俺、引っ越すことになったから。久しぶりに姿を見せた黒猫は縁側にのぼりながらそう呟いた。夏の暑さも遠くなった、橙色の夕暮れのことである。武田は棋譜を睨んでいた目を上げて、その黒猫をじっと見つめた。額の一部分の毛と足の先が白い。右目は怪我で潰れてしまっている。このあたりに住みついている猫である。時折こうしてやってきては庭石の上で陽にあたり、天気が悪ければ軒先でその雨粒をじっと睨んでいる。名前をつけて呼んだことはない。武田は猫と呼んでいる。同じように他の家にも出入りしているようで、出先で彼のその足先の白いのをたびたび見かけた。青年の横を歩く彼はまさむねと呼ばれていた気がする。確かに同じ名前の戦国武将を連想するようなかおかたちをしていると思う。
どこぞの家猫にでもなるつもりか。うん。我慢できるか?あいつが、そっちのほうが安心できていいっていうからしょうがねえだろ。あいつ?俺を飼いたいって言ってるやつ。猫はそれ以上の言及を避けた。からだを伸ばし、縁側に寝転がる。散らばった将棋の駒をてのひらで遊ばせては、そのひとつを夕陽に透かせた。だからおっさんの将棋の相手ももう無理だぜ、他を探せよ。
隠居老人のボケ防止をしていたつもりなのか。武田は声を上げて笑い、棋譜を丸めてその頭を小突いた。お主に心配されるほど耄碌しておらんわ。猫はいやそうに体をよじっていたが、頭を小突くのが武田のてのひらに変わるときゅっと左目を細めた。
一年前、家の裏口の植え込みにひっそりとうずくまる黒猫を見つけた。からだの小さな子猫であった。手を伸ばすといっそうからだを縮こまらせる。よくよく見れば、右目を怪我している。ふさがってもおらず、体液に濡れていた。カラスかなにかにやられた様子である。知り合いのつてを頼って獣医を訪ねると、飼い猫ですかと問われる。そうではないと首を振ると、治療費は……と語尾を濁された。老人の一人暮らしで、財布の中身を心配されたものらしい。武田はぐっと胸を張って、心配はない、よろしく頼みますと言って寄越した。
子猫はじきに武田の家に帰ってきた。帰ってきたという表現はおかしいかもしれないが、少なくとも彼は恐る恐るといったていであったものの武田の家の敷居を越えた。毛並みは黒々としている。右目はもう視力を失ってしまっているため、歩くのには少し不自由そうにしていたがすぐに慣れたようだった。尻尾をピンと張って箪笥の上を飛び回る。そうして、得意げに鼠を見つけ出してきては武田に披露してみせた。
……武田は最後までその猫に名前をつけなかったし、その猫も武田を名で呼ぶことはなかった。もうすっかり傷も癒え、生活に支障はないというところまでくると、猫は自分からここを出ると言いだした。もうおっさんの相手も疲れたんだよ。そっぽを向きながらそう呟いて、猫は尻尾で畳を叩いた。恩知らずな猫じゃのう。……言ってろ。
じゃあなと寄越して猫は縁側から庭に降り立った。来たくなったらいつでも来い。武田がそう声をかけると、猫は少しだけ振り向いて、おっさんがくたばらないようにときどき様子は見に来てやると言い置いてそう高くはない石塀に登った。黒く細い尻尾がその向こう側に消えるのを、武田は目を細めて見送った。
言葉通り、猫はときどき武田の家にやってきて、将棋の相手をしたり縁側で日向ぼっこをしていく。そうして言葉もなく去ってゆく。多くは知らないが、よそでもそういうふうに暮しているのだろう。それが、どこぞの家猫になるという。……いいひとでもできたか。顎をさすりながらそうあてずっぽうで呟くと、猫は大仰に肩を揺らせた。ちっげーよ。そうかのう。いい加減なこと言ってんじゃねえ。猫はむすっとくちびるを尖らせると、縁側に寝せていた半身を起こした。もう帰る、そう言って寄越す。そうしてピンと尾を張った。忙しなく耳を動かす。猫は急にそわそわとした様子で縁側から立ち上がり、とにかくもうここには来られないからな!と武田に言い置いて庭に降り立った。石塀に飛び上がる。すると、右手から現れた青年が猫を姿を認めて目を丸くしている。おお、政宗殿、かようなところに。青年は手を伸ばして猫の顎を、背なを撫でて目を細める。行きましょうかと青年が言うのにしたがって石塀から身を躍らせた。
そのときの横顔の、嬉しそうな様子といったらなかったので、やはりいいひとでもできたのだろうと武田は駒をいじりながら考えている。既に夕暮れ、涼やかな秋の入口であった。
あきのひゆうぐれあかとんぼ(100924)