毎週木曜日、レンタルビデオ店でのバイトを終えてバッティグセンターに向かうと、大抵真田の自転車が駐輪場に置かれている。きちんと手入れのされた紺色の自転車である。油のさされたチェーンが照明に黒々と光る。中に入ると、一番奥の、左打者用のケージから金属バットがボールを叩く音が聞こえる。伊達はその隣のケージに入り、バットを握る。真田は左打席に入っているので、向かい合うかっこうである。
 キン、とバットがボールを叩く。お疲れ様ですと小さく真田が言う。真田の打ったボールは綺麗な弧を描いて夕焼けの空に伸びてゆく。伊達は何度か素振りをして、打席に立つ。昼過ぎからずっと立ち仕事をしていて、足元に溜まっていた血が轟音を上げてからだじゅうを巡り始めるのが判る。
 で、あんたら仲直りしたの?バイト先に現れた前田が去り際に、にやにやと笑いながらそうこぼしていった。これから夕飯時になるというのにスプラッタ映画を借りてゆく人間の気がしれない。伊達は淡々と貸し出し処理を行い、青い袋に入れたDVDを前田につき返した。……仲直りって、何?
 マシンからボールが吐き出される。ボールはバットの上を悠々と通過してゆく。一つ舌を打って構えなおす。仲直りって、なんだ。からだを巡っていた血が段々と頭にのぼってゆく。よく判らないが、あの二週間前の商店街チームとの試合から、伊達は真田と仲違いをしていることになっているらしい。真田がイージーエラーをしてしまったあの試合だ。確かにあの日一日はかつ丼定食三割引きがなくなってしまったことに腹を立ててはいたが、そんなことは何日も引きずるようなことではない。それなのに、真田は朝のジョギングでは挨拶以外伊達と口をきこうともしないし、こうしてバッティングセンターで顔を合わせてもじっと無言でいる。伊達のほうから話しかけてもさっと目をそらして短く返答を寄越すだけだ。そのくせ、こうして伊達と顔を合わせることを厭ってはいないふうである。真田がなにを気にしているのかが、伊達にはまったく心当たりがない。
 今度のボールは、バットの下に当たって緩いゴロになった。ぶんぶんとバットを回して、打席に立つ自分のフォームを確かめる。足の指の位置から始めて、ゆっくりと筋肉の位置と動きを確認する。マシンの吐き出すボールに細胞が反応する。耳をつんざく金属音を発して、ボールは向こうへぐんぐんと伸びてゆく。一つ息をついて構えなおす。そのときに、向かいのケージに入った真田が目に入る。片手にバットを提げたまま、伊達の打球の行方をじっと見つめている。……おい、と伊達はその男に声をかけた。びくっと真田の肩が跳ねあがる。お前、前田になんか言った?
 おずおずと真田の目が伊達を向く。この男を真正面から見据えるのは随分久しぶりだなと伊達は思う。ジョギングのときはずっと横に並んだままであるし、バッティングセンターではそもそも相対することがない。……いえ、別に。嘘つけ、今日あいつがバイト先に来て、仲直りしたのかとかなんとかほざいてったぞ。くしゃりと、真田の顔が歪んでその顔に影が落ちる。
 別に、本当になんでもござらん。言って、真田はバットを構え直す。伊達から視線を外してじっとマシンを見つめている。腹の底が途端にむかむかし始めて、思わず顔をしかめた。エラーのことならもう怒ってねえっつってんだろ。無言。伊達のケージのマシンがボールを吐く。構えてもいない伊達の膝元を通過して、ネットに突き刺さった。その間に、真田のバットが鋭くボールを叩く。
 歯の間から鋭く息を吐き出して、伊達もまた打席でバットを構えた。空振り。空振り。空振り。もう球数を終えたのだろう真田がケージから出てゆく。その姿を目の端に入れながら舌を打つ。てめえ、俺が終わるまで待ってろよ!そう叫びながらバットを振った。空振り。
 投げるようにバットをボックスにしまって、伊達は顔を上げた。入口までの打ちっぱなしのコンクリートを、靴音高く歩いてゆく。併設されているゲームコーナーにも真田の姿はなく、自然眉間に皺が寄った。あの野郎帰んなっつったのに……。ぶつぶつと呟きながら入口を出ると、黄ばんだ照明の光の下で真田がうずくまっている。膝の間に顔を埋めて、ぐったりと垂れさがった尻尾髪がその腕に絡んだ。……なにやってんのお前。のろのろと真田は顔を上向けた。そうしてじっと伊達を睨んだかと思うと、またその目は逸らされてしまう。
 お前、飯は? まだでござる。食って帰るぞ、王将でいいだろ。……いや、その……。つべこべ言うんじゃねえよ立てゴラ。そうしてアスファルトを靴底で叩く。夕陽はもうすでに屋根の向こうに沈んでしまって、薄紫の空気が目の先を漂った。王将のある通りに向けて歩き出した伊達の横に、滑らかな動きで自転車が並ぶ。後ろ、乗ってくだされ。そう言われて、真田の横顔をうかがい見た。ぼんやりとした輪郭が今にも溶けてしまいそうだ。ステップに足を乗せ、真田の肩を掴む。じんと熱い。車輪が高く音をたてるのを、じっと彼のつむじを睨みながら聞いている。
 ……前田殿には、と不意に真田が口を開いた。前田殿には、あの試合の日に少し話をし申した。話? 高一のときの新人戦のことでござる、俺は、あれが公式戦初登板で、初失点でござった。ハハッ、そりゃ恨みも深えだろうな。恨んではござらん、ただ俺はずっと政宗殿のことは覚えており申した、できればもう一度対戦したかった。
 音もなくスムーズなブレーキングで自転車が止まる。交差点の信号が黄色い点滅から赤に変わる。伊達もまたステップから足を下ろして、地面に足をつけた。真田の肩から手を外す。そのてのひらをじっと見つめる。悪いな、その冬には野球部辞めちまってたから。
 信号が青に変わる。真田は無言でペダルを踏む足に力を込める。タイミングを合わせてステップに体重を乗せる。てのひらがじっとりと湿っているのは、先頃まで運動をしていたこの男の体温が高いためだと伊達は考えている。
 ……だから、またお会いできてよかった、対戦できずとも一緒に野球ができるのであればそれでよいとそう思っており申した。
 出会ったばかりのときに、今この男が言ったようなことを言われたことがあるのを伊達は思い出している。政宗殿と野球がしたい、そうこの男が真摯な顔で叫んだときのことを。そうして顔を上げると、薄灰の空に白い半月が浮かんでいる。ぱちぱちとまばたきをした。……じゃあお前、最初から俺だって気づいてたのか。最初……ではござらん、名前を聞いてもしやとは思い申したが、あの試合のとき政宗殿は左でござったゆえ。真田もまた遠くを見つめている。その視線の先にあるものが同じだと知って伊達はもう一度目を半月に戻した。……確信したのは、やはりあの日のバッティングセンターにござる。そうか。もう一度伊達は口の中で繰り返した。ならば、気づいたのは伊達のほうが先だったのだ。
 王将に着く。真田が駐輪場に自転車を止めている。駐車場はほぼ満員だが、カウンター席には余裕がありそうだった。自動ドアをくぐろうとした、その腕を反対に引っ張られる。驚いて振り向くと、あの日のような顔をした真田がそこに立っている。なに、と伊達が言うより早く、彼の足は有無を言わせぬ様子で伊達を店横の路地まで連れて行った。
 街灯のないこのあたりではものの輪郭がうまくとらえられない。ものの影などははっとするほど黒く沈んでいる。伊達の手首を掴んでいる彼のてのひらだけがはっきりと体温を伝えている。伊達は思わず反駁するのも忘れて、この男のてのひらの熱さについて考えている。そうして顔を上げた。久しぶりに、顔と顔を合わせている。真田の目はぎらぎらと血走った。この男のこういう顔は初めて見る。そう思う。
 政宗殿は、俺のことなど覚えておらぬと、ずっとそう思っておったのに。……覚えてちゃ悪かったかよ。すん、と鼻を鳴らすと真田はそうではござらんと声を張り上げた。思わずあたりを見回してしまう。賑やかな大通りと比べて、ここはひどく影が濃い。
 すっと真田の目が逸らされる。まただと伊達は思う。……覚えていてくださって嬉しいと思うのに、胸がざわついて仕方ない、そういう無様なすがたを見せとうないのに、顔を見ずにはいられない、俺にはこれがなんなのかよう判らぬ、判らんからまたいらいらして……。白いエナメル質の粒が、真田のくちびるに食い込んだ。小さく、クソ、と呟いてくる。伊達は何度かまばたきを繰り返して、なんだそれと思わず漏らしてしまった。
 だから!と真田が声を張り上げる。瞬時に上がった温度は、そのあとゆるゆると下がってゆく。真田は手首で目を押さえて、俺にもよう判らん、と力なく繰り返した。伊達の手首を掴む力が段々と弱くなってゆく。きっと、痕になっている。陽も沈んですっかり涼しくなっているはずなのに、なぜだか体が熱い。自由になっているほうの手で頬を擦った。
 視線を感じて顔を上げる。半月はすっかり上のほうにのぼっていて、黄色く黒灰色の空に浮かんだ。真田は手で顔を覆って、その向こうから血走った目で伊達を見つめている。背筋がぶるりと小さく震えた。ごくりと唾を飲み込む。とうとう彼のてのひらから伊達の腕がこぼれてしまう。
 息をつく暇もなく、なにか熱いものがからだに押し当てられた。それが真田のからだだと気づいたときには、ぎゅうぎゅうと背中に回した腕で抱きすくめられていた。おい、と動揺を隠せないまま身動きをすると、それすら許さないというふうにかたく拘束された。胸を押しつぶされて息が苦しい。
 政宗殿は、と耳元で囁かれた。これまでにないほどひとの体温を近くに感じて背筋がしなる。政宗殿は、なにゆえ俺のこと覚えておいでで? ……知るか、記憶力はいいほうだからってだけだ。すると、だんだんと真田の腕の力が弱くなってゆく。ようやく胸を解放されて、伊達は大きく息を吸い込んだ。しかしいまだ両手は拘束されている。きつく伊達の手首を握りしめて、真田は身をかがめて伊達の顔を覗き込んできた。……おい、なんなんだ、まったく。眉をしかめてからだをこころもち後ろに引いていると、その分だけ距離を詰められる。政宗殿、顔が赤うござる。だから!それがなんだって!?
 思わず叫ぶ。真田はやはりこわばった表情で伊達を覗き込んでいたが、ひとつ息を吐いて伊達の両手を解放した。手首がじんじんと痛い。てのひらでそこをさすりながらくちびるを尖らせていると、次にバッセンに来られるのはいつでござろうかと、そう訊いてくる。……火曜日の夕方。では、その日にまた勝負をいたしましょう、百四十キロ、二十球のうちどれだけバットに当てられるか、負けたほうが勝ったほうの言うことをひとつだけ聞く。ハ、てめえ自分で言ったこと忘れんじゃねえぞ。伊達はくちびるの端を吊り上げて気を吐いたが、真田はまだ気難しい顔をしている。無論でござる。そうしてじっと伊達の目を見つめて、俺にはボールなぞ止まって見えますゆえ、そう言ってにやんと笑った。

forget me not 2(100613)