ベンチに重たい空気が落ちている。正確には、二つ並んだベンチのうち、右側のベンチである。毛利と伊達と真田が座っている。身を乗り出すようにしてじっとグラウンドを睨んでいる毛利と、野球帽で顔を隠しベンチにふんぞり返っている伊達である。会話はなく、彼らはじっと口元を結んでいる。打席では猿飛がツーナッシングのカウントでバットを構えている。見せ球が一球、外角高めに放られた。次の真ん中低めをファールにした猿飛は、ツーワンのカウントからレフトにヒットを打って塁に出た。
前田はそれで少しはこの重苦しい空気が和らぐかと思っていたのだが、どうもそれは不成功に終わっている。首を動かさず、目だけで右の様子をうかがった。会話はない。少なくとも、伊達と毛利と、その隣に座った真田の間に会話はない。目深にかぶった野球帽の下で、真田の頬がひきつっているのが判る。前田は隣に座った徳川と顔を見合わせた。彼もまたいつものあっけらかんとした笑顔を皮膚の下にひそませて、軽く首を横に振った。
この前のイニングのことであった。七回裏、三―三。相手チームの先頭打者が内野安打で塁に出た。そのままバントと進塁打で、走者はじりじりと三塁まで進んだ。しかしツーアウトである。打者は今日の練習試合でまだヒットを打っていないドラッグストアの店主である。大学近くの商店街草野球チームとの試合で、前田たちのチームが勝てばそれなりの優遇が受けられるという約束であった。
ワンスリーから打ち上げられたフライは、センターにまっすぐ伸びていった。イージーフライである。ダイヤモンドの中にいる誰もがピンチを乗り越えてため息をつこうとしていた。前田もまた一塁ベース近くで、打球の様子をうかがっていた。雲の薄くかかった、春の空に浮かんだボール。黒い点。それが真田のグラブに入るのを想像した。
だがボールはなぜだかシングルハンドで構えられた真田のグラブからポンと飛び出してしまった。ぎょっとしてしまう。慌てて処理するのもむなしく三塁ランナーはホームベースを駆け抜けた。四―三。ボールが内野に戻ってくる。薬局店主の不気味な笑みを背中にしょって、前田はそっとため息をついた。それは先程まで用意していたような安堵の混じったものではけしてない。イージーミスは誰にでもある。だがやってはいけない機会というものがある。誰もがそう言うだろうから、前田はもう少し違う言葉を用意しなければならないと考えた。いや、誰もがというより、真田のエラーを真正面で見ていた伊達と毛利がというべきだ。先程から前田の右半身がちりちりと痛い。
……今日うちが勝ったら、まつさんとこのかつ丼定食一カ月半額だったっけ? 小声で徳川が前田の耳元に囁いた。ご丁寧に口元をグラブで隠している。いや、三割引き。前田もまたグラブで口元を隠す。値段交渉は前田が行ったので数字は確実である。商店街チームが勝ったならば、前田らが週三で商店街の早朝の掃除を行う約束であった。
長曾我部は粘っていたが、とうとうライトライナーで打席を終えた。猿飛がぐるりとダイヤモンドを回って帰ってくる。よし行くか。口の中で呟いて前田は立ち上がった。隣のベンチで真田もまたのろのろと腰を上げている。ほらシャキシャキ行くよ! グラブでその背中を叩くが、返事はなかった。重症だと前田は思う。目の前でかつ丼が蒼天に飛んで行ってしまう。
結局あれから、九回の表に伊達がソロホームランで追いついたものの、追撃はそれまでだった。打ち上げを終えた帰り道でも、相変わらず真田の首はうなだれたままである。行く先にはっとするような三日月がのぼっているのにもこの様子では気づいていないだろう。前田は居酒屋に移動する前に購入したペットボトルをぶらぶらと揺らしながら、少しだけ肩をすくめた。打ち上げには今日試合にでたメンバーだけではなく飲み会にのみ参加する人間も出てくるので、結構な人数と騒がしさになる。だというのに真田といったら、ずっと隅のほうでビールを舐めているだけだった。おかわりすらしていないだろう。料理もほとんど手をつけていないふうだった。前田は、真田の前に置かれたほとんど泡の消えたビールの様子を思い浮かべる。時折小さな気泡が水面に向かって泳いでゆく様子を。そして、同じように泡の消えたビールをすすっている、気難しそうな男の顔を。
政宗と、なんかあった? そういえば、と前田は思い出す。いつも真田は伊達とキャッチボールをしているのに今日ばかりはなぜか猿飛とキャッチボールをしていた。当の伊達は毛利とキャッチボールをしていたように思う。なんら不思議のない組み合わせだ。猿飛は真田の従兄であるらしいし、伊達と毛利は二遊間を組んでいる。……そうしてぼんやりと思考を宙に漂わせていたので、当の真田がどうなっているかを気にかけていなかった。そもそも前田の質問に、今日の真田はまともに答えた試しがない。気づいたら真田は前田よりも数メートル向こうで足を止めて、じっと己の爪先を見つめているようだった。街灯の橙色の灯りが彼の薄い色の髪をあたたかく照らしている。
おーい、と呼びかけると、ようやくのろのろと真田は歩き出した。横に並ぶのを待って前田もまた足を踏み出す。やっぱ、なんかあったんだ? 今度は小さく、ああ、と真田がうなずいた。また喧嘩? そうではござらん。じゃあなにさ。……昔の話を、少し。
前田が首をひねると、高校のときに一度対戦したことがござったと返ってくる。初耳だ。そういう昔話は、長曾我部と伊達が同じ野球部の先輩後輩だったということぐらいしか聞いたことがない。前田がそう呟くと、俺もこれは今日初めて話す、真田はそう言ってぼそぼそと話し始めた。
そういう昔話を聞きながら、前田はペットボトルのお茶を一口口に含んだ。前田は野球に関しては初心者である。高校まではサッカーをやっていた。キャッチボールの経験はあるが、硬球を打つようになったのはこの草野球チームに入ってからである。お前のガタイなら練習すればすぐホームラン打てるぜ。バイト先で前田を誘った長曾我部はそう言って笑ってみせた。
スポーツの経験はある。しかし真田がいま語ったような高校時代の対戦相手のことはもう頭の隅のほうに追いやられてしまっている。顔すらもう思い出せないだろう。勿論、抜群にうまい選手に関してはよく覚えている。彼のボールさばきや、ゴールへの執念のようなもの。それはつまり彼のプレイスタイルに似たようなもので、やはり顔かたちを覚えているかというと少し心許ない。
しかし真田の語っているのは新人戦の話で、恐らくは彼の初登板のことなのだろう。それならば、初めて失点を喫した相手のことはよく覚えているものなのかもしれない。そう思う。
つうか、ピッチャーやってたんだ? 高一の冬には外野にコンバートしましたが。ああ、それで対戦できなくなった? ……伊達殿も同じ時期に野球部を辞められたらしいので。辞めたって……。ペットボトルを傾ける。もう随分と軽くなった。前田のアパートは、次の次の辻を右に曲がってすぐだ。真田の住処は知らないが、近所だという話は聞いたことがないからもう少し向こうなのだろう。なにせ毎朝十キロもジョギングするような連中だ。
それで?と前田は続きを促した。真田は目をぱちくりとさせる。それは昔の話だろ、今日なにがあったのかって訊いてんだよ。
その、毎朝伊達殿と一緒に走ってるのだが、そのときに。
ごにょごにょと真田が言い淀む。もうそろそろ例の辻に行きあたってしまう。空になったペットボトルでごとごとと肩を叩きながら、うんうんと大袈裟なまでに相槌を打ってやる。真田がぼそりと核心を呟き、そうして、なにやら胸がざわざわするとこぼした。
辻で、やはりまだ気難しい顔をしている真田と別れる。左手の空に三日月が浮かんでいる。ポケットから携帯を取り出すと、長曾我部からメールが入っている。で?なんだって? 着信は十分前。たったそれだけの本文に返信のメールを打ちながら、前田はひとつため息をついた。たったそれだけのために始終気を張っていたのかと思うと気が抜けた。
そうしてぷちぷちとメールを打っているうちに、文章がややこしくなってくる。前田は思い切ってメールを破棄して、長曾我部の番号をコールした。五コール目で電話がつながる。お疲れーという彼の声に少し、安堵する。
いや、なんかさ、朝のジョギングのときにもうピッチャーはやんねえの?って訊かれたんだって。高一までちょっとやってたらしいよ。んで、その高一の新人戦のときに政宗と一回対戦してたんだって。それが公式戦初登板のときで、まあ幸村は覚えてるでしょ、普通。でも政宗はそんなこと覚えてないだろうってそう思ってたんだって。うん。なんか会ったときからもしかしてとは思ってたらしいよ。……だから、政宗のほうも幸村がピッチャーやってたなんて知る機会そうざらにはないわけじゃん。その年の冬には外野にコンバートしたらしいし。政宗だって野球部辞めたんだろ?うん。まあそれは置いといて。そうそう、そういうことじゃねーの。忘れてると思ってた向こうが覚えててくれたから舞い上がっちゃったんだよ。なにそれ?って思うよな。え?そんだけ?みたいな。しかも胸がざわざわするとか言っちゃうし。嬉しいなら嬉しいって一言言えばいいのによ。え?やだよ。喧嘩の仲裁ならやるけどありゃ喧嘩じゃないよ。まあ、つつくぐらいならやってもいいけど。あ、アパート着いたからもう切るわ。うん。お疲れー。
forget me not(100609)