喫煙所で一服していると、向こうの角から走ってきた後輩が真田の名前を呼んだ。日の長いこの季節でも窓の外はとっぷりと暮れている。だが所々に立っている灯りがあたりを照らしているためにそれほど暗くはなかった。この時期、夜の動物園と称して夜間の解放をしている。学校はまだ夏休みで、パンフレットを持ったこどもたちの声が園内にきゃっきゃと響いた。……従弟のこが来てますよ。後輩はそのまま、後ろのポケットから煙草のパッケージを取り出してライタを擦った。礼を言って、フィルタぎりぎりまで吸い込んだ煙草を揉みつぶす。
 詰め所に戻ると、入り口の脇のベンチに伊達が座って携帯電話をいじっていた。真田が彼の名前を呼ぶと、お疲れさまと言ってベンチから立ち上がる。ハーフパンツに、つっかけた草履がペタペタと鳴る。かたわらに置いた紙袋を持ち上げて、真田の胸に押しつけた。……今日は、なんでござろう。蕎麦。蕎麦? 一段目に天ぷらが入ってて、三段目がそばつゆな、あとタッパーにネギとゴマとわさび、固めに茹でてシメてあるけど、早めに食べた方がいいと思う。真田は紙袋をのぞき込んで、タッパーに入れられたネギの青さに目を細めた。
 そうして、二人して夜の動物園を歩き出す。目的の厩舎は入り口、林の近くにあった。今日の解放区分には割り当てられていない厩舎である。少し歩くだけで額に汗が噴き出した。暑いですな。そう呟くと、隣で伊達がくくっと肩を震わせた。昔って、こんな夜でも蝉って鳴いてたっけ? 伊達はあたりを見渡すように首を巡らせ、もう耳の奥に馴染みすぎている蝉の声に意識を集中しているようだった。
 入り口に黄色いイラストの描かれた厩舎が近づいてくる。入り口に鎖の張られたそこを跨ぎ越え、屋根付きの通路に入った。動物の飼われている広いスペースを窓から見られるようになっている。ここに住んでいる動物は夜行性だ。木の生い茂る中の様子は暗く、判然としないが、草の踏む音、鎖につながれて置いてある骨付き肉で遊ぶ音ぐらいは聞こえるかもしれない。伊達はいつものように鞄から携帯用の椅子を取り出して窓の正面に腰を下ろした。……お帰りになるときは、携帯に連絡くだされ。そう真田は伊達に呼びかけたが、伊達は生返事をするばかりである。彼の目は窓に向けられて動くことをしない。
 彼が初めてこの動物園に現れたのは十年ほど前の、夏休みであった。まだ小学生になりたてで、背負うリュックサックの方がからだよりも大きかった。お盆休みで動物園は開園当初からひとで賑わっている。真田もまた高校に入って最初の夏休みであった。園内の売店でアルバイトをしている。
 伊達は真田の従弟である。真田の父親と、伊達の母親が兄妹になる。叔父は都内で働いており、伊達一家もまた首都圏で暮らしていた。叔父自身には身寄りがなく、お盆には家族総出で真田の実家に帰ってくる。もともと叔父もこのあたりで育ち、大学から出ていった身なので昔から真田の実家とも少なからず交流があった。
 両親の手を繋いでいるべき伊達の手は、その日汗ばみながらパンフレットを握りしめていた。真田の実家からこの動物園までは私鉄と地下鉄を乗り継いで四十分ほどかかる。伊達は売店で商品の並び替えをしている真田を見つけてその背中に飛びついてきた。ゆきむら、と大きな声をあげて。
 つんのめりそうになったのを堪えて向き直ると、伊達は額に大粒の汗を浮かせて目をらんらんと光らせている。さっと血が下がった。彼の周りに両親の姿はない。どうなさった、と声をかけるより早く、伊達は園内図を真田の目の前に広げてみせた。そうして、りゅうはいないのか、と訪ねてくる。……暑さが原因ではなく、真田はそのとき目のくらむ思いをした。
 どうして、と真田は伊達に逆に問いかけた。どうして、急に竜などと言い出したのでござろう。伊達は少し考え込むように眉をひそめると真田の耳に口を寄せて、おれは独眼竜だからと言って寄越した。小学生が知る由もないその言葉を、伊達はやけにはっきりと発音し、それはいつまでも真田の耳に残った。
 上長に頼み、特別に休憩にしてもらう。葉陰のベンチに連れていき、氷の浮いたジュースを買い与えた。ベンチに座ると地面につかない足をぶらぶらと揺らせて、伊達はストローに夢中になっている。真田はその隣に腰を下ろして、鼻の下の汗を拭いた。蝉がわんわんとやかましい。なあ、りゅうは。と伊達はもう一度言った。真田を見上げてくる目の、無邪気な明るさ。その少し縦に長いような虹彩。真田はそれを認めてゴクリとのどを鳴らした。紙コップの底から水滴が一滴、伊達のむき出しの膝小僧に落ちた。……ここには、おりませぬ。じゃあ、他の動物園にはいるか? ぐっと唾を飲み込む。……そもそも動物園に竜はいないのだ、存在しないものなのだと彼に言って聞かせる間もなく、彼のあとを追いかけてきた叔母に引き取られて伊達は実家に戻っていった。ハレーションを起こしそうな夏の日だった。目を落とした先、自分の影がアスファルトに濃い。ぱたた、と汗が地面に落ちた。……叔母に手を引かれながら真田を振り返ったときのなにか言いたげな伊達の顔が、今でもまぶたに焼き付いて離れないでいる。
 しかしその夏の日以降、伊達が真田に向かってその言葉について言及することはなくなった。あるいは、彼の中で最後にひかるものがそうさせたのかも知れなかった。……それでいい、と真田は思う。真田は、彼が長ずるに従ってあのひとに似てくることに半ば恐れを抱いていた。恐れと畏怖と、少しばかりの期待と。
 ……真田自身、覚えているとはいえ成長するに従ってそれはひどく朧気なものになっていったものである。自覚したのは中学の頃であった。伊達が生まれて数年経ったころだ。あれも、夏の日であったと真田は記憶している。通学路を、部活のために走っていた。緑陰が走る真田のからだに落ちて、まばらになっている。はっはっと息を吐く音と蝉の音だけが鮮明である。ふとそのとき、己はなんのために走っているのだろうと考えた。部活に遅刻しそうだから?否、戦勝の結果を一刻も早く躑躅が館に持ち帰るためである。
 はっとして、真田はその場に立ち止まった。ユニフォームの脇の下や襟刳りにぐっしょりと汗をかいている。後ろから、軽トラックが真田を追い越していった。荷台に乗せられた古い冷蔵庫がいかにも危なく揺れている。……ユニホームの裾で、額と鼻の下の汗を拭いた。おそるおそる目の前に掲げたそこに、血糊がべったりと貼りついていないことにそっと息をついた。……そのころに比べると、もういかにも薄く実感の伴わないものになりつつあった。ただあのひとの後ろ姿と、彼が振り向く様子、周りに青い雷光が閃く様子は、依然として真田のなかでしらじらと発光し続けている。そうして、その光景はあの夏の日の動物園に重なって真田の呼吸をいっとき止めた。叔母に手を引かれて帰ってゆく伊達の小さな後ろ姿。あの少し縦に長い虹彩。あれからだと真田は思う。あれから、真田はこの従弟のことをまだなにも知らぬ幼いこどもだとは思えなくなってしまった。
 ……政宗殿、ともう一度言い含めるようにして呼びかけた。伊達はハッとして振り向き、何度か瞬きをしながら真田を見つめてくる。もう、すっかりあのひとの容貌そのままになってしまった顔であった。……判ってるよ、そう言いながら伊達は破願した。蕎麦、さっさと食えよ、のびるから。頷いて、厩舎から離れた。ふと思いついて自動販売機の前で足を止める。ポケットの小銭をその眩しく光る機械に押し込んだ。ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。厩舎に向かってきびすを返す。……依然として、ぴくりとも動かず窓を見つめている伊達の頬にそのペットボトルを押しつけた。びくりと伊達の肩が跳ねて、その右目が真田を見上げてくる。……びっ、くりしたー……。ここは風も通らぬし、暑いでござろう。サンキュ。
 ペットボトルを受け取った伊達は、ふと思いついたように真田の手首を引っ張った。てのひらに頬を寄せてくる。つめてえ。……体温が平衡化するまで、伊達はじっと真田のてのひらに頬を押しつけていた。するりと伊達の手から力が抜ける。真田はそっと足を後ろにずらす。厩舎の入り口の看板には、虎の絵柄が描かれている。
 伊達は今、大学二年生である。動物園近くの大学に通っている。そうして、同じく職場近くに居を構える真田のマンションで一緒に暮らした。真田に夜食の弁当を渡しにやってくるついでに、こうしてときどき夜の動物園を徘徊する。最初から、彼の興味は虎に絞られていた。竜は伝説上の生き物であるということをひとりの頭で理解した先に、なぜ虎を選択したのか。そう思うと真田の足は少し震える。……だが、彼はそれ以上を真田に語らない。
 ……デスクに戻り、三段になっている弁当箱を開ける。そばつゆにネギとゴマと、少しのわさびをあける。ひとくちすする。ちょうどよい堅さになっている。合間にししとうとなす、かぼちゃ、白身魚の天ぷらに箸をつける。彼の料理の腕はクロウトハダシだ。週三で入っているアルバイトのある日は無理だが、時間のある日にはこうして真田の弁当を作ったり、夕食を作って待っていたりする。あっと言う間に弁当を片づけてしまい、ため込んだ事務仕事にとりかかる。白いディスプレイをにらみつけ、カーソルの動く先に目を走らせる。夜のジャングルに虎が徘徊している様子を、息を潜めて熱心に見つめている伊達のことを、考える。

 マンションに戻ったときにはすでに日付を越していた。外階段を四階までのぼりきる。一つおきに点灯した廊下の照明の下で足音を忍ばせた。角部屋のドアノブに鍵を押し込む。鉄扉を開ける。床板がひんやりと真田の足の裏を冷やす。キッチンでは冷蔵庫がひとりでブーンと低く喉をうならせている。麦茶のペットボトルを取り出して、半分ほど残っていた中身を飲み干した。庫内のオレンジの光が、目に痛い。
 風呂に入って寝室に使っている和室の引き戸を開けると、布団の上でタオルケットがこんもりと盛り上がっている。伊達は隣の六畳の洋間を住処にしているが、狭いという理由でこうして和室の布団の中に潜り込んだ。布団を二組敷けるスペースはもちろんあるし、客用布団も押入れの中に入っている。それを出してシーツを敷き直すのが面倒だという理由は、わざわざ大の男二人で一組の布団を使う理由には如何にも弱い。そう思いながら真田は濡れた髪をタオルで拭い、布団のはしに腰を下ろす。もぞもぞとタオルケットの中で伊達のからだが身動きする。……おかえり。ただいま戻りました、蕎麦、おいしゅうござった。ん、と喉で返事をして伊達は枕に額を擦りつける。汗の浮かんだうなじが橙色の豆電球に光る。身を屈めて、そこに歯をたてた。しなるからだを腕の中に閉じこめる。Tシャツの中にてのひらをしのびこませる。……俺、明日大学、あるんだけど……。月曜日は、午後からでござろう、俺も明日は休みにござる。なだめるように腹の凹凸を撫でると、びくびくと波打っていたそこは次第に真田のてのひらに馴染む。背中を覆う布切れをたくしあげ、その中心を這う蛇にかじりついた。指で胸の先をいじってやる。周りを撫でるようにするとすぐにそこは堅くしこった。真田はいつも後ろから、左手でそれをするので、伊達の乳首は左ばかり敏感である。きつくつまみあげると枕に押しつけた頭がぶるぶると震えた。
 いったんからだを放し、伊達を仰向かせる。大きく上下する胸郭からTシャツを引き剥がした。腕を上げて、伊達は素直に脱がされるままだ。腰骨からするりとてのひらをハーフパンツの中に入れてその皮膚から分離させる。足の間で、彼の陰茎は緩く首をもたげていた。てのひらで茎をやわく握り込むと、伊達は布団についていた腕を真田の首に絡ませる。耳のあたりから顎の骨をたどり、真田の顎先にくちびるを滑らせた。
 ぐっと、からだを寄せてくる。肉の詰まったかたまりに押されるようにして真田は布団の上に尻をついた。その腰に乗り上げてくる。首に絡んだ腕は背中から真田の寝間着をたくしあげて、ただの布切れにしてしまう。しばらくそうして裸の胸を合わせていた。心音は速い方にシフトして、ゆっくりと同調する。
 大きく息を吐いた伊達は自分から境界線を分離させた。枕元のチェストからゴムとローションを取り出して布団の上に投げてくる。腹ばいになったその腰を捕まえて、ローションの蓋を開けた。狭間に垂らしてやる。多めにふりかけた液体はゆっくりと垂れ落ちて、堅く張った陰茎へと伝っていった。
 真田のものをくわえ慣れたそこは呼吸をするようにひくついている。真田はそれを眺めおろし、右の親指を押しつけた。皺のひとつひとつに丁寧に触れてやる。浅く呼吸を繰り返す背中に目を移し、おつらそうですなと声をかけた。も、はやく。はやく? うう、と伊達はうなる。強く親指を押しつけると、そこはやわく口を開けた。節を折り、孔を横に広げると、広げた足の間で陰茎が静かに体液をこぼすのが見えた。……はやく、いれろ、よ。ぐっと親指を中に押し込む。粘膜がいやらしく指に絡む。
 入れましたぞ。ゆっくりと中を広げるように浅く出し入れを繰り返す。枕に突っ伏した伊達はなにも言わない。いやらしい、からだになってしまいましたな。ぐるりと中で指を回す。親指を抜き、人差し指と中指でいいところを撫でてやる。そうしていると、見る間にそこがとけてゆくのが判る。実際、そうだ。伊達はもう前を擦るだけでは達しても物足りないという顔をする。そういう、いやらしい顔で真田を見つめてくる。眉庇の下から雷光とともに真田を睨みつけてきた彼が、そういう表情でなにかを強請るということに背筋の震える思いをする。
 伊達のそこは、ぐちゅぐちゅとあからさまな音をたてて三本の指を飲み込んでいる。淵はぽってりと膨らんで、いかにもであると真田は思う。一つ息を吐いて指を抜き出した。ジャージの中で張っているものを取り出そうとすると、なぜだか伊達はぐったりとしたからだをなんとか動かして布団から出ようとしている。彼が身動きするたびに汗が一すじ二すじ、タオルケットの上に落ちた。……政宗殿、どうなさった。……シャワー、浴びてくる。なにゆえ。萎えた。嘘をおっしゃいますな、そのような有様で。……他のこと考えて上の空のやつと寝るぐらいだったら、やることしか考えてないのと寝る方がよっぽどまし。真田には目もくれず、腰をさすりながら和室を出ていこうとするのを片手で捕まえた。手ひどく振り払われる。汗が散った。しばらく無言でからだを組み合わせる。癖の悪い足が真田の鳩尾に入ったときは思わず舌を打った。薄い肩を畳に押さえつけてマウントポジションをとると、なおも暴れようとするその頬を張った。存外に、大きな音が出た。伊達は目を見開いてその横顔をさらしている。
 それですっかり大人しくなった伊達の足を抱えあげる。からだを二つに折ると、ぐうと伊達はうなった。顔は、交差するように覆った腕で見えない。ぬめるそこに陰茎を押しつけ、一気に中を穿った。
 さすがに声はあげない。だが無理を強かれたからだは痙攣して、いっそ哀れだと真田は思った。その太腿を撫でてやりながら、ゆっくりと腰を揺らす。上半身を落とし、まさむねどのと彼の名前を呼んだ。腕で隠しきれていない顎先に軽く吸いつく。申し訳ありませぬ、まさむねどの。よく言うぜ……。そろそろと解かれた腕が真田の首に回る。ぎゅっと抱き込まれて、彼の頬が耳に当たった。殴ってしまったことは謝りまする、しかし俺はそなた以外のことを考えたことなど一瞬たりとて……。いよいよぎゅうぎゅうと抱きつかれて、息を飲んだ。もういいから、動けよ。
 ゆっくりと体を動かしてゆくと、伊達の息が甘くとける。肩口に熱い息がふきかかった。交差させた足が真田の腰に回って、全身でしがみついてくる様子がかわいらしいとふと思う。……もっと。もっと? もっと、めちゃくちゃにしていい、から。
 大きく息をついて、動きやすいように少しからだをずらす。さらされた彼の喉元にやわく噛みつくと、伊達は面白いほど中を痙攣させた。背中の皮膚を伊達の爪がさらってゆく。熱い息が周りを覆って、エアコンの風などあってないようなものだ。合わせた皮膚はどこもかしこも汗でぬめる。腹から胸にひたひたとてのひらをかぶせ、その下の血流に耳をすませる。……もうずっと、この下の心臓のことしか考えていない。伊達が生きていること、生きて真田に、淡い笑顔を寄越してくれること。己の頬が血で汚れることも、彼の瞬きによって雷光がほとばしることもないが、それはもう遠い昔のことである。真田が彼に対して抱くものはあの頃のような豪火ではなく、夕立のあたたかさに似ている。いずれ俺もすべて忘れるだろう。しかしこれは損なわれることはないと真田は確信している。……切なげに寄せられた眉の間にくちづけた。くすぐったそうに身を捩るのを腕の中に閉じ込めて、ゆっくりと腰を送ってやる。あ、あ、と声をあげるくちびるにそっと触れる。甘い声が真田の名前を呼ぶ。この僥倖。
 ぱた、と真田の汗が伊達の頬に落ちた。それを拭ってやり、真田もまたぎゅっと目を閉じる。こうしてもなお、こころのどこかがしんと冷えている。……それを言うのならば、伊達のほうが不義理であると真田は思う。真夜中、動物園で、あの窓の向こうのけものとなにを話しておるのですか。そんな簡単な問いを、真田はずっと訊けずにいる。

真夜中動物園(110110)