なにをするともなしに立てた膝の上、組んだ指の先を見ている。少し節の目立つ長い指である。記憶にある限りの、以前の自分の指を思い出そうとするが、しかしそれはうまくいかない。もうこの頃はずっとこの調子である。あのときの記憶はある一点を除いてほとんど靄がかかってしまっている。六本の刀を操っていたのだから、おそらくもっとごつごつとしていて肉刺で皮膚が硬くなってしまっていたのだろう。しかし今の伊達の手はそういうものに触れたことのない、やわいてのひらである。そうして首を後ろにぐっと倒していくと、こめかみに浮いていた汗が髪の生え際に向かって流れていく。汗でべたついた髪が白いシーツに広がる。しばらくそうしていた。伊達の携帯が、ぶるぶると震えだすまでそうしていた。
メールは真田からである。今駅に着いたと言う。伊達はそのまま大通りを南下しろと指示し、ベッドにもたれさせていた体を持ち上げた。伊達の家は大通りからそう離れてはいないが、入り組んだ路地の果てにある。初見や、地図だけではまず間違いなく辿りつけない。携帯と財布をデニムのポケットに突っ込む。家じゅう開けはなってあった窓という窓を閉め、玄関を開けて外に出た。途端に暴力に等しい陽射しが伊達の額を照らす。誰もいなくなった一軒家に鍵をかけ、石畳にスニーカーの足裏を置いた。そこからも熱がじわじわと伝ってくるような、そんなこころもちだった。
両親と弟は父方の実家に盆の里帰りをしている。来年は受験生になることだし、思い切り遊べる夏休みはこれで終わりだ、友人と思い切り遊びたい、そう両親に伝えて伊達はひとり家に残った。盆休みと有給と土日休みを組み合わせた夏季休暇で、家族は一週間ほど戻らない。そう真田に伝えると、あの男は頬をわずかにひきつらせて、足元に目をやった。いいのでござるか。……今更だぜ。
剣道場横、緑陰がまばらに真田の胴衣に落ちている。七月も終わろうかという日、高校のある街に所用があって出かけた。そういえばまだ運動部は合宿中だろうかと、そう思っているうちに足は高校に向かっている。人気のない校門をくぐり、剣道場のある一角に近づいていくと、蝉の鳴き声とともに威勢のいい声が耳を震わせた。
ついでに、途中のスーパーで食糧の買い出しをする。レジで精算を済ませたときに、また携帯が着信を告げた。言われた交差点に着きましたが、と真田が言う。少し待ってろと言い置いて早足でスーパーの自動扉をくぐった。横断歩道の向こうに、大きな鞄を背中にかけた真田が立っている。通話口に向けてこっちだこっちと叫びながら手を振った。折しもそのとき、歩行者信号が青に変わる。
隣に並ばれながら、持ちましょうかと問うてくる。確かに手に提げたビニル袋は結構な重量だが、ばてるほどの量ではない。それでも細く細くなった持ち手が指の肉に食い込んでいるのや、指の先に血が通ってないのを見て真田がしつこく食い下がる。じゃあこれを持てと、左手の袋の底から取り出した小玉スイカを持たせた。スイカは、今年初めてです。……そうかよ。真田がひどく嬉しそうに笑うので、伊達は少しだけ目を伏せた。正面から照らす陽がやけに眩しく、額に浮いた汗をぬぐうそばからまた生え際に水滴が滲んだ。
スーパーから一分ほど大通りを歩き、横道に入る。一本裏に入るとそこは似たような外観の並ぶ住宅街である。車道をけぶらせていた排気ガスが届かないくせ、熱せられたアスファルトからゆらゆらと陽炎が立ち上った。だらだらとした一本道が続く。しかもこの道は緩やかに傾斜しているので、予想以上に体力を奪った。天頂に近い位置に太陽があるために影がほとんどない。それでも入り組んだ路地に入ればいくらか涼は得られた。合宿中の様子や、大会の結果などを話していた真田もだんだんと口数が少なくなり、伊達が右手に提げた袋を何回か持ち直しているうち、自然と押し黙ってしまう。塀からはみ出た緑から、わんわんと蝉が命を燃やしている。濃い色のはずのアスファルトは陽に照らされて白っぽく光る。濃い、濃い影が足元から短く伸びた。夏の暑さは、あの昔、奥州に住んでいたころからあまり得意ではなかった。確か、そうだった。
半眼のまま隣を歩く真田を見やると、視線に気づいた彼が口元を少し緩めた。額から首筋までびっしょりと汗が浮いているがそれほど辛そうでもない。夏は得意なのだ、この男は。相変わらずである。そう思うと、伊達はひどく遠い気持ちになった。相変わらずというたった五文字の言葉を、この先いつまで使えるのだろうと思う。足もとから伸びる濃い影のような、ひどく暗いこころもちである。真田が訝しげに、政宗殿、と呼んだ。それに返事をしたかどうか、伊達の意識はもうそこにない。
気がつくと、自宅のリビングのソファに寝そべっている。右足はだらしなく床に落ちた。首筋が冷たい。もぞもぞと体を動かすと、どうもタオルに巻かれたアイスノンが押しつけられている。視線をずらすと伊達の横腹に後頭部を押しつけるようにして真田が天井を見上げている。空調は効いている。室外機の唸る音が窓の外から聞こえた。時計は三時を指している。
身動きしたのが伝わったか、起きましたか、と真田が訊いてきた。……悪いな、客ほっぽって寝ちまった。いえ、俺は別に。……アイスでも食うか。裸足の足に、キッチンのフローリングが心地よい。ソーダ味の棒アイスを二つ引っ張りだして真田に与えた。ひととき無言でアイスを頬張る。ほとんど溶けてしまったアイスノンを再び冷凍庫にしまい、伊達は空調の設定温度を少し上げた。急激に冷えた腹のあたりがなにかこころもとなかった。そう思うと、おのずと体が動く。ソファに背をもたれさせて、床に座りこんでいる真田の、その肩口に頬を寄せた。大仰に体を揺らせてくる。それがひどくおかしく、伊達はそのままのかっこうで肩を震わせた。そんなにびびんなくても。しかし。そのつもりで来たんじゃないのか。まだ陽が高うございますゆえ。暑苦しいのは嫌か。それきり真田は黙る。伊達はそれが答えだと知り、ぱっと体を離した。停滞しはじめた空気が足元から徐々に温んでくる。ローテーブルの上で、氷のすっかり溶けたグラスがびっしりと汗をかいていた。それが、派手な音をたてて中身を揺らせる。視界の半分を真田の肩がふさいだ。背中に回った真田の腕がきつく体を抱きしめてくる。
もがくようにしてソファの上に這いあがった。熱い皮膚同士を擦りつけあっていると次第に息があがる。Tシャツの裾を引っ張りあげられて、伊達は思わず首をすくめた。上げた両腕から役目をなくした布切れが抜けていく。ついで上半身をさらした真田は眉間にしわを寄せていた。この顔は、見たことがある。まだ覚えている。あの昔、一度だけくちびるを合わせたときの、あの顔である。伊達は息を整えながら早くしろ、と真田を急かした。俺がまだお前を覚えているうちに。……そう言いかけたくちびるを塞がれた。
ソファの上で、互いになんどか遂情を果たした。回数など数えていない。意識を半ば飛ばしながら体を揺すり、揺すられた。……オフホワイトの天井が、橙に染まっている。全裸の体を投げ出して、伊達は声を出そうとするがどうも喉がいかれてしまったようでうまくいかない。足もとにうずくまっている真田の太ももを蹴り、腹減ってるかとなんとか絞り出した。減ってます。お前、好き嫌いとかなんもないよな。食べられるものであれば。
体液にまみれていたはずの体はすっかり綺麗になっている。伊達が構わないと言うのに、真田は逐一外で出していた。腹や背中、顔にまでかけられた。それで自分も興奮していたのだから、伊達も怒るに怒れない。数時間真田をおさめていた腰に違和感は残るが、動けないほどではなかった。
……政宗殿。起き上がり、キッチンに足を進めようとした背中にやけに低い真田の声がぶつかる。振り返ってみれば、やはり眉間にしわを寄せて前方を注視している。あれは、本気でござろうか。なんの話だ。……捨てろと、おっしゃったな。
最中の話である。揺さぶられ、真田の背中に腕をまわし、この男の額に額を押しつけながらとぎれとぎれに伊達はそう告げたのだ。俺がお前のことを綺麗さっぱり忘れちまったときは俺を捨てろよ、と。
今はまだいい。だがいつかはそれも欠け始めるだろう。あの時代の記憶の、もうそのほとんどが失われ始めている。伊達にはもう、付き従ってくれた家臣の名も顔も思い出せぬ。産んでくれた母の顔も、当主にと取り立ててくれた父の声も、慕ってくれた弟の温かみさえ。そのなかでこの男の記憶だけは鮮明に赤い。その顔もその名前も、お慕い申し上げていると一言告げたあの声も全てだ。真田もそうだと言う。俺にはもう、御館様の顔すら遠い。そう、くちびるをかみしめながら言う。だが政宗殿のことだけは忘れる気がせぬのだ。そう、再会したあの春の日に告げた真田の顔を、声を、伊達だって忘れたくなどない。だが例外などないのだ。ぽろぽろと零れ落ちる記憶の雨を、伊達はすくいあげる術を持たぬ。
……しょうがないだろ、お前だってきっと。俺はずっと覚えております。もう一度真田は強い口調で言った。夕暮れの陽が射しこんで、視界がやけに赤い。これはなんだ、この男のものだろうか。そう思う。正面からぶつかってきた真田は力の限りに伊達を抱きしめて、捨てるなどと、とそれこそ死にそうな声で呟いた。
そうだなと伊達は思う。そのときが来たら、捨てられるのは真田のほうである。伊達に忘れられるのは真田のほうである。悪かった、あれはなしだ、そう言いながら真田の髪を撫でた。そうしながら、この男を忘れるときはすっぱりと全ての記憶を消してほしいなどと考えている。そうして、できれば二人同時に互いのことを忘れたいものだと、そう思っている。
廻れ廻れ 夏(090131)