おそらくバイト先から貰ってきた風邪で、ここ五日間ほど真田は苦しみ続けている。まだ熱は三十七度以上あるが、なんとか動けるようになったので今のうちに片付けられるものを片付けてしまおうという心算である。ふとんから動けない間にたまった洗濯物を洗濯機に放り込み、スイッチを押す。喉の違和感に顔をしかめながら、洗い物を片付ける。窓を開け放って換気をしているために、部屋の中はひどく寒い。鼻を啜りあげながらお粥のでんぷんでカピカピになった茶碗をゆすいだ。
 すっかり赤くなった手をタオルで拭きながらリビングに戻る。窓を閉め、こたつの中に足を入れた。天板の上で、携帯電話のLEDがちかちかと瞬いている。黄色のそれはメールの着信だ。フリップを開いてセンターキーを押す。伊達からのメールである。そういうふうに一日に二度ほど、伊達から写真が送られてくる。本文はない。件名に、青木がいた、寒い、とだけそっけなく書かれている。今年の沖縄は、例年よりずっと気温が低いと天気予報は伝えている。
 写真は、ノックの練習風景を捉えていた。小さな液晶画面では背番号まで読み取れない。だがそのユニホームはヤクルトのものである。真田はマスクの下のくちびるをほころばせて、かしかしと返信メールを打った。
 伊達は今沖縄にいる。三日前から五日間という予定で、野球キャンプ地を巡っている。勿論メインで訪れているのは楽天がキャンプを行っている久米島だ。今日の朝に本島に移動して、ヤクルトのキャンプ地である浦添を訪れている。飛行機は明日の夕方だと言っていたから、明日の朝は中日を見に北谷に行くのかもしれない。
 旅行に行こうと言い出したのは伊達からだった。十二月初めである。野球がシーズンを終えてしまって、それまで週に三日は二人してテレビを覗き込んでいた習慣もすっかりなくなってしまった。それでも週に一回は伊達の作った夕食を食べてはいるが、それが終わってしまうとすぐに沈黙が足元に這い寄ってきて居心地を悪くさせてしまう。そうすると伊達のほうが我慢ならなくなるらしく、やにわに冷蔵庫にあれそれがないと言いだしては買いに出かけるとコートに腕を通し始める。そうするともう真田も伊達の部屋に居続けるわけにもいかなくなるので、一緒に部屋を出るはめになってしまう。寒風吹きすさぶ中、二人、無言である。
 それとは別に、伊達はバイトのシフトを増やしたらしい。講義を終えるとすぐに講義室を後にしてしまい、一日一回会話を交わせるかもあやしい有様だ。不満がないと言えば嘘になる。だがどうすればいいのか真田には判らない。液晶画面の中の試合を覗き込みながらであればすらすらと言える言葉も、面と向かい合ってしまうと喉の奥に引っかかって出てこなくなってしまう。
 そういう、寒い夜の日だった。伊達の作った麻婆豆腐を啜りながら、真田は時折テレビに目をやる。音量の抑えられたそれはゴールデンタイムのバラエティを流している。最近ぐっと増えた雑学クイズ番組だ。だが二人とも、答えを知っているくせに中々それを口にしようとしない。スポーツニュースのひとつでもやってくれさえいればと真田は思う。カチャカチャと蓮華が鳴って、笑い声の隙間を埋めてゆく。
 ……あんた、二月の初めあたり空いてる?ていうか、空けといて欲しいんだけど。緑茶の入ったグラスをテーブルに置いて、やにわに伊達が切り出してきた。テストが終われば暇ですが……。旅行、行かね? ……旅行? 沖縄。
 ぎょっとして目を見開いた。恐る恐るキャンプ?と口にすると、ようやく伊達はニッと笑ってみせた。
 その伊達の笑顔が、真田の思考の中で段々と怒りの表情になる。真田はこたつの天板に頬を押し当てる。からだの調子は、テストが行われている間からよくなかった。喉の痛みと、からだのだるさ。テストは気力で乗り切ったと言っていい。だがそれ以上は無理だと真田のからだは判断した。最後の一教科のテストを終えて、講義室を出たその場で真田は倒れて医務室に運ばれた。
 目が覚めて最初に目にしたのがその伊達の顔だった。怒っている。これ以上ないくらいに怒っている。はっきりしない思考はそれでもそう判断して、真田はすみませんと一言伊達に告げた。馬鹿じゃねえのお前。すみません。バイトに精出すのはいいけどよ、それで抵抗力落として風邪ひくなんて……。すみません。沖縄どうすんだよ、飛行機のチケット、もう取ってあんだぞ。すみません。一人で行けってか。すみません。……もう、いい。
 シャッとカーテンが引かれる。真田は固く目をつぶる。頭がふわふわと浮いているようなこころもちである。そしてそれはけして気持ちのいいものではない。脳みそがじかに空気中で揺れているような、そういう座りの悪い不快感がある。
 その日、真田は伊達の呼んだタクシーでアパートまで運ばれたらしい。そうして伊達にひきずられるようにしてふとんに入った。それは覚えている。肌馴染みのいいシーツに頬を埋めた感触。伊達はそのあとも、バタバタと部屋を出入りしていた。そのときの真田はすでに思考停止の状態にあったが、伊達はそれから食料と薬の調達に行っていたのだ。こうして部屋を見渡して、真田はそっとため息をつく。
 こたつの上で、ブルブルと携帯電話が震えている。いつの間にか眠ってしまったものらしい。カーテンの向こうはすでに暗い。目を擦りながら携帯のフリップを開ける。時刻は五時半。LEDの色は黄色。伊達からである。件名は、館山にサインもらった、とある。写真には広げられたユニホームの背中。25という背番号の右斜め下に、確かにマジックでサインが書かれている。
 こたつの電源を切った。洗濯機はとっくの昔に沈黙しているが、もう干せる時間帯ではない。明日、起き上がれるようだったらコインランドリーに行こうと決める。のそのそと起き上がり、洗面台で顔を洗い、歯を磨く。鏡を覗き込むと、耳の上のあたりで髪の毛が盛大にはねてしまっている。それを撫でつけながらリビングに戻る。鼻を啜りながら体温計を脇にはさむ。
 三十七度三分。微熱は続いているが、もうこれ以上体温が上がることはないだろう。関節の痛みもだいぶ引いてきた。冷感ジェルシートを額に貼り付け、シーツを取り換えたふとんにもぐりこむ。こたつ布団の波に隠れている携帯を、腕を伸ばして探り当て、もう一度フリップを開ける。バックライトがつき、そこに25と背番号の書かれたユニホームが大写しになる。しばらくの間それを眺め、サブメニューを呼び出してその写真を待ち受け画面に設定する。そうして、メールの返信をかしかしと打ち始める。
 送信されましたというアラートが出たのを確認して、真田は携帯を枕元に置く。手を伸ばして照明を切る。向かいのマンションの灯りが薄いカーテンを通して部屋の中に差し込んでくる。うとうととまどろみながら、真田はまぶたの裏に、旅行行かね?と言ったときの伊達の笑顔を思い出している。明後日には、彼は戻ってくる。そうして、25という背番号のユニホームを持って真田のアパートのインターホンを押すだろう。

2月3日水曜日晴天、炬燵日和(100512)