平日の昼間で、各停の列車しか止まらない駅に人影はまばらである。中央に位置する改札を抜け、プラットホームの端で足を止めた。自販機横のベンチには老婆が一人座っている。真田はポケットの中から小銭を三枚よりわけ、そのぬくもった金属の塊を自販機に押し込んだ。赤く点灯するランプを押す。ガシャンとけたたましい音をたてて落ちてきた缶に触れ、その熱さにたたらを踏んだ。一度ひっこめた指をもう一度取り出し口に突っ込む。まだ口をつけるには熱すぎるだろうそれを、革ジャンのポケットにしまいこんだ。
もうめっきり吐く息の白い季節である。日めくりもすっかり残り少なくなったある日であった。出張が決まった、と伊達が言うのである。真田はリビングの中央に陣取った炬燵に足を入れてぬくぬくとみかんを剥いていた。伊達は白い筋を嫌うので、丁寧にそれを取り除いたのをティッシュの上に積んでいた。
炬燵に足を入れるなりそう言って寄越すので、難儀ですなと真田は言った。伊達の出張は珍しいことではない。ついこの間も何日か家をあけた。土産にはいつもどう使うのか判らない郷土品や、口に入れると目を白黒させてしまうような珍味をよく買ってくる。そのときも、そういうたぐいのものだろうと、真田は一度伊達に目をやってまた己の手元に視線を落とした。伊達の足が炬燵の中で真田のそれにぶつかる。彼はすぐにそれをひっこめて、もぞもぞとからだを揺らせた。……ドイツに、五年。ぼそりと伊達がそう言って寄越すのにも、反応が遅れた。
雨の音をたててからだの血が下がっていった。目を瞬かせて伊達を見やると、彼もまた炬燵の天板に目を落としている。顔を覆った前髪で表情が見えぬ。五年? 鸚鵡返しにそう呟くと、うん、と小さく伊達は言った。いつから? 年明けから。五年も? ちょくちょく帰ってくるだろうけど、とりあえず、五年。
それだけ言って、伊達は天板に頬を押しつけるようにして眠ってしまった。じきにすうすうと寝息が聞こえてくる。或いは狸寝入りなのかもしれなかったが、真田はしばらく息を止めているしかなかった。己の手元のみかんと、伊達のつむじ、伊達のために筋を取り除いたみかんの房、それらを交互に眺めやって、もう一度五年、と呟いた。いかにも重い三文字だった。
その週の週末に、この住処をどうするかというはなしになった。ファミリー向けの賃貸の部屋を二人で家賃を折半して住んでいる。さして荷物の多くない真田には一人で住むには広すぎる。ならばもう道は決まっていた。職場からは少し遠くなるが真田は実家に帰ることにし、マンションは引き払うことになった。管理会社への連絡や、ガス電気水道、ネットなどの解約はすべて伊達が引き受けた。共同で使っていた家電などを下取りに出す算段は真田が行った。年末の忙しい時期にそれらを行うと面倒だという理由で、かなり早い時期にすべてが滞りなく終わっていった。それらの流れはまさに、終わっていったという言葉がぴったりだった。
そうしてすっかりマンションを片付け、数日を都内のホテルで過ごしたのち、伊達は空港からドイツに旅立っていった。じゃあなと手を振った伊達は淡い笑顔であった。真田は駐車場の車のかたわらでそれに向かって手を上げた。お元気で、とそれだけ言った。うまく笑えているだろうかとそればかりを考えた。直前まで、待っておりますと言おうかどうか迷っていたが、結局よした。運転席に座り、ホルダーのコーヒーを一口飲んだ。苦味ばかり感じられるそれが、ぬるく喉を流れ落ちてゆく。しばらく、ハンドルに額を押しつけていた。喉の奥に押し込んだ、伊達を引きとめる言葉や、詰るような言葉のなにもかもがその瞬間腹の底で暴れてさんざんだった。五年、ともう一度呟いてみる。あの言葉から始まり今この瞬間終わった忙しい日々のなにもかもがすでに遠かった。考えてみれば、五年間もの赴任を一週間前に言い渡されるわけがない。それより以前からはなしがあったと考えて然るべきである。相談のひとつもしてもらえなかったことを思い、真田はそっと奥歯を噛んだ。今なら彼を詰ってもいいだろうと真田は思ったが、もうすでに遅すぎる。
ホームに列車が滑り込んでくる。暖房のきいた車内はあたたかかった。冬の柔らかな日差しが床を暖色に切り取っている。真田は列車の隅の席に腰を落ち着け、ポケットの中のコーヒーのプルトップを開けた。じきに列車はスピードを上げる。首を巡らせ、窓の景色を眺めた。流体になって過ぎてゆくそれが、やけにくっきりとまぶたに焼き付いて参ってしまう。一口、コーヒーを飲んだ。苦いと思う。
いくつか駅を通り過ぎたとき、ポケットの中でぶるぶると携帯が震えた。バイブのパターンからして電話の着信である。列車の中では出られない。真田はフリップを開けて、そこに表示された伊達の名前に息を飲んだ。既に向こうに着いて、一息ついている時期である。
着信はじきに止み、留守電に切り替わった。数分経って、着信とメッセージがありますと液晶パネルに表示される。すうと息を吸って、親指でセンターキーを押した。留守電の再生ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。躊躇うようなノイズのあと、元気か、という伊達の声が聞こえてくる。
ガタン、と列車が大きく揺れた。橋に差し掛かり、じきに窓の外はきらきらと光る川面でいっぱいになる。真田はそれに目を細めながら、手指をあたためるコーヒーの缶を握りしめた。耳に流れ込んでくる伊達の声は、ゆっくりと血流に乗って全身に回る。真田はそっと目を閉じる。駅に着いたら、こちらからも連絡しようと真田は思う。待っておりますなどと未練がましい言葉を言えるとは思えなかったが、それでも彼に健勝を問うぐらいは許されるだろうとそう思った。川面を反射して、あたたかな光が列車の中に入り込んでくる。真田のまぶたを赤くさせて、ひどくそれが熱いと思う。
黄金の日(101228)