気配を感じて眉をひそめた。うわまぶたはまだしたまぶたと癒着したままだ。しかし薄く光を感じる。もう窓の外は朝なのだろうと思う。起きねばならない。今日が最後の日だ。そう思って目を開け、ぎょっとして顎を引いた。伊達が真田の様子を覗き込んでいる。見開かれた左目は淀んだところがなく、もう随分とそうしている様子がうかがえた。真田が声を失っていると、喉が乾いた、とそう寄越してくる。あと、飯。……コーヒーとサンドイッチでいいでござるか。コーヒーじゃなくて烏龍茶でいい、先に持ってこい。言って、真田に背を向けてシーツに転がった。薄く均等に筋肉のついた背中である。背骨の横に、三日月のような形の痣があった。伊達はこの痣のことを知っているだろうか。そこに人差し指で触れると、そのからだが跳ねた。ごそりと頭が動く。……なに?いえ、なにも。言って、ベッドから降りた。
 グラスに冷えた烏龍茶を注ぐ。一杯はその場で飲んでしまう。残ったグラスを寝室に持って行く。彼はまだ背中を向けて寝転がったままだ。無茶をした。起き上がるのも億劫なのだろう。サイドテーブルに置いて寝室を出た。キッチンの戸棚からロールパンを取り出す。ガチャリとドアの開く音がする。振り返ると、伊達が腰に手を当てながらリビングを突っ切っているところであった。固まっている真田に一つ視線を寄越してリビングから出てゆく。トイレのドアの開く音がした。
 冷蔵庫からレタスとチーズ、トマトとハムを取り出す。ツナ缶の蓋を開けた。レタスを適当にちぎり、トマトをスライスする。ロールパンの中央に入れた切り込みに、適当にそれらを挟む。もう一杯、グラスに烏龍茶を注ぐ。出来上がったひとつをかじる。小脇に烏龍茶のペットボトルを抱え、ロールサンドを持った皿とグラスを手に持った。足で寝室のドアを開け、サイドテーブルにそれらを置く。伊達は壁に背を預けて起き上がっている。グラスは空だ。そこに新たに烏龍茶を注ぐ。
 しばらく、二人でもそもそとサンドイッチを咀嚼した。最後のひとつを烏龍茶で流し込む。そうしてひとつ小さなため息をついた。……おい。それを咎めるような伊達の声がする。今日で、最後なんだろ。ええ。しないのか。ぎょっとして振り返った。そこに、凪いだ目の伊達がいる。いつも学校で見せるような無関心のかたまりでも、憤怒に染まったそれでも、ベッドの上であらわにした熱と羞恥に浮かされたような目でもない。一番近いといえば、あの最後の日に帰るわと言って寄越したときのそれであるとふと思う。一つつばを飲み込んだ。シーツの上にてのひらをいざらせる。その足に触れようとすると、すっと音もなく離れてゆく。触るなと一言、告げられる。
 あのSDカードはお前の好きにすればいい、だから一つ答えろ、なんでこんなことをした。
 なにかが彼の中で一つの終わりを迎えたような、そういう静かな声であった。伏せていた顔を彼に向ける。カーテンから注ぐ陽が彼を横から照らして、濃い陰影を作っている。……花壇を。喉から絞り出した声は少し掠れている。彼はその言葉に目を見開いたが、しかし少し安堵したような顔で真田の顔を見返した。
 二月初旬の、寒い一日であった。その日真田は外回りに出ていた。そうして、そこが四月から勤務する高校の近くだと気づいた。そろそろ引っ越し先も決めないといけない。住環境にこだわりはないし、ある程度の貯蓄もある。直帰すると上司には言っておいたので、そのまま下見も兼ねて周りをぶらつこうと決めた。坂をぶらぶらとのぼりながら、彼方にそびえる校舎に目を細めた。もう授業は終わっている時間だろう。今でも五時になるとユーモレスクが流れるものなのだろうかと真田は思う。
 途中、下校途中の生徒何人かとすれ違った。この中の誰かを教えることになるかもしれないかと思うと、にわかに背筋が伸びる。そうしてひとりでくくっと笑った。やがて坂をのぼりつめる。このあたりでは比較的歴史のある高校だ。グラウンドからは運動部の掛け声がひっきりなしに届いた。薄曇りの空に照明灯が孤独にそびえたっている。校舎前に伸びる道を挟んで、ぼんやりとその様子を眺めた。そうしてふと気づく。校門横の花壇に座り込んで、せっせとその手入れをしている人影。学校指定のジャージなのだろう、薄いグリーンの袖を肘までまくりあげている。両脇には抜いた雑草が山を作った。その脇にも、ゴミ袋が二つ。ふと目を走らせる。その花壇は校門からフェンスに沿うようにしてかなりの長さがあった。そのどこもかしこもすっかり雑草は抜かれて、黒い土をさらしている。園芸部があるのかと真田は頭を巡らせた。その間も、そのひとから目が離せないでいる。気のついたときには、携帯のカメラを覗き込んでいた。シャッターは一回。遠景を無理にズームしたためにぼやけてはいるが、真田は手早くそれを保存して携帯を握りしめた。もう一度顔を校門に向ける。抜いた雑草をゴミ袋に詰めているすがた。やがて彼は三つものゴミ袋を提げて校門の中に消えていった。そうして、真田もまた踵を返して坂を下りた。
 それから何度か時間を作って高校を訪れた。表向きは引っ越し先を探すという名目で。そのたびに花壇の様子を眺めた。再び彼を見ることはなかったが、段々と賑やかになっていく花壇の様子を見るのは楽しかった。彼の手がこれを作り上げたのだと思うと自然と笑顔になる自分に気づいた。そうして、早く四月になって彼を見つけなければと。
 しかし四月になって高校に赴任し、園芸部のないことを知ってこころが冷えるのを感じた。いや、確かにそれは存在していた。三月末をもって一人いた部員は卒業したのだと聞かされた。卒業アルバムも確認した。黒い髪の男子生徒。真田のあの写真だけでは顔までは判別はつかない。しかしそういうことだと理解した。
 ふふっと伊達が笑った。心底おかしいと、そういう顔で笑った。しまいにはとうとう腕で口元を覆い、声をあげて笑いだした。……ジャージは確かに生徒からの借りもんだったけどな。思わず口をへの字に曲げてしまう。そのようなこと、判るはずがない!お前が俺だと思ってたやつはほとんどなにもしない幽霊部員だったぜ、しょうがないから俺が手入れしてたんだ。そうしてまた楽しそうに肩を揺らせた。ぐうと唸る。で?なにがでござろう。俺を見つけてどうしようと思ってたんだ?
 ニヤニヤと細められた目を真田は知っている。あの夏の日にベッドの上で彼が見せた顔である。心底面白いという顔で、真田の脇腹や首筋に触れてきた。思わず顔をそむける。膝の上で拳を握り、つばを一つ飲み込んだ。……ひ、ひとめぼれで、ござったゆえ。
 するりと裸の肩を彼の腕がなぞった。引き寄せられる。目前に彼の顔がある。よくよく見てみれば、彼の瞳孔は少し縦に長い珍しい形をしていた。生徒に手を出すつもりだったのか、とんだ不良教師だな。真田の後ろ髪をあやすようにかき混ぜながら首を傾げてくる。むっと眉をひそめる。生徒ではござらん!……そうだな。そうしてまた、ふふっと笑う。あたたかなくちびるが真田のこめかみや、鼻の頭をついばんでゆく。……怒っておられるのでは……。くすぐったい感触に目を細めていると、やはり、怒ってるぜと返された。あんな汚い真似しやがったのはまだ許してねえ、でも、まあ、ひとめぼれなら許してやらなくもない。
 そうして、頬をついばんでいたくちびるが真田のそれにのせられる。一瞬で離れていってしまう。考えてみればそこに触れるのはこの部屋の中では初めてだった。それまでの伊達はかたくなにそれを拒絶していたように見えたので。真田は膝の上で握っていた拳を開いた。伊達の頬を包む。その不思議な形の目を覗き込みながら、申し訳ありませんと詫びた。ふ、と彼の吐息が皮膚をあたためる。俺ばっかりじゃ面白くないところだったが……、そう呟いて、また伊達のくちびるが真田のそれにのせられた。今度のそれは、少しだけ長く深い。なんのことでござろうと問い返すが、伊達はニヤニヤと笑って真田の問いには答えない。俺を満足させられたら教えてやろうと、真田の背筋をなぞりながら言って寄越すので、とりあえず押し倒しながらその太腿を抱え上げた。シーツに彼の黒い髪が広がる。からだをなぞる真田のてのひらに、伊達の皮膚は従順に応えた。柔らかく迎え入れられる。ゆっくりと根元まで押し込んで、彼が手をこまねくのに従って胸を合わせた。伊達の足が腰に絡む。心音はやがて同調し、緩やかに高まった。
 ふと、今の自分は彼の名前を知っているのだと思う。そうして、政宗殿と彼の耳元に吹き込んだ。耳朶を舐め、顎先までくちびるを滑らせる。ふ、と彼が息を吐く。ぎゅうと彼の中が締まる。とっさに歯を食いしばり、弾けそうになるのを堪えた。……とりあえず、一回したらな。一回したら?朝陽が伊達を横から照らして、髪の毛の影が柔らかく頬に落ちている。そうして彼は、あの夏のはなしから始めようぜと笑って言った。

ハローグッバイ, ハローグッバイ, ハローグッバイ 5(100508)