アンタの走るときのフォーム、綺麗だな。あのとき、伊達の第一声はそうだったように思う。伊達は隣のクラスの生徒で、日本史の授業のときにこのクラスに移動してくる。彼らは地理選択で隣のクラスに移動した生徒の、空いた席に各々座る。真田の隣の席はそのために空いていた。……顔を上げると、前髪の奥から伊達の目がじっと真田を覗き込んでくる。強い目だ。なぜだか少しだけ黒目が縦に長い。真田がぎょっとして瞬きを繰り返していると、伊達は小首を傾げた。
 真田は中距離のランナーである。陸上部でも中距離を専門にしているのは真田しかいない。人数の足りないときは長距離種目にも、短距離種目にもかり出された。中距離は瞬発力と持久力、それを常時保つ高い心肺機能を同時に必要とする競技である。部活の時間はひとりで黙々とトラックコースを走る。目に映る景色は単調である。スピードにのると、それらはすぐに形をとかして消えてしまう。耳に入るのは己の息遣いと土を蹴る音と心臓の音だけになる。感覚の閉じた世界では外部の目など気にしたことなどない。……どうも。真田は小さく頭を下げた。隣の席の伊達はニッと笑って、アンタ目立つもんなと言って寄越した。真田がそれに応えられないでいると、じきに日本史の教員が扉を開ける音が教室に響く。
 それから何回か話して、伊達が真田の通学路の途中に住んでいることを知った。真田は隣の市から三十分かけて自転車で通学している。伊達も然りだ。……なぜだか、それから真田の部活の終わるのを伊達が駐輪場で待っているようになった。そうして二人して夕焼けの中を自転車で走る。それはなんの違和感もなく真田の日常にとけ込んでいった。……中学校はどちらで。自転車をこぎながらそう問いかけたことがある。伊達は知らぬ校名を告げた。昔どこかで会い申したか。それは初めて会話したときからずっと真田の思考を占めていたものだった。しかし伊達は顔をくしゃくしゃにして、それはたぶん勘違いだと告げた。
 秋口に、伊達は足を怪我した。体育の授業中にやってしまったらしい。骨に軽いひびが入った程度で、たいしたことはないと伊達は言う。だが彼はそれから自転車ではなくバスを使うようになった。自然、一緒に帰っていたのが反故になる。ならば、と真田は己の自転車の荷台を指差したが、伊達はその様子に目を白黒とさせていた。……部活で疲れてんのに、二ケツなんてできんのかよ。たいしたことではありませぬ。真田が伊達をまねてそう言いきると、伊達はむすっと黙り込んだまま、真田が背負った重たい部活用の鞄を引っ張った。伊達はそれを真田の代わりに背負って、自転車の荷台に腰を下ろす。乳酸のたまった足に力を入れて、ペダルをこぐ。二人分の体重を乗せた自転車はじきにスピードにのってアスファルトの上を走った。
 それから、雪がちらつくようになっても伊達は真田の自転車の荷台から降りようとしない。足はもう完治している。廊下を歩いているのや、真田の自転車から降りて家に入ってゆくのを見ても足を引きずっている様子はない。朝はバスを使い、帰りは真田が部活を終えるのを待っている。伊達は帰宅部だ。遅い時間までなにをしておるのですかと一度訊いたが、伊達は別にと答えるばかりで詳しいことは判らなかった。
 陽は既に西に落ちた。紺色が東から押し迫って、街灯が点灯を始めている。校門から緩やかに続く坂を駆けおりる。途中、傾斜がきつくなるところでだけ、伊達の手が真田の腹に回る。最初は躊躇いがちだったそのてのひらは、今ではぎゅっと真田の汗と埃にまみれたジャージを掴む。そしてそれは坂が終わるころには解かれてしまう。真田の腹の底に、もやもやと泥がまきあがる。
 その泥は、こんなときにも真田の視界を曇らせた。昇降口で待っている伊達を迎えに行った瞬間。お待たせし申したと、白い息を吐きながら中をのぞき込むそのとき。伊達はそういうとき、ぼんやりと真田ではなく真田の少し後ろを見るような目をする。中学までやっていた空手をやめて、高校では陸上部に入ったことを話したとき。真田の時代がかった口調を口の端だけで笑うとき。真田が学ランの下に赤いパーカーを着こんできたのを見たとき。ふとした瞬間に手の甲同士が触れて、熱い、と伊達が口走るとき。そういうとき、その縦に少し長いような目は真に真田を見ない。まきあがった泥は真田の視界を曇らせて、少しだけ神経を逆撫でる。
 自転車はじきにバイパスの交差点に差し掛かる。バイパスは街を抜けると海へ向かう。ここからまた一時間も自転車をこげば潮の香りもかげるだろう。白い息を吐きながら真田はペダルをこぐ。帰り道は、バイパスを横切るように走っている。ハンドルをきってはいけない。
 一度冗談交じりに、このまま走ってみましょうかと口走ったことがあった。バイパス沿いに、海まで。からだは疲れていたがたいしたことはないと真田は思った。車通りの激しい交差点は排気音でかまびすしい。伊達は真田がそう叫ぶのに少しだけ間を置いて、いいぜ、と真田に言って寄越した。そうしてそっと真田の背中に身を寄せてくる。その瞬間、真田の血は沸騰するようだった。外気温の低さはもう気にならない。いいぜ。真田は耳が拾ったその音をもう一度頭の中で反芻した。いつも酸素を全身に送り出しているはずの心臓や肺は機能を失って、真田は喘ぐばかりだった。目の端で青い信号が点滅している。正面で赤い信号が今にも青に変わろうとする。ハンドルを握る手がにわかに汗をふいた。
 軽く真田の背中がタップされる。信号は既に青である。真田ははっとして、ペダルにかけた足に力を込めた。横断歩道を渡る。バイパスを走る車の音はじきに背中に消え去ってゆく。……どうした、という伊達の声がした。なんでもありませぬと真田は答えた。
 生まれは信州で、幼いころは海を見たことがなかった。真田にとっての水とは緑の濃い川面であり、そこに泳ぐ川魚がキラキラと光る様子であった。塩辛い水というのはさぞ恐ろしいものだろうと思った。実際、小学生の頃合宿で訪れた海はぎらぎらと陽を反射し、ぬるぬると真田のからだを撫でていった。
 ペダルをこぎながら伊達にそれを話すと、彼は少し笑ったようだった。今ではもうそんなことはありませんぞ。むっとしながらそう呟く。そうか、アンタ長野出身か。ええ、中学に入るときに、こちらに引っ越しましてな。……そっか、長野か……。
 自転車に乗ったままでは伊達の顔は見えない。だがあのとき、おそらく彼の目は真田を通り越して真田の後ろの、もやもやとした影を見ていた。そういうことを真田は思い出している。
 信号はバイパス方向が青信号であった。ブレーキを握る。地面にスニーカーの足をつく。既にあたりは真っ暗だ。車のヘッドライトやテールライトがちかちかの目の先にちらつく。鼻先を白い息が立ちのぼってゆく。手の甲で鼻の下を擦った。運動を止めた筋肉がにわかに冷えてゆく。冬の海は、あの幼いころ見た夏の海とはやはり違うものだろうか。そう思いながら真田はその方向に首を巡らせる。すると、後ろから伊達の声がする。信号、変わっちまうぜ。視界のはしで、青信号は点滅を始めた。
 ぎょっとして、真田は思わず後ろを振り返った。伊達もまたその点滅する信号を見つめている。そうして真田に視線を合わせた。いいのか、と伊達は言った。なにが、と言おうとした喉はたっぷり震えて掠れた。その間、凍えた耳に入ってくる音はすべて意味をなくしている。海、行かなくていいのか。
 ざあっと波の音がしてあたりの音が戻ってくる。信号が変わって、車が一斉に動き出した。真田も慌ててペダルを踏む足に力を込める。乳酸のたまった足が悲鳴をあげて軋んだ。しっかしさっびいなあ、と伊達は先程とは打って変わって明るい様子で叫んでいる。くっついても構いませんぞと真田が言うと、伊達はおとなしく真田の腹に手を回した。アンタは、冬は重宝するな。そうして笑う様子が背中に響く。その伊達の目は、真実真田を見ているだろうか。寒さに軋むからだの奥底で、なにかがずっといやな音をたてている。しかしそれもじきに、背中から伝わる伊達の体温や、音をたてて血を送り出している己の心臓の脈打つのにまぎれて消えた。

バイパスを行く(110214)