アパートの風呂はユニットバスだ。普段はシャワーで済ませてしまう。足の伸ばせる大きさの風呂に入るのはいつぶりだろうと伊達は薄目を開けて考える。そう遠くない時期に入ったはずだった。三週間前だ。あたたかな水面を三本の指で叩く。沖縄に行ったときの民宿の浴場はまずまずの広さと快適さだった。まだ一カ月も経っていないというのに思い出される景色がひどくかすんでいることに伊達は驚いている。二月初めの沖縄は、薄曇りの日が続いたためか思ったよりも寒かった。沖縄ばかりではない。もう二月も終わりだというのに寒気団が日本列島を覆っていて、気温は一向に上がらない。マフラーをかたく首に巻き付ける日が続いた。
 血管は温度に敏感だ。伊達は、バスタブに張られた湯に手足を入れるときの、どくどくと血脈が音をたてる感覚があまり好きではない。その一瞬手足の感覚が遠くなり、ついでびりびりという痺れが皮膚表面を覆ってしまう。好きではない。なのに、真田の張った湯といったら顔をしかめてしまうぐらいには温度が高く、しばらくバスタブの隅のほうでじっとからだを丸めていた。その痺れもだんだんと薄くなって、からだが湯の中に弛緩してゆく。バスタブのへりに後頭部をもたれさせて、まぶたを閉じた。少しだけ絞られた照明はしかし強烈に伊達のまぶたを焼いて、視界が赤く染まる。
 ……連絡があったのは、バイトの休憩中であった。裏口から出、煙草をくわえる。ライタをする。カチカチと何回か失敗して、何度目かにようやく火がついた。肺いっぱいに煙を吸い込む。吐き出した煙が高く薄い空にゆらゆらと揺れた。ずっとキッチンで火の番をしていたので、にわかに下がった気温のために指の先に血が通らない。
 一本の吸い終わりしな、ボトムの後ろポケットにねじ込んだ携帯電話がぶるぶると震えた。画面の表示を確かめ、通話ボタンを押す。今、いいですか。そう言って寄越した声はなぜだかいつもより低いように思えた。
 今はバイト中だから後からかけなおすと返すと、ならば何時に上がりますかと訊いてくる。今日は早番だから四時だ。そう伝える。真田は少し間を開けて、ならばその時間に迎えに行きますと言う。……なに、なんかあった?いえ、少し、おはなしが。  歯切れが悪い。電話で言いにくい話題は、えてして面と向かっていてもややこしい話になるに決まっている。伊達は煙草のフィルターを噛みながらそれを言ってやろうかとも一瞬考えた。通話口の向こうで真田はじっと息をひそめている。政宗殿、と小さく彼が呼ばわった。だから、なに? 声が少し強くなったかもしれない。真田はすっと気を遠ざけたあと、では四時にと言って通話を切った。思わず液晶画面を覗き込んでしまう。物言わぬ画面は真田の名前と通話時間を表示させて、じきにブラックアウトした。随分と短くなった煙草を靴の底に押し付ける。携帯灰皿に吸い殻を捨てる。ブラックアウトする前、画面の右隅に表示された時計は休憩時間の終わりを示していた。携帯をボトムのポケットにねじ込む。裏口を開ける。ドアノブの金属がひやりと伊達のてのひらを刺した。
 そうして、バイトを終えて裏口から出ると黒のバイクが止まっている。シートにまたがった真田はなにやら神妙な顔つきで携帯電話を操作していて、伊達は数時間前の真田の声の様子を思い出してため息をつきたくなる。話ってなに。バイクに近寄ると、そこで初めて気がついたというふうに真田はびくっと震えて顔を上げた。……お疲れ様で、す。……話ってなに? もう一度そう繰り返すと、真田はきょろきょろとあたりを見回して腕に抱えたヘルメットを伊達に押し付けた。……乗ってくだされ。それきり口を開こうとしないので、伊達はそっとため息をついてヘルメットをかぶった。シートにまたがり、真田の腹に手を回す。やがてエンジンのかかる音がアスファルトに叩きつけられる。真田の腹はあたたかかったが、やはり気温と風圧には負けてしまう。指先の感覚を皮切りにすべての感覚が徐々に失われて、轟音だけがからだを包んでゆく。
 ドアの開く音は唐突で、思わず腕が水面をかいた。ドアの隙間から顔を覗かせた真田は目を丸くさせている。……あんまり、長いので……。そうしてごにょごにょと口を動かし、風呂場のドアを閉めようとする。その背中に真田と呼びかけた。俺、もう出るから、次お前入れよ。
 言ってバスタブから立ち上がる。まごついている真田を追い越して脱衣所に上がり、手早くバスタオルでからだを拭いた。白いそれを腰に巻く。真田はじっとそれから目をそむけている。伊達は鼻を鳴らせて、脱衣所から出た。空調温度は二十四度に設定されている。熱い湯から出たばかりの肌はぞっとそそけだって、伊達はもう一度鼻を鳴らせた。背後でガタガタと音がする。風呂場とこの部屋の壁は案外と薄い。伊達は風呂場に目をやって音のしなくなるのを待ったあと、部屋の中央に陣取っているベッドに歩み寄った。てのひらをおく。スプリングが効いている。腰を下ろし、そのままからだを後ろに倒した。すると天井に、同じく大の字に寝転がった伊達の姿が投影されている。ぎょっとしてまじまじとその、天井の鏡を見つめてしまった。話には聞いていたが、そういう部屋に入るのは初めてだった。恐らくあの男もそうだろうと、シーツに頬を擦り付けて伊達は考えている。
 そうして、いつの間にかうとうとしていたものらしい。気のついたら目と鼻の先に分厚いてのひらがある。均一に筋肉の乗った腕を辿ってゆくと、その先にベッドに腰掛けじっと一点を見つめている真田の姿がある。伊達のからだにはふとんがかけられていた。真田はすっかり服を着こんでしまっていて、これではここに来た意味がない。そう伊達は思う。そう思って、ああ俺が寝てしまったからかとまばたきを繰り返した。
 ……悪い、どれぐらい落ちてた。三十分ほどですな。真田の目が伊達を向く。……お疲れのところ、無理を言って申し訳ござらん。しんとした目をしている。こういう目をときどきこの男はする。例えば、ヤクルトがもうほどんど勝てる見込みのない失点をしてしまったときだ。機械的にスナック菓子を口に運びながら、テレビ画面を注視するガラス玉はその実なにも映していないようで伊達は隣に座りながら空恐ろしい気持ちになる。
 時計を確認する。まだ休憩時間は残っている。伊達はベッドに手をついてからだを起き上がらせた。おい、やるぞ。そう言って寄越すと、真田の肩がびくりと跳ねる。なんだよ、話ってそれじゃねえの、俺は、とうとうあんたがそういう気になったのかと……。いや、その。……俺が寝ちまったから気が殺がれたか? いや、そうではなくて、その。そうして真田は両手で顔を覆った。深く息をする。服に包まれた肩が大きく上下する。真田はその手でごしごしと顔を擦り、覗かせた目で伊達をじっと見つめた。……政宗殿は、やはり覚えてらっしゃらないのだな、と。
 ずっと、そう考えており申した。そう低い声で真田が呻くように言うので、伊達はぎょっとして白いシーツを掴んだ。

2月25日木曜日晴天、休憩日和(100526)