彼の筆名を、藤倉二郎という。処女作が上梓されたのは七年前の冬で、それが某歴史文学賞の最終候補となった。受賞はならなかったが、その年の書店ネットワークが企画する賞の大賞作になっている。以降、雑誌にコンスタントに連載を持ち、それをまとめたものも含め年二、三作は作品を発表し続けている。筆致は精緻。それでありながら時折すさまじい文圧を見せる。モチーフはその全てが中国史か、日本中世以前に限られた。
真田はバスにからだを揺らせながら、膝の上にのせたハードカバーをめくる。藤倉二郎の処女作の初版本である。学生時代に買ったものだ。それ以降幾度となく読み返して、ブックカバーをなんどかけなおしたか知れない。気にいったシーンには付箋が貼りつけられている。天を向ければ何枚もの付箋が突き立っている。
藤倉は、覆面作家である。著者近影に写真が載ったことは一度もない。学歴・職歴・年齢や出身地の類は発表されておらず、著作の折り返しにはそっけなく発表作品が並ぶばかりである。エッセイなどの雑文を雑誌に連載したこともない。一部では女性説、グループ作家説も推された。だが藤倉はそういう噂を尻目に淡々と原稿用紙を埋める作家であった。
ざらりとした書面を撫でて、真田は折っていた首を元に戻した。バスに乗って三十分ほど経つ。最寄駅は北関東の小さな駅であった。その駅で下車したのは真田のみである。秋口のいい日であった。薄い陽が木造の駅舎を照らしている。影とそうでないところの輪郭がやわい。小さなロータリーには軽トラックが一台とまっている。バス停で時刻表を確認する。編集長に手渡されたメモに書かれた住所と、そこまでの行き方は、見るたびに真田の胸を波立たせた。
平日のバスの運行表は隙間のほうが多い。それでも目的地へのバスはあと二十分ほどで到着するようであった。駅舎の傍らに歩み寄り、小銭を三つ押しこむ。大きな音をたてて転がり出たペットボトルを取り出す。キリキリとキャップを捻り、一気に中身の半分まで空にした。いつの間にか軽トラックは走り去ってしまったようだ。人影のない駅前に真田一人である。ネクタイを少し緩めた。
やがてやってきたバスに乗り込んだのも真田一人であった。しかし途中で老婆が一人乗りこんでくる。老婆は運転席に程近い席に座って、その小さな背中を丸めた。真田はガタガタと揺れる車内で鞄の中から一冊の本を取り出す。付箋のはられた本をパラパラとめくっていたら、いつの間にか老婆の姿がない。窓から差し込む陽が少し黄色みを帯びている。車窓から眺める景色は変わりばえなく、畑と稲の刈り取られた田圃が続く。バスは時折ワンボックスカーや軽トラックとすれ違った。信号に引っかかることも少ない。真田はメモに書かれたバス停の名前を確認する。運転手のアナウンスはまだそれを読みあげてはいないはずだった。列車に乗る前に道のりを検索したときは、バスで五十分と表示されたはずである。
デビュー以来淡々と小説のみを発表し続けている藤倉に、エッセイの連載を取りつけるというのが今回の真田の使命であった。真田の勤めているのは中堅の出版社で、そこで文芸誌の編集の職についている。藤倉二郎に連載を、というはなしを聞いたときは正直嬉しかった。学生時代からずっと好きな作家である。その作品に一番に触れられる。胸が波打つ。しかし編集長の次の言葉が真田の喉をつまらせた。エッセイ。無理で、と言おうとした真田の目の前で、企画書が叩きつけられた。いいから挨拶に行ってこい。びくっと背筋を正して、いそいそと企画書を鞄の中にしまいこんだ。
気が重いのと、藤倉に会えるという水と油の混ざったようなこころもちである。ガタガタとバスが揺れる。真田はペットボトルを傾けた。すっかり温くなった緑茶が喉を滑り落ちてゆく。もう一度彼の本を開く。冒頭の文章は暗記している。曰く、槍から滴る血がすっかり乾いてしまったころであった。
ぞくぞくと背筋が震える。真田は震えるくちびるからゆっくりと息を吐いて、てのひらでそこを押さえた。そうでなければ鬨の声をあげてしまいそうになる。藤倉の文章は、有体に言えば真田の腹の底にある泥を簡単にまきあがらせた。血のにおい、硝煙、土けぶり、足裏が肉の塊を踏むその感触、己の槍が甲冑の隙間をぬって肉を貫く、頬にかかる返り血の温さ。今生に於いては、味わうことのない五感を藤倉の文章は見事に真田の中から引きずり出して目の前に並べてみせる。口元を押さえたまま、真田は大きく息をする。胸を喘がせ、かたく目をつぶった。背もたれに頭を預ける。瞼が赤い。それは血のためではなく、バス内の照明のためである。そう自分に言い聞かせ、真田はゆっくりと目を開ける。口元からてのひらを外す。バスには学生服を着た男子生徒がふたり、いつの間にか乗車していた。大きな鞄を膝の上に置いて、坊主頭を揺らせている。まだ昼の早い時間である。テスト週間かなにかなのだろうかと真田は思う。
やがて運転手が次のバス停名を告げた。真田の手元のメモに目を落とす。間違いない。腕を伸ばして降車ボタンを押した。掲示板に目を凝らし、財布から何枚か小銭を取り出す。てのひらでチャリチャリと小銭を揺らせ、だんだんと温度の同化する感触に目を細める。じきにバスが停車する。運転手に頭を下げて小銭を機械に投下する。砂煙をあげてバスが走り去ってゆく。バス停から歩いて十五分。メモに書かれた文字をじっと睨みつける。大きな楠の立っている、茶色の屋根。真田の見る限り、道の両脇に民家は四軒ほどしかない。ほとんどが畑である。楠……。ぼそりと呟いて、真田は革靴を鳴らせた。一番遠くにある茶色い屋根がそれであろうと思われた。緩めたネクタイを締め直す。茶色い屋根が近づいてくるのに合わせて、身だしなみを簡単に整える。名刺入れを内ポケットに入れ直す。腕時計で時刻を確認し、約束の時間の三十分前であるのを確かめた。少々早いが、時間潰せるようなものがある場所でもない。少し歩みを緩める。心臓が波打つ。
藤倉の家は、茶色い屋根の小さな平屋であった。裏手に大きな楠がたっている。首を折らないとてっぺんが見えない大きな木である。きょろきょろと見渡すが、表札はなかった。玄関脇の呼び鈴を押す。時代錯誤な大きなブザー音が響き渡る。びっくりしてぱっと指をはなした。息を飲む。じきに、奥からばたばたと足音がする。真田は一つ唾を飲み込む。玄関の引き戸がガラガラと音をたてて開かれる。その瞬間、鼻先をかすめたにおいを、真田は知っている、と思った。桔梗鼠の着物が目の先にひらめく。どちらさま、と紡がれたくちびるから鼻先、揺れる前髪の奥の左目。まさむねどの、と思わず真田は呟いた。しかしそのひとは小首を傾げて、もう一度どちらさまと繰り返すばかりである。眼鏡の奥の左目はぱちぱちと不審げに瞬きを繰り返して、真田はそれを見ながら鞄を持つ左手に力を込めた。もう暗記している彼の本の冒頭の文章がちかちかと頭の中でまたたく。曰く、槍から滴る血がすっかり乾いてしまったころであった。文字よりなにより恐ろしくすさまじいものがぶつかってくる。どちらさまと言ってくる彼の声の色とともに、それは真田の腹をかきまわしていっとき動けなくしてしまう。
車窓にて血煙り(110625)