頭上から、おかえりという声がした。驚いて肩を躍らせてしまったのが判ったのだろう、続いて笑い声が降ってくる。見上げた先に、二階の手すりにもたれた伊達の姿がある。薄曇りの空にぷかぷかと煙草の煙が浮いた。もう、いいのかよ。熱は下がり申した、そろそろからだを動かさないと、一生ふとんの中から出られない気が……。言いさして、真田はあたりを見渡した。また、笑い声が降ってくる。目の前の階段を一段飛ばしで駆け上がる。洗濯物を入れた鞄が大きく揺れた。
 真田の部屋のドアの前に立っている、伊達のその足元に大きな荷物がある。なにかと問うと、伊達は煙草の火を消しながら土産と呟いた。と、買い物行ってきたんだけど、起き上がれるならまあいいか。
 ドアノブははっとするほど冷たかった。寒い寒いと繰り返す伊達をこたつの中に押し込み、コンロでお湯を沸かす。マグカップにコーヒーを用意している間、伊達が買ってきたというスポーツ飲料のペットボトルや果物の缶詰を戸棚にしまう。見慣れないビニール袋の中からはちんすこうが飛び出した。その奥に、島トウガラシと書かれた小さな箱。あ、それ泡盛にトウガラシが漬けてあるやつ、うまかったから買ってきた、あんた辛いの大丈夫だったよな? まあ、そこそこは……。言いながらそれも戸棚にしまう。お湯の沸く音がする。伊達はまだ寒い寒いと繰り返している。コーヒーをテーブルに置く。
 沖縄は、どうでしたか。真田もまたこたつに足を忍ばせながら言うと、寒かったと返ってくる。晴れの日が少なかったようで。ああ、全然だった、寒かった。それでもこたつの中に入っている間に落ち着いてきたのだろう。伊達の頬が赤く照っている。真田は、伊達がほとんど寒いとしか言っていないのに気づいて少し笑ってしまう。……それ、サイン貰ったユニホーム。指差した先の、小さな紙袋。
 そうして、顔がにやけてるぞと伊達が言った。真田はくちびるを真一文字に結びながら、別ににやついてなどおりませんと返す。そうして、ありがとうございますとこたつに額をつけた。だんだんと部屋がぬくもってくる。しばらくコーヒーをすする音が絨毯の上に降り積もった。
 いつの間にか、テレビの電源がついている。平日の昼間だ。ほとんどのチャンネルがワイドショーの時間帯である。伊達はつまらなそうにリモコンを操作していたが、やがてぷつりと電源を落としてマグカップの中身を飲み干した。そうして、鞄の中から封筒を取り出してくる。これ、預かってた飛行機代とか。
 思わず小首を傾げた。真田が風邪を引いたのは出発の日の直前だった。キャンセル料で全額持っていかれて然るべきである。真田が目を丸くしているので、伊達もまた瞬きを繰り返している。言ってなかったっけ? なにをでござるか。あんたが風邪引いて行けなくなったから従弟と行ってきたって。従弟?誰の? 俺の。……聞いておりませんが。いや、言った、あんたが聞いてなかっただけだろ。しかしですな。……俺は言ったと思うけど、半分意識もないような状態のあんたになに言ったって言ってなかったとしても同じことだろ、どうせこんな、言った聞いてないって言い争いになるだけだし、つうかなんでそんな喧嘩腰なの。
 そういう伊達も相当喧嘩腰である。眉間にしわが寄っている。多分、自分もそうだろうと真田も思う。……実際、伊達の言い分が正しいとしてもそういう事実があったというだけで腹の底がざわつく。自分は狭量なのだ、おそろしく。
 一つため息をつく。伊達のマグカップを取り上げて、こたつから足を抜きとった。キッチンのコンロに火をつける。カップを少し洗って、もう一度コーヒーの粉を入れる。やかんの水が沸くのを待っている間、熱を冷まそうとしたが駄目だった。胃がむかついて、仕様がない。
 同じようにコーヒーを入れて戻ると、もう伊達はこたつに肘をついてそっぽを向いている。カサカサと音がするので、おそらく雑誌でもめくっているのだろうと思う。飛行機代の入っているのだろう封筒は真田のほうに押しやられている。マグカップを置いた。しかし伊達は少し視線を寄越しただけでまた顔を伏せてしまう。真田は憮然とコーヒーを啜りながら、先程伊達の寄越した紙袋を引き寄せた。ヤクルトの、ホームユニホームだ。背番号は25。メールで見たのと同じものだ。右下に、サインが入っている。真田はそっとてのひらでその部分を撫でて、またため息をついた。
 ……すみません。額に手をやる。もう熱は下がったはずだったがわずか、熱い。血がのぼっている。別に、という伊達の声がする。……楽しかったですか。まあ、そこそこ。あんなに楽しみにしてらしたのに? だってあいつは、……従弟のことだけど、野球のことあんたほど詳しくねーし。カサカサと音がする。伊達が雑誌をめくっている音である。さっきよりずっとめくるスピードが速い。俺も、できることなら政宗殿と一緒に行きたかった。
 真田は手元のユニホームから、こたつの上の封筒に手を伸ばした。少なくない金額の紙幣が入っている。真田はその中から樋口一葉と、野口英世の札を何枚か抜き出し、伊達のほうへ押しやった。先日のタクシー代と、伊達が買い出しをしてくれた分である。合わせて、館山のレプリカユニホーム代。伊達がわざわざ買っていってくれたのだろう。
 それでも封筒の中にはまだだいぶ紙幣が残っている。真田はその中身を覗き込みながら、開幕前になにかうまいものでも食べに行きましょうかと問いかける。ああ、それともオープン戦にでも……。そう言いさした真田の目の前を伊達のてのひらがさらってゆく。彼もまた同じように封筒の中身を覗き込んで、鼻を鳴らせた。
 なあ、あんたさ、本当にキャンプ地巡りするだけが楽しみだった? 伊達の目が白く光っている。光るというよりぎらついている。からだの体温が上がっているのだろう、頬が赤く照った。真田は一つつばを飲み込んで、はあ、まあ、と漏らした。目の前で伊達が口をへの字に曲げる。歯の間から鋭く息を吐き出して、こたつの上に上半身を乗り出してきた。天板にのった彼の指の爪の白さ。そうして顎が振られる。くちびるはへの字に曲げられたままだ。真田の顔の数十センチ手前でぴたりと止まって、まじまじと覗き込まれる。少しだけ顎を引いて、真田は数回まばたきを繰り返した。やにわに、ゴッと音がする。額に衝撃がある。思わず呻き声を漏らしたくちびるを、なまあたたかいものが舐めてゆく。それが伊達の舌だと知って、目を見開いた。思わず後ろに手をついてしまう。右手は口元を覆った。伊達はやはり口をへの字に曲げて、真田の目をじっと見つめてくる。なにを、と真田が言いだすより早く伊達は首を横に振った。
 だから、……ああもう全部言わせんじゃねーよ馬鹿。
 そうして伊達は封筒を真田に投げつけると鞄をひっつかんで立ち上がり、足音を鳴らせて真田の部屋を出ていった。乱暴にドアの開け閉てをする音がする。続いて、コンクリートの廊下を叩く靴音。真田は呆然と投げつけられた封筒を握りしめていたが、伊達の意図していただろうことに思い当たって、たちまち顔を赤くさせた。

2月6日金曜日曇天、喧嘩日和(100519)