朝は忙しかったのでよく覚えていない。伊達はドアノブからそっと手を離してソファの様子をうかがった。いつもはそこで同居人の真田が寝転がっているはずだが、今日はその限りではない。バイトで遅い日かとも考えたが、横目で確かめたカレンダーにその印はない。伊達も朝それを確認している。だから、今日は一緒に食事ができると思って食料の買い足しをしてきたのである。提げたビニール袋は今、途方もなく重たく伊達の右手に食いこんでいる。道中考えていた夕食の献立はすでに頭の中から消え去ってしまっていた。
ソファは、同居するにいたって買い足したものである。薄いグリーンの、座り心地を最優先して購入したものだった。そこに、白い虎が寝そべっている。サファリパークのCMなどで見るような幼獣ではない。成獣である。伊達はゆっくりと開けたドアに向かって後ずさった。ソファの上のけものは眠っているのか、筋肉の塊であろう体を呼吸のたびに上下させている。……ビニール袋が、柱にぶつかってくしゃりと音をたてた。
しまったと思ったがもう遅い。手元に落としていた目線をわずかに上げると、凛と顎を上げた虎が伊達をじっと見つめている。うなじと二の腕にざっと鳥肌がたった。やにわに空気が張る。伊達は虎に視線を合わせたまま、じりじりと足を後ろに下げてゆく。虎の耳がぴくりと動いた。太い前足がソファから降ろされ、音もなくしなやかな体が床に立つ。後ろに下げた右足の、かかとに力を込めたその瞬間。あっという間もなかった。虎がタン、と床を蹴って一気に距離を詰める。腰のあたりに飛びかかられて、後ろにバランスが崩れる。大きく尻もちをついた伊達の腰に虎がまとわりついた。鼻先をぐりぐりと伊達の腹に押しつけてくる。床にビニール袋の中身が散らばって、惨憺たる有様である。大きく打ちつけた腰をさすりながら、訳の判らぬ状況に眩暈を覚えた。虎は伊達に牙を剥くことなく、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
……玄関に、真田のスニーカーが散らばっている。なにより鍵は開いていた。そして、これだけ大きな物音をさせているのに部屋からは誰も出てこない。最悪の状況も考えられたが、今伊達を組み敷いている虎の毛並みは綺麗なものだし、生臭いにおいもしない。部屋もけして汚れてはいなかったと思う。
後ろに手をつき、伊達は上半身をようやく起き上がらせた。唾を飲みこんで視線を落とすと、白い虎の、ガラス玉のような眼球にぶつかる。……幸村?小さく同居人の名前を呼ぶと、長い尾が返事をするように玄関の床を叩いた。もう一度大きな声で呼んでみると、虎は床に前足をついて半身を起き上がらせる。そうしてじっと伊達を見つめながら大きな耳を後ろに倒した。
……恐る恐る体に力を入れると、素直に虎は伊達の意図を汲んで体を離した。床に散らばった食品をかき集め、ビニール袋に突っ込む。虎はその様子をじっと見つめ、伊達が起き上がってリビングに進んでゆくと大人しくその後についてくる。キッチンで冷蔵庫に食品を詰めている間も伊達の腰や膝の裏に鼻先を擦りつけては離れようとしない。考えてみれば、伊達が帰宅したときの真田の様子にそっくりではある。そう思って虎を見ると、すぐさま虎の目が伊達をとらえた。さっと視線を外す。気が触れていると思う。
そう思うといてもたってもいられなくなった。手早く食品を冷蔵庫に詰めてしまい。足早にリビングをつっきる。虎がその後をついてくる。音をたてて真田の部屋のドアを開ける。散らかった部屋は昨日、伊達が目にしたときの様子そのままである。ベッドだけはきちんと整えられている。雑誌、CDの類を避けてベッドに近づき、シーツに手をつけてみる。空気そのままにひんやりとしている。今度は真田の部屋を出て伊達の部屋を確かめる。なにもおかしなところはない。ベッドのシーツは少しだけ乱れているが、それは朝急いで家を出たからだ。ベッドメイキングをした覚えはない。一つため息をつき、トイレと風呂を改めた。やはり変わったところなどない。途方にくれて先程まで白虎が寝そべっていたソファに座りこむと、器用に彼もソファに乗り上げて伊達の横に丸くなる。極力それを目に入れないようにしながら伊達は両手で顔を覆った。
ブブブブブ、という音がする。携帯電話の振動音である。伊達はなぜか動けずにいる。やがてフリップの開く音がして振動音がやんだ。フリップの閉じられる音。息を詰めていた伊達は、そっとてのひらを外して横を見やる。丸くなっている虎の、前足のあたりに真田のものであるはずの赤い携帯電話が置かれている。それで、もう駄目だった。俺は気が触れてしまったのだと伊達は思い、ソファの背に崩れ落ちた。
虎は今、シャワーを浴びている。伊達が風呂から上がって、脱衣所のドアを開けたのと入れ違いにするりと足元をすれちがっていった。数秒、そのまま虎を見下ろし固まってしまったが、虎は物言わず伊達をじっと見つめてくる。脱衣所のドアを閉めろと言われているのに気づいて、慌てて背中でドアを閉じた。
長曾我部は伊達と真田の共通の友人である。伊達とは高校のときからの知り合いであった。伊達は文学部に進学し、長曾我部は工学部に所属している。真田と長曾我部は同じ機械工学科だ。
携帯電話のアドレス帳から長曾我部の名前を検索し、意を決して電話をかけた。コール音は数回。繋がった途端に眠そうな声でなに?と訊かれる。思えばすでに十一時をきっていた。リビングに置かれた時計を横目に、今日真田に会ったかと問う。……今日はお前の飯が食えるっつって講義が終わったら速攻帰ってったけど。……だよな。なんかあった?まだ帰ってないとか?いや、なんでもない。
目を落としたそこに、己の裸の足指がある。伊達は絨毯の毛並に指の腹をぐりぐりと押しつけながら、それより、と話題を変えた。訝しそうな長曾我部の声が次第に晴れてゆく。二人揃って笑い声を上げるようになったころ、音もなく虎がやってきて伊達の横に丸くなった。腕に、彼の毛並みが当たった。柔らかくはない。肉食獣のかたい毛並みである。ブラシの感触に似ている。恐る恐る目線を下にすると、彼の首から背中にかけての筋肉がゆっくりと上下している。伊達はそっと息を詰め、携帯電話の向こうに邪魔したなと伝えた。フリップを閉じ、床に下ろしていた足を座面に引き上げて胡坐をかく。
伊達が身動きしたのに気づいたか、虎はゆっくりと首を巡らせて視線を合わせてきた。動物の表情など、伊達には判らない。ためらいがちに手を伸ばすと、大きな虎の口がくわっと開いた。太い首が筋肉の躍動を知らせる。思わず伊達は恐怖に手を引っこめたが、虎は止まることを知らない。上半身を持ち上げて、伊達に覆いかぶさった。しなやかで重たい筋肉に押されて、ソファに背をつけた。ひ、と喉が鳴る。逆光になった顔の中で虎の目がきらりと光る。むきだしになった牙の鋭さを思って伊達は恐怖に身を竦ませた。
伊達が怯えた顔をしているのが判るのか、しかし虎はそれきりで体を退けた。ソファから降り、伊達を振り返ることなくリビングを出てゆく。ソファにひっくり返ったまま、伊達は思わず幸村と呼ばわった。白い虎は少しの間だけ歩みを止めたが、やはりドアをくぐっていってしまう。
やがて、玄関のドアの開閉する音がした。それきりリビングは静まり返ってしまっている。出ていったのだろうと伊達は思った。
真田と暮らし始めて半年ほどが経つ。意味合いを考えれば同居というより同棲というのが近い。二人ともそういうつもりでいた。伊達がそういうことを面と向かって真田に口にしたことはなかったが、真田は案外と真面目な男で、なんの衒いもなくそういう言葉を口にする。あれは、長曾我部の引き合わせで出会ってから二か月ほど経ったころだったと思う。居酒屋でしこたま飲んだあと、だらだらと路を歩く列の最後尾で、伊達はほぼ潰れかけている真田の肩を抱いていた。弛緩した筋肉の塊はひどく重い。伊達も真田ほど酔ってはいなかったが、顔が赤いのは自覚していた。足元は少しだけ揺らいでいる。
夏である。夜だというのに街路樹にとまった蝉が喧しく鳴いていた。肌にまとわりつく汗まみれのTシャツや、ぺたぺたと足の裏に貼りつくビーチサンダルが全てであった。伸ばした髪から汗が滴って首筋を流れてゆくのを感じる。右目にした眼帯はすっかり湿ってしまっていた。少しだけ、覆い隠したそこが痒い。伊達はうなだれ引きずられたままの真田を見下ろし、耳元で大丈夫かと叫ぶ。前を歩いていた友人たちはもうほとんど夜闇に消えようとしていた。二次会はいつも二十四時間営業のファミレスと決まっている。道筋は問題ないが、果たして真田がそこまでついてこられるかというと定かではなかった。このまま真田を家まで送っていって、自分もその足で帰宅しようかと思案し始めたころであった。
それまでなんとか動いていた真田の足がぴたりと止まってしまう。吐くか?と伊達は尋ねたが真田は力なく首を振った。道路沿いにぽつりぽつりと立っている街灯の下である。俯いた彼のうなじが汗で光った。
すると、それまで弛緩していた筋肉がはっきりと緊張を伝えてくる。真田は伊達にもたれかかっていた体を引きはがし、深く息をついた。おい、立てるのかよ。ふらふらしていた足は今ではきちんと地に根を生やしている。伊達は少し呆れ気味に、歩けるなら自分で歩けよ、と漏らした。……申し訳ない、だが。そのあとに真田がなにごとか呟いたが、蝉の声がうるさすぎて伊達には聞き取れなかった。もう一回言えと伊達は促すが、真田は俯いたままそれには首を振った。
ゆっくりと真田の腕が伸びてくる。日焼けした手は額に貼りついた伊達の前髪を横に流して、そうして離れていった。その間際に中指の背で頬をなぞってくる。街灯に照らされた真田の顔が真っ赤であることに、伊達は気づいてしまう。
酒のためと断じてしまうには、中指の感触が生々しすぎた。その一瞬で酔いが冷めた。もうほとんど車通りの少なくなっている道を、ドリフトまがいに音を立てて走りぬけてゆく車がある。撒きあがった音が遠くなったそのとき、蝉の声もなにもかもが消えて無音になった。真田の口がもう一度動いた。今度は、伊達の耳にも届いてしまった。
……酔ってなかったのか。おそらく政宗殿のほうが酔ってらっしゃる。そんな訳ねえ。しかし顔が。その先は容易に予想できた。いたたまれなくなって伊達は思わずふざけんなと叫んでしまう。踵を返そうとした足元がふらついた。その腕をつかまえられる。ほら、やはり酔ってらっしゃる。腰に添えられた手の感触に背筋が震える。そのとき伊達の体に走ったものがなんなのか、判じかねていた。正気か、男相手に。機能のことを言うのなら問題はござらん。その物言いに、伊達は思わず絶句してしまう。振り返った先の真田の目が街灯に照らされてぎらぎらと光った。
酔っていたというのは本当だった、と伊達は思う。腰に添えられていた手や、腕を掴んでいたのを力任せに振り払って身を離すと、既に閉じているシャッターに真田の体を押しつけた。慌てて体勢を立て直そうとする赤い男に身を寄せて、伊達は酒焼けした声でお前が悪いんだからな、と告げる。その時点ではまだ真田が言うような恋慕ではなかったかもしれない。この男に一芝居打たれたという悔しさのほうが勝っていた。勝っていたのだ。それのみではなかった。
真田の口の中は酒の味がした。伊達はそう記憶している。
……テレビをつけっぱなしにし、テーブルで課題のレポートに勤しんでいるとソファの上で携帯がブルブルと震える。後ろ手に座面を探って、開いた液晶画面には長曾我部の文字があった。メールの着信である。やっぱり喧嘩したんじゃねえか、幸村、今日俺んち泊まるってよ。
数秒、そのメールを見つめ、やはり先程までのあれは俺の幻覚だったのだろうと伊達は思う。連日のバイトと課題の消化で、体がひどく疲れているのだ。そう思うと、いくら虎に見えていたとはいえあんな態度をとってしまったことが悔やまれた。早いところ謝っちまおう、そんで帰ってこいって言えばいい。伊達はそう呟き、アドレス帳から真田の番号を呼び出す。……背後で振動音がした。振り返ると、やはりそこに赤い携帯が落ちている。肩を落とした。急に眠気がやってくる。テーブルの上をざっと片付け、さっさと冷たいベッドに引っこんだ。夢の中で、やはり真田は虎であった。
あれは傷つくぜ、幸村じゃなくたってよ。理系食堂の中華そばを啜りながら長曾我部が毒づいた。餃子を口の中に放りこみ、伊達は黙ってそれを咀嚼する。四人掛けのテーブルに真田の姿はなかった。
朝、長曾我部と昼食を一緒にするという約束をしたときに、真田も同席するという話ではあったのだ。伊達もそのときに真田に昨日のことを謝るつもりでいたのでそう調整してくれた長曾我部には感謝した。マフラーで首をすっかり覆ってしまった格好で食堂の脇のベンチで待っていると、遠くに長曾我部の目立つ銀髪が現れた。だがその隣にいるのは見慣れた真田の姿ではなく、やはりあの虎なのだった。
伊達が彼らに気づいたとほぼ同時に、向こうもそれを知ったのだろう。長曾我部が大きく手を振った。伊達はすっかり気温にやられてしまったか、体が硬直してしまっている。隣の虎が、大きく地を蹴った。躍動する筋肉の塊が、伊達めがけて走ってくる。周りはまったくそれに頓着しない。虎が見えているのは伊達のみであるとでも言うように。真実、長曾我部はその様子になんの違和感も覚えていないようであった。伊達以外の人間には、この虎が真田に見えているのだ。いや違う。伊達が、真田を虎としか認識しなくなってしまったというのが正しい。
だとしても大きく開いた口から見え隠れする牙や、頭蓋など一息で叩きつぶせそうな前足は恐怖の対象でしかなかった。伊達は、悪い!と一言叫んでベンチから一目散に逃げ出した。息を切らせながら必死の思いで後ろを振り向くと、先程まで伊達が座っていたベンチの脇に、虎が座って伊達を遠く見つめているのが見えた。
六時を過ぎて窓の外はすっかり暗い。人いきれと暖房で食堂の中は暑いぐらいであった。顔も見たくねえんなら最初から乗るなよ。いや、そうじゃなくて、話すと長くなるんだけど。
長くはならないが、確実にイカレてしまったと判断されるだろうなと伊達は思う。伊達自身がそう思っているからだ。病院のドアを叩こうかとさえ考えている。ただ、原因と思われる事例にまったく見当がつかずに途方に暮れているのだ。症状は真田に対してのみ表れている。周囲の人間が見境なく動物に見えるというわけではないらしい。それが、今日大学に出てきて伊達が判断したことだった。
言いよどむ伊達に対して長曾我部は眉を吊り上げる。痴話喧嘩なら余所でやってくれよ。スープをすっかり胃におさめてしまって、長曾我部は席を立った。伊達もそれに続く。食堂を出るとその気温差に身が縮んだ。マフラーをかたく巻きつけ、ポケットの中に入れた鍵の束を握りこむ。そのままバイトに出かけるという長曾我部と別れて帰路についた。歩いているぶんには風は強くない。ただ自転車をこぐ額には容赦がなかった。スピードを上げれば上げるほど、胸にとりこまれる冷たい空気が体の中で暴れる。
部屋に戻るが鍵は開いてはいなかった。冷えた空気がしんと床の上に降り積もっている。暖房をつけ、部屋を温めながら外の様子をたびたびうかがう。人間の姿の真田が現れるはずもない。ソファの上に置きっぱなしの真田の携帯電話を横目に、昨日そこで丸くなっていた白い虎のことを考えている。やはり時間ができ次第、病院へ行こうと思う。
……日付の変わる時分であった。コーヒーを淹れようとしていると、ごそごそと音がする。恐る恐るキッチンからリビングをうかがうと、白虎がゆっくりと玄関に続くドアから顔をのぞかせたところであった。きょろきょろとあたりを見回している。やがて、ソファの上の携帯電話をくわえてまた部屋から出てゆこうとする。伊達はその様子をじっと息を殺してうかがっていた。声をかけようにもどうしたらいいのか判らない。あれは真田なのだと思っても、頭の奥でうるさく警鐘が鳴る。そうこうしているうちに玄関の開け閉てする音がした。ガチャリという、ドアの閉まる音がやけに重く響いた。
携帯の振動音がする。忍び足でそれに近づいた。真田からである。今日も長曾我部の部屋に泊まるというメールであった。返信しようとボタンを押したが、なんと返せばいいのか三十分ほど悩み、結局作りかけのメールを破棄してフリップを閉じた。
テーブルの上に突っ伏する。訳判んねえ、とひとり呟く。たかが一日二日、一人ですごすだけの部屋がひどく広く、寒い。
結局そのまま一週間ほど経った。表向き生活リズムは変わらない。ただ食事の量をときどき誤るときがある。帰宅してから一言も喋らないときがある。そういうことが増えたと感じる。真田と同棲する前の、一人暮らしの生活に戻っただけだが、この気温ではそれも寒い。
時折、伊達の携帯電話に真田からメールが入る。些細なことである。今日の昼は餃子とラーメンにしただとか、バイトに遅刻しそうになっただとか、今日は寒かったが体を壊してはいないだろうかとか、そういうことである。着信があるたびにまだ真田と己はつながっているのだとぼんやりと考えるが、そのメールが普段の真田の様子とかけはなれていないがために、伊達は己の異常さを思い知る。
本来、文系学部所属の伊達と理系学部の真田では教養の講義すらほとんどかぶらない。ゆえに、大学の構内で偶然真田の姿を見ることはまれである。そう考えていたが、そうでもないらしいことに最近伊達は気づいた。ふと講義中に窓の外を見ると、視界の隅のほうをあの四足のけものが歩いていくのを見かけたりする。購買に出かける途中、なにげなく振り向いた先の四つ辻に、あの白く長い尾が揺れている。
そうして今、あの虎は噴水脇のベンチに横になっている。それを、図書館のブラウジングルームから伊達は見下ろしている。ベンチ周りに配置された植え込みは常緑樹だが、冬の空気を通すと驚くほど色褪せて見える。夏場は常時水を散らせている噴水は冬場には凍結されるため、水の色は濁った緑色であった。棲みついているはずの鯉も底のほうで動かなくなっている。
植え込みには黒猫が住み着いている。野良猫である。大学に住んでいるとあって人懐こく、朝は敷石の上に座って通学する学生の様子をいつも見つめている。その黒猫が、ベンチにそろそろと近づいてゆく。伸ばした前足でへりにつかまり、小さな体をベンチに持ち上げる。虎はうとうとしながらもその様子には気づいたようで、ぱたぱたと尾が揺れた。黒猫は虎の懐に入りこんで丸くなっている。
伊達は読んでいた英雑誌を閉じ、そっとブラウジングルームを離れた。一階まで駆け下り、ピロティを抜ける。空は薄い雲が覆ってはいるが、午後二時を過ぎて空気は穏やかに温もった。虎の白い毛並みに、伊達の影が落ちる。気配に気づいたか、黒猫が伊達を見上げて目を細めた。伊達が黙っているので、黒い毛玉はそっと虎の懐を抜け出して植え込みへと歩いてゆく。幸村、と呼ぶが虎は起きない。ゆっくりと手を伸ばして、額のあたりを指の背で撫でた。耳が少し動いたが、やはり虎は起きなかった。
ベンチに座り、薄い雲に隠れた白い太陽を眺めた。ふともものあたりに、あたたかいいきものの体温を感じている。気が向いてはその額や頬や、喉のあたりを撫でた。冬毛の少しだけ柔らかな感触が、真田の髪を思い起こさせた。
鞄から文庫本を取り出して読み始める。十何ページと読み進んだときだ。隣でごそごそと音がする。目を向けると、真田がダウンジャケットを着た腕を頭蓋の下に敷きなおしたところであった。首が痛くなったものらしい。音のしないように伊達は笑い、幸村、と呼びかけた。薄く開いたまぶたの向こう、眼球が伊達に焦点を合わせる。小さな声で、政宗殿、と呟いた。左手でデニムをはいたふとももを叩くと、真田のくちびるが緩く弧を描いた。やがて左のふとももに心地よい荷重がかかる。寝息がまた聞こえ始めた。その、あまり手入れされていない前髪を指に絡ませて遊ぶ。
……こんなとこでいちゃつくんじゃねえよ。ふと気付くと、長曾我部が伊達と虎を見下ろしている。ほとほと呆れたという表情で口をへの字に曲げた。……いちゃつくって。呆然と伊達は長曾我部と虎を交互に見る。そうしてやっと、長曾我部にはこれが真田に見えるのだと思い当たった。傍目にはひどくおかしな光景に見えているに違いない。伊達は慌てて足をどけた。周りを見渡すが、中途半端な時間帯もあってそれほど人通りは多くない。ベンチは植え込みの陰にあって死角になっているようだった。
なんでもいいけど、そろそろ部屋に入れてやれよ、毎日毎日違う枕じゃ休まんねえだろ。……お前んちにいるんじゃなかったのか。俺が泊めたのは最初の日だけ。銀髪をガリガリと掻きながらそう言う。そいつも反省してるって言ってるし、大体お前にもちょっと原因があんだろ、よく話し合えよ。
どうも話がよく判らない。伊達が眉をひそめているので、長曾我部は肩をすくめた。とりあえず、今日はこの後の講義もバイトもないはずだからそいつ連れて帰れ。そう言って背を向けてしまう。混乱した頭はうまく働かない。長曾我部の言葉を反芻してみるが、頭の中をぐるぐると回るだけでどこにも帰着しそうになかった。だが一つ判ったことがある。伊達はふと気配を感じて横に目を向けた。虎が体を起こして伊達を見つめている。そっとてのひらをかざすと、虎はその額を擦りつけるようにした。あたたかいと思う。それが余計に伊達の胸を波立たせた。……幸村、お前、反省しなきゃいけないようなことをしたのかよ。
だが虎が人語を喋るはずもない。グルルルと虎は唸り、耳を伏せた。
虎はソファの上で大きなあくびをかいている。日付が変わって一時間ほど経った。伊達も、そろそろ眠気がひどくなってきている。つけていたテレビを消し、読んでいた文庫本を閉じた。部屋に戻ろうとするが、虎はソファの上から動かない。……まだ寝ないのかよ。ぱたぱたと尾がソファを叩く。そういえば、最初のあの日も虎はこのソファにいたのだと伊達は思う。ここで寝るの?今度は立っていた耳がぱたりと倒れた。そのまま腕の間に顔を埋めてまぶたを閉じる。二月も終わりとはいえ、陽が落ちれば凍える寒さである。伊達は躊躇しつつも真田の部屋から布団を運んできて、白い毛の塊にかぶせた。
そういう毎日が、続いている。虎が最初のように伊達に大仰に飛びかかってくることがなくなったのが伊達にとってはありがたかった。確かに根底にはあの牙やら、爪に対する恐怖感は確かに残っている。だがこれは真田なのだと思うにつれ、もともと彼はそういう感情の発露をしていたことが思い起こされてだんだんと慣れていった。
だが慣れないことも少しだけある。真田が虎に見えるようになって二十日ばかり経ってしまっていた。それがこの有様である。伊達は布団に丸まり、枕に頬を擦りつけた。休日の朝である。居酒屋でのバイトまでには時間があった。
忙しく熱い息を吹きかけている先の、枕がだんだんと湿り始めている。リビングにはあの虎がまだ寝ている。そう思うと頭が茹だる。彼の指や肌の感触を思い出しては一心不乱に充実して張っているそれを擦った。厚い布団を足で除けてしまう。裏地が起毛のジャージも膝下までずりさげてしまった。冷えた空気が肌を舐めてゆく。忙しく息を継ぎながら、手首で眼球を押さえた。もう少し、もう少し、と思う。息を詰める。
……大きく息を吐き、ベッドヘッドを左手で探った。汚れた右手を拭って、しばらくの間ベッドの上で意識を飛ばす。真田がああなる前に彼と触れ合ったのはいつだったろうと思考の海に沈んだ。だが海底の泥をかきわけてもかきわけても目当ての記憶は掘り出されてこない。薄くかいていた汗がひいて肌が粟立つ。おざなりにジャージをずりあげ、パーカーの腹をさらして湿気を逃がした。ふと掘り上げる泥の中になにか光った気がして伊達はそのまま海の中に身を投げる。だがすぐに浮上してしまった。
カリカリという音がする。目で音のする方向を確認し、ゆっくりとベッドから体を引きはがした。ドアを開けると、白虎が伊達を見上げている。そうして体をリビングのローテーブルに向けた。そこに置かれた伊達の携帯電話が震えている。振動音のパターンからして電話の着信であった。
バイト仲間からである。シフト変更の願い出であった。昼番に出られないかと言ってくる。伊達は汗のひいた腹をかきながら二つ返事で承諾した。伊達がバイトをしている居酒屋は十一時から昼の二時までランチを提供している。急いで支度をして自転車を飛ばせば昼番の時間通りにバイト先につくだろう。伊達は窓辺に近寄り、カーテンの隙間からベランダに差しこむ白い光に目を細めた。携帯をソファに放り投げて身支度を整える。
財布と携帯を放りこんだメッセンジャバッグを背負いながら、虎に向かってお前は?と問う。そうしながらテレビの上のカレンダーに目を走らせた。今日の日付には昼、と書かれている。一緒に出るか、と問うと、虎はピンと耳をたてた。戸締りを確認し、虎の後をついて部屋を出る。階段を駆け下りる音が二つ重なる。大通りに出るところまで一緒に走り、道を横切ってゆく虎を見送って伊達は通りに沿って北上した。……横断歩道を渡る虎の後ろ姿が、一瞬、真田の背中にだぶって見えた。或いは、車の排気ガスと朝の冷たい空気の見せた幻影かもしれない。吐く息は一瞬鼻先を暖めるが、額を、頬を叩く鋭い空気にすぐに霧散してしまった。
バイトを終え帰宅する頃には激しくはないが雨が降っていた。外出時に天気予報は確認していない。折りたたみの傘など持っていなかった。店には客が忘れて半年以上経ったコンビニ傘が何本か置かれていたが、伊達と同じように傘を持ってきていなかった後輩らに譲った。ジャケットのフードをかぶり、冷たい雨の中を走った。目に雨粒が入る。冷たいというより痛いと思う。
たった十五分とはいえ、ずぶぬれになるのは早かった。前髪が額に貼りついている。眼帯もぐっしょりと濡れた。人差し指で何気なくその内側を掻いていると、後から後からかゆみが湧いてくる。思わずそれを毟りとって傷をさらした。前髪から滴った雨粒がケロイド状になっているそこに流れてむずがゆい。
鍵は開いている。鉄製のドアを開けると、そこにタオルをくわえた虎が座っている。礼を言ってそれを受け取り、額を撫でた。毛並みが少し湿っている。……お前も降られたの?連れ立ってリビングに足を踏み入れた。暖房は今しがたつけられたらしい。虎が鼻先でシャワーを示した。簡単に髪を拭ったタオルを虎の頭にかけてやり、湿った毛並みを拭いてやる。ぶるぶると虎は震えて、鼻先を伊達の頬に擦りつけた。
様子がおかしい、と気づいたのはベッドにもぐりこんで少し経ってからである。いつもなら足元からじわじわと布団が温もってくるはずなのに、それが一向にやってこない。睡魔は伊達の意識を閉ざしてはくれなかった。ひどく寒い。一度起き出して、靴下をはいた。パーカーの中に長袖のTシャツを着こむ。そうしてベッドの中に丸くなるが、やはりちっとも温かくはならなかった。
いけない、と伊達は思う。先程の雨にやられてしまったのだ。もう一度起き上がり、床に足をついたがその途端足元がグニャリと崩れてしまう。慌てて体勢を立て直し、リビングへと続くドアを開けた。橙色の豆電球の下、虎が丸くなっている。伊達は用心深く一歩を踏み出し、チェストの引き出しから体温計を取り出して脇の下に差しこんだ。同じく、薬箱から冷却シートを取り出す。床に座り、ソファに背をもたれさせてじっと体温計が鳴るのを待っている。やがて電子音を放った体温計は三十九度を示していた。
リビングはしんと冷えている。しばらくそのままのかっこうでうずくまっていた。体の節々が痛いのも、疲れのせいだと思っていたがそうではないのだろう。ゆっくりと立ちあがり、冷蔵庫から生姜と、蜂蜜を取り出す。生姜をすりおろしている間に湯を沸かした。マグカップにそれを混ぜたものを持って、リビングに戻る。生姜湯をゆっくりと時間をかけて胃におさめていくうち、どうにか末端は温かくなってきた。ソファの上でごそごそと音がする。首を巡らせると、虎の目が薄暗闇にきらりと光った。ん、悪いな、起こしたか。小さな声で伝えて耳のあたりを撫でる。あたたかないきものの感触である。しばらくそうして毛並みに額を埋めていた。
もう眠れるだろうと体を起こそうとすると、パーカーの裾をくわえられて動けない。……駄目だって、お前にうつるから。小声で虎をしかるが言うことを聞かない。ぐいぐいと引っ張ってくるので生地が破れそうになってしまう。ゆきむら。困り果てて名前を呼ぶと、グルルルと低く唸った。……布団、持ってくるから、ちょっと放せ。
解放されたパーカーの裾をなおし、ふらつく体で布団を持って戻った。虎の横に寝転がり、布団をかぶる。共有した体温が徐々に上がってゆくのを感じる。頬を虎の毛並みに擦りつけ、まぶたを閉じると、すうっと伊達の意識は深海へと落ちていった。
だから、これは夢だったのだろう。虎の太い前足がいつの間にかトレーナーを着た腕に変化し、伊達の背中に回る。分厚いてのひらがゆっくりと伊達の背中をさすっている。寄せていた頬が触れているのは、伊達と同じ、人間の肌である。ただ体温の高さだけは変わらなかった。伊達もその腕がするように背中のほうに腕を回すと、一房だけ伸びた長い髪が触れる。それを指に絡ませた。政宗殿、とその虎だったものが伊達の耳元で呟く。それを聞いて、ふと伊達は思い出した。最後に彼に触れたのはいつだったのかということ、彼が虎になってしまった顛末のようなもの。だがそれも深海に降る雪のようにすぐに真っ暗闇に紛れてしまう。
話し声で目が覚めた。額に貼りつけた冷却シートが剥がれかかっている。すでに温い。思考はいまだ深海の泥の中である。寝起きの視界は靄がかかっている。まだ熱があるのだろうと思う。
布団から出てしまっている肩が寒い。そう思って伊達は身を縮めた。すると頬になにかが当たる。昨晩一緒に眠りについたはずの虎の毛並みではないなにものかである。違和感はじくじくと末端から中心へと侵食した。もう一度薄く目を開けたとき、まさにそのとき虎の前足ではないものに体を抱き寄せられる。携帯のフリップの閉じられる音。頬と首筋に当てられるてのひら。……まだ少し熱いな。
驚いて跳ね起きるが腕をついた先にはなにもない。声を上げてソファの上から転がり落ちた。頭をしたたかに打ちつけて、伊達は顔をしかめる。見上げた先に、目を丸くして下をのぞきこむ真田の顔がある。だ、大丈夫ですか。
絶句して、伊達はパクパクと口を動かした。なにも言えずにいる伊達の腕を引っ張り、ソファに座らせて再度真田は額に手を当ててくる。まだ熱うございますから、寝ててください、……着替えを。そう言って真田はソファから離れようとする。思わずそのトレーナーの裾を掴んだ。振り向いた真田が首を傾げてくる。そうされるとなにも言えない。伊達はトレーナーから手を放し、布団にもぐりこんだ。リビングを歩く足音。ドアの開け閉ての音。キッチンでの水音。
それらはここ何十日か全く聞かなかった音であり、それ以前には当たり前にそこにあった音であった。ふとそれまでの幾日かがひどく遠く思えてしまう。だが伊達の頬に残っているのは間違いなくあの虎のかたい毛並みであったし、耳に残っているのはけものの唸る低い声である。布団から少し顔を出して様子をうかがうと、ちょうど伊達の部屋から着替えを持って真田が出てきたところであった。……ここに。テーブルの上に衣服を置かれる。伊達は喉が痛いふりをして声もなく頷いた。
混乱している。汗を吸ったTシャツを脱ぎ、着替えている間、伊達はまるで他人の家にいるように息をつめていた。落ち着かないと思う。そもそもの顛末をすっかり思い出してしまった今となっては、人の形をとるようになってしまった真田とどう向かい合えばいいのか判らない。虎の形をした彼相手だったならばいくらでも口にできただろう言葉は、今では喉の奥にしっかりと絡みついて離れようとしなかった。
そうしてソファの上に座りこみ、眉根を寄せているとその額に触れられる。熱を確認したてのひらは次には冷却シートと体温計を伊達に手渡した。
体温計が電子音を鳴らせるまでの沈黙の長いことと言ったらなかった。真田はじっと黙ってテーブルの脇に座り、コーヒーを啜っている。同じくテーブルに置かれた生姜湯の湯気を見ながら、じっと互いの心臓の音に耳をすませた。やがて体温計の示した体温はまだ三十八度を示している。用をなした体温計を真田に渡し、伊達は黙ってソファに横になった。そんな伊達を見つめながら、真田は言いにくそうに口をもごもごとさせる。伊達が目で促すと、コーヒーを一気に胃に流し込んで、ベッドで寝た方が、と寄越してきた。
……でもそうしたら、お前が俺の部屋に入ってこられなくなるだろ?喉に痛みはなかったがわずかに声はかすれていた。伊達は冷えた首元に布団をかぶせて、そっとため息をついた。真田は膝もとに作った握りこぶしをじっと見つめている。……もういい幸村、ごめん、あれは俺が悪かった。
二十日ほど前のことである。表向きはいつもと変わりない冬の夜であった。二人してコーヒーを飲みながら見ていた深夜番組もクレジットを流し終えた。やがて流れ始めたCMをじっと見つめながら、足元に這い寄ってくる冷気に指をうごめかせる。隣に座っていた真田が、伊達の空のマグカップを持ち上げてキッチンへ歩いてゆく。遠くに水の流れる音。ソファにもたれて少しだけ目を閉じた。眠気はある。
頬に、水仕事で冷えた真田の手が触れる。感覚器は反応が遅い。薄く開けたまぶたをまた閉じ、深く息を吐くと、真田が小さく囁いてくる。風邪を引きますよ。うん、と返事をし、伊達は重たい体を持ちあげた。テレビの主電源と電灯が落とされる。それでもまだ淡く緑に発光しつづけている蛍光灯を頼りに足を進めた。おやすみと言いかけた伊達の背中に、真田の胸が押しつけられる。高い体温がじわりと伊達の皮膚から侵食した。
肌に触れればぞわりと下腹がうずく。そういうふうになってしまった。いや、そういうふうに体を作り変えられてしまった。男の体になど欲情するものかと思っていたこころは今やぽっきりと折れている。互いに粘膜に触れ、擦りつけ、舐めしゃぶりとしているうちに伊達の体はすっかり真田の体に慣らされた。
腹に回された腕が伊達の部屋のノブを回す。そのまま背後から押されるようにして部屋に転がりこんだ。ベッドに寝転がされ、膝立ちに忙しく服を脱ぐ真田を見上げる。ぶあついてのひらはパーカーの裾から侵入してきて、伊達の肌を喰い荒らした。胸の、色の違うところを人差し指で撫でられる。じきにそこが米粒のようにしこるのが判る。
愛撫は、いつもよりしつこく長かった。早いところ陰茎を擦り合わせて果ててしまいたいと思うのに、真田はいっこうにジャージを脱ぎ捨てる気配がない。萎えているのかと思えばそうでもない。時折、ふとももに彼の張ったものが当たる。手を伸ばして触れようとすると、慌てたように手首を捕まえられた。……なんだよ、やる気あんのか。無言で右手を貝繋ぎにされる。その、と言いかけた真田は常より暑苦しい体温をさらに上げて歯を食いしばった。もう、いいだろうか、これ以上は身がもたぬ。
意味が判らない。この状況で、その言葉は逆ではないのかと伊達は思う。反駁しようとした矢先、真田の右手は伊達の陰茎からその奥、袋を通り越していってしまう。知識でしか知らぬそこに、指の腹を押しあてられて伊達は喉を鳴らした。……ここに、入りとうございます。
絶句している伊達をおいて、真田はジャージのポケットから小さななにかを取り出した。手指の間からとろりと垂れる。へそのあたりに一滴。その冷たさに伊達は身をよじった。浮いた腰の、奥にもう一度指をあてられる。ぬめる人差し指がなんどもそこを撫でた。おい、冗談……。真田は、逃げをうってずりあがろうとする伊達の腰を掴んで引きもどす。真田は恐ろしいほどの無表情である。伊達は背筋がぞっとするのを感じた。興奮からくるものではけしてなかった。
表面を撫でているだけだった指にぐっと力が込められる。爪の半分が中に押し込められた。そのまま、第一関節まで含まされる。それだけで伊達の息は詰まった。怖気で体が強張る。真田の人差し指はそれ以上入ってこないが、宥めるように入口を前後する。違和感がだんだんとなくなってゆくのを、伊達は恐ろしく思う。幾度かローションが足されて、ゆっくりと根元まで押しこまれる。それに従い陰茎がしぼんでゆくのを感じた。真田がそれに気づいて緩く揉んでくるが、血の気の引いた体はそんなに簡単には応じない。浅く息を吐きながらどうにか違和感をやり過ごそうとするがうまくいかない。人差し指がずるりと抜け出て、また押し入ってくる。感覚は下肢に集中した。少し太い。中指であろうかと伊達は思う。目を眇めて真田の様子をうかがうと、彼はやはり無表情で伊達の、股の間を熱心に見つめている。
初めてではない。こういうふうに明るい部屋の中で体の至る所に触れられたことも、舐めまわされたこともある。だが今までそれは双方向のものだった。しかし今、伊達の体は真田の圧倒的支配の下にある。それに気づいて伊達は奥歯を鳴らせた。中指が直腸をゆっくりと擦るたび、少しずつそれに順応し始めている自分がいる。手を口元にあてがい頬をシーツに擦りつけた。その首筋に真田の鼻先が当たる。耳元で幾度も囁かれる伊達の名前。……伊達の陰茎は少しずつ体積を増やし始めている。判りますか?根元から先端まで、ゆっくりと擦られる陰茎。少しずつ水音がたち始める。ローションが垂らされたのだと思う。伊達は大きく息をはいた。なんどもかかとでシーツをかく。歪んだ視界に真田の顔が映る。口元は緩く弧を描いていた。その厚いくちびるを、舌がぺろりと舐めてゆく。伊達は、背筋を這うものがもはや怖気ではないことに気づいている。俺は今興奮している。真田の顔は今まで見たことのない色をしていた。
中指に人差し指が添えられる。わずかな圧迫感。伊達はいっとき眉をひそめた。根元まで刺しいれられる。しばらくそのままで指は動かなかった。陰茎を触っていた手指が離れてゆく。右の膝の裏にてのひらが当たり、ぐっと持ちあげられた。あられもないかっこうにされる。身動きするたびに、勃起した陰茎が首を振る。身の内にくわえこんだ指がまた動き始める。いつのまにか指は三本に増えている。いやらしい、と真田が呟いた。その目がどこを見つめているかなど、もう考えたくもない。本来そう使うべきではない箇所で快感をすりこまされている。もう、限界に近かった。呼吸で深度を計られる。てのひらを伸ばして己の陰茎を掴んだ。真田の指が中を擦るのに合わせて追いこんでゆく。あ、あ、あ、あ。中を突かれるたびに声があがってしまう。喉の奥で噛み殺してもすりぬけて高い声が漏れた。腹に吐き出された精液。伊達は腰骨のあたりで手を拭って、だるい上半身を起き上がらせた。それに合わせて中に含まされていた真田の指も抜けてゆく。今度は真田の番だと、伊達が身を寄せようとしたときである。熱く張ったものが押しあてられた。おい。鋭く伊達が叫ぶが、真田はそれに耳を貸そうとしない。指三本などそれの前ではなんの比較にもならなかった。無理だって。泣きそうな声であることは自覚していた。張った先端が少しだけそこにめりこむ。喉奥から漏れたのは低い呻き声だった。これまでと違い、これから行われることに対して純粋に恐怖を覚えた。女のように扱われてしまう。
なんどかそこを抉じ開けるようにして動く真田の腰は、次第に乱暴になっていった。思ったように入っていかないのに苛立っているのだろう。聞いたことのない真田の舌打ちの音を耳にして伊達は恐ろしい気持ちになる。この男はなにを我慢しているのだという気持ちになる。伊達の陰茎は精を吐き出したまま萎えたままである。もう、すっかり冷めていた。……幸村、無理。伊達がか細い声でそう呟くと、ややあって深いため息がつかれる。尻をわしづかむ手が離れてゆく。汚れた肌を拭われる。重たい真田の体が伊達の横に寝転がった。途端、真田の背後に隠れていた照明が眩しく伊達の目を刺す。しばらく体を大の字に投げ出して、手首で眼球を押さえていた。むきだしの皮膚が寒さに悲鳴をあげるまで、そうしていた。
頭の芯もまた冷えている。下着とジャージを身につけ、真田の背中に呟いた。入れたいだけだったら女とやってこいよ。そうして、床に足をつく。さんざ汗をかいて喉が渇いていた。……そんな。ドアノブに手をかけて振り向けば真田も同じような格好だ。顔を両手で押さえた真田の声は低くくぐもっていた。政宗殿以外とこのようなことをしたいとは思わぬ。だから、男相手に入れるっていうのがまず無理だろ、穴に入れたいだけだったら女とやってこいって言ってんの、我慢する必要もねえだろ、俺はなんとも思わないから。
背後で息の音がした。肩を動かしたそのときには、ドアノブを握っているその手が真田のてのひらの中にある。今のは、本気でございますか。背後から囁かれる言葉はひどく低い。手を振り払って伊達は背後の真田を突き飛ばした。本気に決まってんだろ、誰が男に突っ込まれたいだの突っ込みたいだの思うかよ、お前にとって俺がそういう対象でしかないっつうならもう俺の部屋に入るんじゃねえ。
言葉というのはそれ自体がなにかを縛るものであると伊達は思う。心底、そう思う。床に尻をついた真田は顔を真っ赤にして、くちびるをぎゅっと噛みしめていた。そうしていないとなにかが飛び出してしまうとでも言うように。
伊達は今、嫌な笑い方をしている。ひきつったくちびるで伊達は真田にこう言った。穴だったらなんでもいいのかよ、そこらのけものじゃあるまいし。
……バタンという音がした。真田が伊達の部屋から出ていった音である。伊達はふらふらとベッドに近づいて冷たいシーツに顔を埋める。真田が触れていた感触はすでに失われていた。ひどく寒いと思う。それが、あの夜のできごとだった。
熱は日曜日のうちに引いた。体のだるさがとれないのを理由に、月曜日は講義をさぼって一日中部屋でごろごろとしていた。真田はきちんと大学に出かけている。バイトは八時頃に終わるとメールがあった。なにもすることがない平日は時間が過ぎるのが驚くほど速い。のろのろと起き出した頃にはすでに陽が西に消えようとしていた。雲のない空が、西から東にかけて橙から紺へと色を変える。冷蔵庫の中身を確かめ、夕食の献立を考えた。休日中に済ませられなかったものも含めて買い物に出掛ける。久しぶりに感じた外気温は鋭く伊達の額をあおった。思わずマフラーを巻きなおす。
肉じゃがと、豚汁、ほうれん草の卵とじ。トマトときゅうりの和えものを作ったところでエプロンを外した。携帯を確認するが着信はない。時刻は八時半である。
ビールの缶を取り出してプルトップを起こした。リビングのソファに座り、適当にテレビをザッピングする。結局無難なバラエティ番組に落ち着いた。
真田が帰宅したのはビールの中身が半分になろうかというところであった。伊達のてのひらの中身を見て少しだけ眉をひそめる。病み上がりでしょうに。病み上がりだからだろ。軽く笑んでソファから立ち上がった。豚汁と肉じゃがを温めなおし、冷蔵庫の中の和えものを取り出す。真田は酒を飲まない。少なくともこの部屋では飲まない。
夕食の席に言葉はなかった。それはもともとそういう習慣だったのだが、なんとなく空気が気まずいのに二人とも気づいていたからであるようにも思う。伊達が謝ったあの日から、ろくな会話をしていなかった。
売り言葉に買い言葉でひどいことを言ったという自覚はあった。望んで一緒に生活をし、友人以上の感情を互いに抱いている時点で、伊達以外の女性と関係を持てというあの伊達の言葉は真田の気持ちを踏みにじるものである。そして、真田にそれを許したということは伊達のそれもまた許容されるということになる。真田はそう考えるだろう。伊達にその気がまったくなくとも。
ただ、謝罪をしたからといって真田の行為のすべてを許容できるかというと、伊達は少し困ってしまう。もう我慢がきかないというのなら、なぜ水が溢れるまで放置しておいたのだろう。
政宗殿、と呼ばれて気がついた。後ろから腕がぬっと伸びてきて、水道の蛇口を閉める。ほとんど洗い物は終わってあとは二人分の箸を洗うだけになっているのに、洗い桶はすっかりぬるま湯で溢れてしまっていた。……まだ本調子じゃないのでしょう、もう休んだらどうですか。生返事をして水切りカゴに箸を立てた。エプロンで手を拭っている間も、そこから動かない真田の気配を感じている。
リンゴ。はい?その棚にリンゴがあるから取って。後ろに伸ばした手に心地よい荷重のかかるのを待って、まな板をひいた。八等分にし、皮を剥いてゆく。種の周りにぎっしりと蜜が詰まっている。水切りカゴに伏せた鉢に盛り、真田に突きだした。目でリビングを示す。彼がキッチンを離れるのを待って伊達はゆっくりと呼吸をした。皮くずを片付け、ダイニングの椅子にエプロンを引っかけた。
つまようじの刺さったリンゴがテーブルに置かれている。真田はそれを前にして絨毯に正座していた。膝の上にこぶしが握られている。伊達はソファには座らず、真田の対面に腰を下ろした。食わないの?……政宗殿こそ。
鉢に伸ばした手の、折り曲げた中指の骨が互いに触れた。一瞬触れてすぐに離れる。笑ってしまう。あの夏から始まった、手探りで互いの体に触れあうようになったころのようだった。
……なんか言えよ。しかし。言いたいこと、たくさんあんだろ。すると、テーブルの上で軽く握ったてのひらを真田の手がさらっていった。もう、口も聞いてくださらないのかと。
緩く組んだ指が互いの体温を伝える。真田の親指の腹が、伊達の薬指の爪を撫でた。少し伸びた真田の前髪は、あの緩やかに傾斜を描く額を覆い隠している。少しうつぶせた彼の表情は伊達からはよく見えない。
一方で、やはり意思の疎通はできていなかったのだなと伊達は思う。というより、伊達のほうで言葉によるコミュニケーションを遮断していたのだろう。真田を、虎として認識してしまったのも頷ける。あの期間、伊達は真田を言葉の通じないものとして扱いたかったのだ。それをいいことに自分の言うことをよく聞き、けして歯向かわないような、そういうものとして扱ってしまった。
申し訳ないと思う。そう口にすると、真田の頭が横に振られた。俺こそ、という彼の赤茶色の髪がそれに合わせて揺れる。指にぎゅっと力が込められる。拳の中にてのひらを握りこまれて、伊達はわずかに抵抗した。一度解かれた手を貝繋ぎにする。
他の……女性と、と言われたときは、これで終わりなのだと思い申した、事実それから政宗殿は俺がそばに寄っても怯えられるばかりで……、少し頭を冷やさねばならぬとも思いましたがやはり諦めきれるものではのうござった。ぎりぎりと指に力がこめられる。真田の爪の先はすっかり真っ白になってしまった。伊達はその白と、鮮やかな肉の色との境目に目を奪われている。あの鋭い爪はここにはない。伊達の手を握っているのはぶあつくあたたかなひとのてのひらである。……なにを?真田の目が伊達を向いた。そのとき初めて伊達は、このあまり感情を表出さない実直な男が少しだけ目を赤くさせているのに気づいた。なにを諦められないって?
政宗殿と、……そういう仲に。そんなに俺としたいのかよ。ごそりと伊達は重たい腰を上げた。手を繋いだまま、真田の傍に寄る。いくらか身を引いた真田の腰の上に跨って、赤い目を開いたままの真田を見下ろした。いいぜ、やるか。自分は今どんな顔をしているだろうと伊達は思う。願わくは、あのときのような嫌な笑顔になっていないことを伊達は祈った。
その代わり俺にもやらせろ。は?……冗談。言って、真田の鼻先をぺろりと舐めた。いきなり言われても、は?ってなるだろ、この前うまくいかなかったのだってもっとちゃんと準備すればどうにかなったかもしれないし、だから、ちゃんと。言いさした喉に、お返しと言わんばかりに噛みつかれた。そのまま体勢を引っくり返される。絨毯に背中を落ちつけて伊達は真田を見上げた。ちゃんと、我慢できなくなる前に俺に言えよ。真田のくちびるはなにか言いかけたが、結局真一文字に結ばれてしまう。なにかを堪えているようである。手を伸ばして真田の肩から垂れ下がった長い後ろ髪に触れた。指に絡めるようにしていると、その手をぎゅっと握られる。真田の右手が服を捲って、温もった腹を撫でた。啄ばむようにくちびるに触れ、真田の背中に腕を回す。後頭部を支えるてのひらがくすぐるように伊達の髪を梳いた。二十日近く触れあっていなかった肌が次第に融け始める。
……政宗殿は。耳元で真田が囁いた。下腹に響くような、低い低い声である。政宗殿は黒豹でござるな。うん?
思わず真田の肩を引き剥がしてその目をのぞきこんだ。なんのことだと問い正しても真田は口元を引き伸ばして笑うのみである。……黒豹って。あまりの符号に絶句する伊達の前髪をかきあげて、真田はその額にくちびるで触れた。
牙のひと(100825)