体育館から聞こえるバレーボールが肉を叩く音。その音の合間を、ブラスバンド部の楽器の音が埋めた。半音階を撫でてゆくトランペット。時折全ての音を揺るがすように響き渡るティンパニ。
……写真、と伊達が呟いた。写真?あのとき、あんたが撮ってた写真だ。彼ははあと重たいため息をついて、眉間のしわを揉んだ。……残ってないなら、いい、残ってるなら買い取る。そのまま手で目のあたりを覆って、もう一つため息。
買い取る?そう、あんたの言い値で、……で、残ってるのか?真田は少しずつ心拍数を上げ始めた心臓をなんとか抑えようとする。浅くなりそうな息を口の中に押し込んだ。その細かな表情の変化さえ伊達は見えていないようで、真田は少し安心する。考えなくてはならない。金銭で解決するのではなく、写真と引き換えにどうにかする方法を。状況は変わった。真田はどうにかして伊達を手に入れなくてはならない。あれから携帯を変えておりませんゆえ、恐らく。真田がそう告げると、伊達は軽く首を振った。わずかに残っていた希望が潰えた、そういう顔をしていた。ふと真田は悲しい気持ちになる。写真が残っていたとして、それを誰かに見せて回るような人間に見えるだろうかと、そういうことを考える。校舎の向こうで夕陽が消えようとする。その最後の赤い陽が横から二人を照らして、長く影を伸ばした。彼の頬が一瞬赤く照り、そのまま青ざめてゆくのをじっと見つめた。
少し、お時間をいただけるのなら。真田は住んでいるアパートがここから歩いて十五分程度のところにあること、もし写真をどうにかするのなら、伊達の手で直接操作したほうが安心だろうということを告げた。伊達はそう言う真田の顔を注意深く見つめていたが、三度目のため息をそっとついた。……判った。小さく伊達が呟いたとき、真田は悟られないようにゆっくり唾を飲み込んだ。
渡り廊下の向こうへ踵を返した伊達の背中を見送り、真田もまた職員室へと足を向ける。拳を握る。鞄の中の携帯電話を思い浮かべる。メタリックシルバで、スライド式の旧型。最近のものと比べると随分と厚みと重量がある。大したデータは入っていないが、あの写真の周りにじわじわと重たい雲のようなものがたちこめ始めている。これから行うべき作業を思い浮かべて、ぎゅっと歯を噛みしめた。伊達もそうかもしれないが、真田もまた必死なのだ。状況は変わった。どんな犠牲を払っても彼を手に入れなければならない。それが彼の中の真田を破壊することであったとしても。
開け放たれた玄関のドアを前にして、伊達の爪先はわずか躊躇した。玄関先でことを済ませればいいと思っていたのだろう。……誰かに聞かれたり覗き見されたりしても困るでしょう。真田はそうこともなげに言って、さあと伊達をいざなった。しかし伊達は首を振る。ここでいい、早く持ってきてくれ。その左目はかたくなであった。頬は相変わらず青白い。肉の削げた頬を目にして、真田は軽くうなずいた。少し、待ってて下さい。
革靴を脱ぐ。玄関から伸びる廊下を抜け、奥のリビングのドアを開けた。横の壁にもたれ、コートのポケットの中に忍ばせた携帯電話をぎゅっと握る。口の中でゆっくりと十秒を数える。ポケットから手を抜き、電源を入れた。そうして左手でコートのポケットを探る。親指の先ほどの大きさのアレが、間違いなくそこにあるのを確認して真田はリビングのドアをもう一度開けた。伊達が立っている。玄関に。閉じられた鉄の扉。玄関灯があたたかく伊達を照らしている。ふとその光景があの夏の様子に迫る。衣服を乱し、体液で露出している皮膚を汚した伊達。息を荒らして真田を覗き込んでくる、細められた目。引き延ばされたくちびる。目をつぶってその光景を散らした。しかしそのときの伊達も、今ここにいる伊達からも手を離す気はなかった。
所在なさげにたたずんでいる伊達に携帯を渡す。彼はそれをぎゅっと見つめ、どこにあるんだと呟いた。データフォルダ。彼の親指が二回センターキーを押す。ユーザーフォルダ。指示キーを一回、センターキーを一回。一番下のプライベートフォルダ。伊達の目がそっと真田を見上げてくる。……ロックナンバーは?0821。四つ、伊達の指がキーを押す。橙色の、あたたかな灯りの下に引きずり出された欲望の塊に伊達が顔をしかめる。素早く指が動いてその残滓を消去してゆく。やがて全ての仕事を終えて、伊達はため息をついた。渡り廊下で聞いたものよりは、ずっと軽いため息だ。……いくらだ?言って、伊達は携帯電話を真田に差し出した。受け取る。鞄の中から財布を取り出そうとする伊達に、真田はお金は要りませんと言って寄越した。左手をコートのポケットに入れる。
なに?と、伊達は信じられないものを聞いたというふうに顔をしかめた。……その分のお金は、要りません。そう真田は呟いて、左手をポケットから抜き出した。人差し指と中指にはさんだ、プラスチックケースに入れられたSDカード。……そこにあるだけだと、思いましたか。
見る見るうちに伊達の顔が憤怒に染まってゆくのを、凪いだ気持ちで見つめた。玄関灯が照らしているだけではなく、彼の内側から溢れるもので頬が赤く照る。ぴりぴりと空気が鳴る。……伊達の失敗は、真田がさしてその写真に執着がないと早合点してしまったことだった。金で解決できることだと。仕様のないことだ。昨日までの真田はそうだった。昨日のうちに伊達がそう言って寄越していれば、素直にこの携帯を差し出したことだろう。あの夏の日のことを腹の奥底にしまい、かたく鍵をかけて、彼と微妙な距離を保ちながら同僚という間柄を続けていただろう。だがなにもかもが遅い。状況は、桜が散ったらすぐに若葉がその木を茂らせるように、はっきりと、きっぱりと、変わってしまっている。
伊達の手がぐんと伸びた。それをよけ、からだを滑らせる。彼の履いた革靴がフローリングにかたい音をたてた。彼は歯の間から鋭く息を吐き出して、抵抗する真田を睨みつける。滝水のように罵詈雑言が彼のくちびるからほとばしった。それは英語圏のものだったので、真田にはほとんど聞き取れなかったが。
玄関のドアに背をつけて、真田は上がりかまちに立っている伊達を見上げた。どうしますか。……どうもこうもねえ、早くそれを寄越せ。条件があります。だから金を……。金は要りませんと伊達の声を遮った。ぎりぎりと歯を噛みしめる音が聞こえるようだ。真田の胸もまた大きく上下している。それでも声が震えないようにと注意しながら、条件がありますともう一度繰り返した。左手に握りしめたプラスチックケースがこれ以上ないぐらい熱を持っている。右手でゆっくりと、背後のドアの鍵を閉めた。その音がひどく重たく狭い玄関スペースに響く。……日曜日まで、俺のいいなりになること。……軟禁かよ、犯罪だ。言って、大きく息を吐き出した。両手で顔を覆う。なんだんだ、まったく。
プラスチックケースをポケットにしまい込んだ。真田は疲れ切った表情の伊達を促して、靴を脱がせる。壁にからだをもたれさせて、乱れた前髪の向こうから真田を見る伊達の目はもう先程までの怒りを含んでいない。その背中に手をやった。シャワーはその右のドア、寝室は、リビングに入って左のドアです。
真田に腰を抱かれながら、くっと伊達は笑ったようだった。なんのために……。小さく呟かれたその問いにこころの中で返答する。ここでなにを言っても、伊達は聞く耳を持たないだろうから。或いは、今日の金曜日から日曜日までの間に、言うことができるだろうかと考えた。途方もない、はなしだった。
ハローグッバイ, ハローグッバイ, ハローグッバイ 3(100504)