砦の普請のために出かけた先、珍しい獣が出たというので馬を駆った。国境に近い庄である。報告をした者も、案内させた者もみな一様に困ったような顔をしている。人家から離れた山近くの小屋で、霧が出て昼間でもひどく薄暗い。あちらに、と言われるままに足を進めると、突貫で作られた檻のなかに蹲るものがある。伊達はそれを視界に納めて目を瞬かせた。真田がそこにひとり、目をつぶり座している。
 なんの冗談だとこぼしそうになったとき、案内させた者がいかがいたしましょう筆頭、と薄暗い檻を睨みつけながら言った。どうもこうもない。武田の将である。このように扱えば外交問題にもなろう。即刻檻から出せと言いかけた。……下野で使われておる虎が逃げ出したかと思われますが、それ、その首に……。そうして、指差した先に真田の首がある。あれは真田の六文銭でございましょう、武田も宇都宮に倣って虎を使い始めた証拠にはございませんか。
 物騒な顔で真田を睨みつけているその男と、檻の中で仏頂面で座り込んでいる真田とを伊達は見比べ、はてどうしたものかと腕を組んだ。虎?確かにこの男は若虎とも呼ばれてはいるが、れっきとしたひとである。城持ちの将である。伊達はそっと顎を撫で、片方の手を振った。少し下がれ。しかし、危のうございまする、猛獣ですぞ。ぷっと吹き出してしまう。いいから、なにかあったら斬って捨てるさ。言いながら、腰に佩いた刀を鳴らせた。男は渋々といったていで突いていた膝を上げて踵を返した。
 その背中を見送って、そろそろと伊達は檻に近付いた。かがみこみ、その仏頂面を覗き込む。……Hey、アンタこんなところでなにしてやがる。真田は答えない。伊達はくちびるを突きだし、真田の、その皺の刻まれた眉間に指の腹を押しつけた。びくっと檻の中で男がからだを震わせる。聞こえてるんだろ返事しろ熱血馬鹿。
 ゆっくりと真田は目を開けた。……政宗殿。見りゃ判るだろ、なにしてんだアンタ。某が誰か、某の言葉がお判りになるか。はあっと伊達は息を吐いた。膝に肘を突き、小首を傾げる。薄暗い檻の中で鈍く光る真田の目は、伊達に焦点を合わせて動くことをしない。……なあ、よく判らんがアンタはなんでこんな檻に入ってる? 某は虎にござる、先程の男も言うておったでしょう。それが判らん、俺にはアンタはアンタに見えるんだが。某には獣に見え申す。言って、膝に置いた右手を持ち上げる。なんてことはないひとの腕である。このような前足では……槍も持てぬ。前足!思わず叫んで、伊達は膝を叩いた。くくっと肩を震わせる。……そうだな、そんな前足じゃ、俺にも触れやしねえだろう。はっとして、真田は目を瞬かせている。そうして己の右腕をじっと見下ろし、左様にございますなとそう呟いた。
 このていではいくさばたらきさえ碌にできぬ、槍さえ持てぬこのざまでは貴殿との決着もつけずじまいですな、そればかりが心残りだ、もう行ってくだされ、そこな鍵を壊しておいて下さったら、夜陰に紛れてどこへなりと消えましょう、某のことは忘れていただきたく。……伊達はいっそ哀れな気持ちで檻の中の真田を見つめた。真田はもう一度目をつぶりかけている。すっと気配が薄くなってゆく。伊達はため息をついて、膝についた土を払った。……虎として生きるなら己の武器を自覚しろ、アンタの前足に爪はついているんだろう、アンタの口には牙が生えているんだろう。見下ろした先で、真田は小さく身じろぎした。けものにだって叩きこめば忠義のひとつも覚えるだろう、ここで俺の首を食いちぎらないで、どうやってあんたは武田に最後の忠義を示すつもりだ。鍔を鳴らせると、低く唸って目を光らせる。こんな檻さえ壊せなくてなにがけものだ!
 木端が舞った。舞った木端は炎に包まれてすぐに消える。前髪がジジと焼けた。黒煙の立つ中に、真田がうずくまって伊達を睨みつけている。首を振って炎を散らせた。じりと地面を踏みしめ、柄に手をかけた、そのときである。
 部下が何人か檻の焼けた音に気づいて走り寄ってきた。なにごとで、と言いかけた先の光景を見て絶句している。と、とらは。逃げた、……真田、ついてこい。とうの男は目をきょろきょろさせては、己の右てのひらを開閉させている。今の火柱ですっかり霧も晴れた。伊達はザクザクと土を踏みながら、後ろを付いてくる男の足音の軽いのに少しだけ笑う。

霧中山月記(101212)