そのポスターがいつから貼ってあったのか、伊達にはまるで覚えがない。ゴールデンウィーク前にはもう貼ってあったようにも、ここ二三日に貼られたようにも思う。紺の色上質紙に、白いポスターカラーで文字や絵柄が書いてある。たわいもない図柄だが、他のコピーで量産されたポスターに比べると格別にそれは目立っているように思う。きちんとレタリングされた第五回天体観測の七文字は遠く廊下の端からでもくっきりと網膜を焼いた。
授業で回収した小テストの束をクリアファイルに挟み込み、職員室のある棟までの渡り廊下を歩く。そうすると、正面の掲示板にそのポスターが貼ってある。その前に立ち止まる生徒や教員は皆無である。伊達はその七文字と図柄に吸い寄せられるようにして足を止めた。第五回天体観測。鋭い三日月と、その上で光る丸い星。宵の明星と三日月がすばらしい配列で観測できる夜のこと。日程は二日後の夜だった。主催は地学部。
宵の明星……、そう口に出していたかもしれない。後ろから金星のことですなと声がした。振り返らずとも誰がいるかは判る。金星は日没後と夜明け前のわずかな時間しか地球からは観測できないそうでござる。よくよく記憶を掘り出してみればそんな事柄をテキストで読んだ覚えはある。高校では地学を選択しなかったから、おそらく中学のころのことだろう。……詳しいな、国語教師のくせに地学も得意か? あかほしは古語でござるゆえ、しかし言葉面だけで意識して目にしたことはありませんな、聞くと、普通の恒星よりも大きくくっきり見えるようで。
ふうんと返して、職員室の入り口に向けて足を運んだ。真田は伊達とは反対に、渡り廊下を向こうへ歩いてゆく。午後のあたたかな光が職員室中にあふれている。伊達は薄く開けられた窓から吹き込む風に目を細め、デスクにテキストを置いた。次のコマには授業は入っていないが、この時間に小テストの採点と、明日三つ入っている授業の用意をしなければならない。
そうして集中し始めると、もうほとんど他の音は入らなくなる。いや、入ってはいるが知覚レベルでは処理されなくなる。小テストで現れた悩ましい解答に少しだけペンを止めてこめかみに指をやっていると、小さな声で先生、と呼ばれる。顔を上げたそこに一クラスだけ受け持っている一年生が立っている。胸に抱えたまだ新しいノートを差し出して、これ、昨日提出できなかったノートです、そう言って寄越した。渡ししな、高いところでくくった髪がピョコピョコと揺れる。ああ、昨日休んでたもんな。言いながら、受け取ったノートをぱらぱらとめくった。所定のページに付箋を貼り、デスクに積み置く。あの、減点とか、ありますか。うん?そんな大層なもんはないから気にしなくていいぞ。するとその生徒はまたぴょこりと頭を下げて小走りに職員室から姿を消してゆく。一年生のクラスが入っている棟と職員棟は上級生クラスの入っている棟を一つ挟む。入学して二ヶ月も経たない一年生がここまでやってくることはほとんどない。伊達は彼女のへたっていないセーラー服の背中を思い起こしながら、ふと窓の外に目を向けた。窓から射し込む光はだいぶ薄くなっている。
職員室では周知の事実だが、窓辺に置かれた花瓶の世話は伊達が行っている。一週間前にオレンジのポピーを花壇から剪定して花瓶に活けた。わずかに黄色い光の中で、ポピーの重たいあたまが下を向いている。帰り際に水揚げをしてやろうと思いながら採点の終わった小テストをファイルに挟み、テキストの下読みをする。
似合わねーっすよ先生。ふと、昔の生徒の言葉を思い出した。タオルを首に巻き、土だらけにした手にひまわりの切り花を持っている伊達に向かって投げかけられた言葉だ。花壇から立ち上がって渡り廊下を仰ぐ。二、三人の生徒が鉄筋コンクリートから笑顔をのぞかせている。あれは赴任して初めての夏だったと思う。もうすぐチャイム鳴るからさっさと教室に戻れ! 伊達がそう叫ぶと、キャッキャと声を上げて廊下を走ってゆく。顎から汗が滴って、伊達は首に巻いたタオルでそれを拭った。盛夏であった。期末テストも終わり、校内は夏期休暇に向けて一つずつ足を踏み出している。始まって十日ほどは全学年、夏期講習の毎日だがそれも午前で終わる。夏期講習が終わると、運動部の夏期合宿が始まる。そうしたらすぐに盆休みだ。もう一度、こめかみの汗を拭った。手元のひまわりを見下ろす。夏の象徴。あの男のアパートからの帰り道に咲いていたひまわり。空飛ぶ城を内包した重量感のある積乱雲。
どうしてこんなことを思い出したのだろうと、テキストを繰りながら伊達は思う。……ひまわりが、芽を出しましたな。今朝の、朝礼後の言葉だ。真田の声だ。あれ以降、いつも伊達の斜め後ろから投げかけられる言葉。確かに、出入り口横の花壇に撒いたひまわりの種が今朝芽吹いていた。朝の早い用務員が毎朝水をかけてくれている。水滴に濡れた緑の鮮やかさ。
テキストを閉じた。チェアから立ち上がる。ワイシャツの腕をまくる。すでに窓から差し込む光はオレンジ色になっている。校庭からは運動部のかけ声が響き始めている。校庭西側の花壇の草むしりをしなければならない。
この高校の職員で喫煙者は伊達と定年間近の化学教員しかいない。昨年までは伊達と同期の体育教員もそうだったが、値上げをきっかけに禁煙に踏み切った。古い灰皿の設置された形ばかりの喫煙所はあることにはあるが、生徒の教室から丸見えの立地にあるためにそこを使用することはほとんどない。化学教員のねぐらである化学準備室の窓辺に、もうほどんど煤けて光を反射しない灰皿が置いてある。一日に二回、伊達はそこを拝借することにしていた。
鍵を開け、準備室に入る。県から理科項目の強化学校に指定されて以来、それまで埃をかぶっていたほとんどの実験器具がピカピカと光り始めた。伊達にはなにに使用するのか判らない機械も隅のほうに設置され、丁寧にカバーが掛けられている。薬品棚には近づかない約束で、伊達は自由にそこに出入りすることを許可されていた。扉横の照明のスイッチをつける。蛍光灯は端のほうがもう黒ずんでしまっている。ちかちかと数回瞬いて、ようやく白い光が準備室を照らす。
スラックスから取り出したパッケージの中にはあと二本しか残っていなかった。自宅にあるストックの数を思い浮かべる。建てつけの悪い窓を開ける。ライタを擦る。薄闇に煙を吐き出して、眉間を揉んだ。
そうして二本目に火を付けかけたときである。文化部の部室の入っている小さなプレハブの一室に灯りがついた。もう運動部も帰宅を始める時間である。煙草をくわえたままその灯りをぼうっと見つめていると、プレハブの全室の灯りが次々とつき始めた。そうして、窓が音をたてて開けられる。化学準備室は最上階で、プレハブからは真横に位置しているので気づかれることはないだろう。しかし伊達はこころもちからだを窓から引いた。壁に身を寄せて、じっとその様子をうかがう。生徒の顔が開けられた窓から次々とのぞく。彼らはじっと西の空を見つめている。つられて西の空を見上げようとしたとき、がらりと準備室の扉が開いて伊達は肩を躍らせた。……真田である。彼もまた目を丸くしている。
ここにおられましたか……。伊達の手元に煙草のあるのを認めて、真田はほっとため息をついた。どうした、なんかあったか。いえ……、その。扉を閉め、こちらに歩み寄ってくる。スリッパの靴底がパタパタと音をたてる。化学準備室に灯りがついておったので、なにごとだろうと思いまして、空き巣などが入ったらやっかいなところでしょう。喫煙所になっておったのですなとかすかに笑って、真田は伊達の横に並んだ。一本頂いても?と訊いてくる。伊達は自分の手元をじっと見つめて、指に挟んだ最後の一本を真田のくちびるの間に押し込んだ。火をつけてやる。深く煙を肺に押し込んで、しばらく真田は眉間にしわを寄せていた。……吸うのか。貰い煙草だけですな。なんだそりゃ。ハハッと笑ってもう一度壁に背をもたれさせる。窓の外に目をやる。プレハブに集まっている生徒の数は先程から目に見えて増えていた。
伊達の視線を追うようにして真田もまた窓の外に目をやる。そうして、ああ、と頷いた。そういえば、今日でしたな。なにが? 地学部の天体観測にござる、ほら。煙草を挟んだ指が、西の空をさす。顔を巡らせると、そこに三日月とその上にひときわ明るく大きな星が見えた。思わず息が漏れてしまう。ああ、こりゃすごいな。身を乗り出すようにして西の空を仰ぐ。生徒たちもまた、表向き所持を禁止されている携帯電話を次々と掲げている。ある窓からは望遠鏡のレンズがきらりと光った。
そう身を乗り出されては……。斜め後ろからそう真田の声がする。びくりと肩が跳ねる。振り向いた、案外と近いそこに真田の顔がある。もう煙草は揉み潰されている。窓からからだを引く。からだの横に垂れさがった腕の先、てのひらに、真田のそれがするりと絡む。指の股を乾いた指が擦ってゆく。おい、ちょっと……。ぎゅっとあたたかなてのひらに握りしめられて、血管がぐっと開いていくのが判る。
窓の下で隠れるように手を繋げたまま、真田もまた外に身を乗り出した。みごとでございますなあ、これほどはっきり見えるとは思っておりませんでしたが。……伊達は無言である。あの日から、こういう接触はしないという暗黙の了解があった。なかったことにはしないが、お互いに腹の底を話し合うことで清算できたという気持ちでいたはずだった。少なくとも伊達はそうだ。彼を想う気持ちに変化はない。だがもうそれ以上の交点はない。これからは同僚として、日々を平穏に過ごしていくものだと。
じとりと真田を見つめていると、横顔の彼は三日月と金星から視線を下ろしたようだった。……本当は、探しており申した、職員室に鞄は残っているのに、姿がどこにも見えなかったもので。……なにかあったのか。いえ、特になにもござらん。確かめるようにぎゅっと手に力が込められる。伊達は思わず視線を下げる。組まれた指と指、その間の暗い影。少なくとも、この校舎の中にはおられるのだと、そう思って。そうして真田はもう一度三日月を見上げる。
そういう話を、彼はあの日していた。日曜日、夕暮れのダイニングで、項垂れながら。「できるならもう一度会いたかった。会ってどうするのだということは考えないようにしており申した。いや、可能であるのなら、普通の友人かそれ以上として……、いや、それは無理なのだとは思ってはおったのですが。とにかく道行く人の中に政宗殿がおられるかどうか注意しており申した。あの飲み会の幹事にメンバーを洗ってもらって、……***大だったのですな、そこまでは行き着いたのですが、あそこに潜り込んで探してもなかなか見つからず……」
……九月の初めあたりから、幼いころ過ごした海外の国を中心にバックパッカーとして旅行に出かけていた。その月いっぱい、海外に滞在する予定だった。日本に帰ってきてからは髪型を変え、それまでしていた医療用の眼帯を外した。アイパッチで右目の傷を隠し、その上に眼鏡をかけた。……今と同じスタイルだ。
そういうことを話すと、彼は少し暗い目をしていた。あれっきりにするおつもりで? 伊達は言葉もなく頷いた。夕陽はとうに沈みこんで、窓からは紺色の夜がやってきている。大学時代、伊達は恥ずかしげもなく一瞬が永遠になるということを信じていた。はつこいは実らないという言葉も。
てのひらに少し汗をかいている。しかし真田は手を離そうとしない。もう一度伊達はおい、と声をかけた。手を繋ぐぐらいは勘弁していただけないでござろうか。はっきりとした声でそう告げられる。それ以上は触れぬ、政宗殿の危惧するような事態にはけしてせぬと誓い申す、ただ、人目のないところで手に触れるぐらいは……。ぐっと、痛いぐらいに力を込められて伊達は思わず眉をしかめる。目の前で真田の横顔もまた眉をしかめている。本当のところ、政宗殿がどう思っておられるかどうかなどどうでもよい、俺は、もう離す気は毛頭ござらぬ。言って、真田はぎゅっとくちびるを真一文字に結んだ。ようやく探し出せたものを、みすみす離す気はござらぬ。
ひとつ、唾を飲んだ。この男のこういう目は知っている。マンションの玄関でSDカードをちらつかせていたときと同じような目をしている。おそらく、そうだ。あの夏の日、自分もこういう目をしていたに違いなかった。だが真田と伊達では決定的に違う。彼は平行線上にあることを望んでいる。繋いだ手の間の分だけの距離をおいて。
勝手なことを……。言いかけた伊達の言葉を真田が遮った。俺が勝手というなら政宗殿も十分勝手でござろう、それで結構。
奥歯を噛んだ。顎を引く。背中が壁をずりずりと擦ってゆく。床にくたりと座り込んで、伊達はひとつきりしかない目を閉じた。繋いだ手が引っ張られる。緩く指の股を擦られて背筋がそそけだった。あんたはそれでいいのか。構いませぬ。俺だったら、そんなの耐えられない。故にあんなことをなさったのでしょう、判っておりまする。
この男はずるいと伊達は思う。伊達からは、どうしたって手を振り払えないことをこの男は知っている。立てた膝に頬を押しつけて、伊達は少し笑う。この先俺が、心変わりしたらどうする?もうあんたのことなんか……。
途端、手がギリギリと締められた。骨が軋む。驚いて乱れた前髪の隙間から真田を見上げると、彼は窓の外に目をやっている。生徒の騒ぐ声がする。はっとして身をかたくすると、あやすようにやわやわと手を握り込まれた。もう遅いから、キリがついたら帰るんだぞ。窓の外にそう叫んで、すっとからだを引く。窓を閉め、カーテンに手をかける。そうして身をかがめて、座りこんだままの伊達の顔を覗き込んだ。穏やかな顔をしている。……さて、そうなったら、どういたしましょうな。
ゆっくりと指の付け根を擦られる。伊達はきつく奥歯を噛んで、膝の間に顔を埋めた。手を繋ぐだけと真田は言った。おそらくこの男はそれを貫き通すだろう。空気が動いている。彼の体温がすぐそばにある。喉の奥まで出かかった言葉を、どうにかして嚥下した。この男の目を見るのが、こんなにも恐ろしいと思ったことはない。
ハローグッバイ、ハローグッバイ、ハローグッバイ exrtra(100701)