来たな、と長曾我部が言い、業の深い男よ、と徳川が言った。校門前、吹きだまりに散った桜の花びらが渦を作っている。上空は風が強く、まばたきする間に雲がその形を変えて流れ去った。真田は視界を遮る己の髪を鬱陶しく思いながら、お久しぶりにございますと舌に乗せる。会ったこともねえくせによ、と眉間にしわを寄せながら長曾我部が言い、徳川がハッハと笑った。お前の国は少し遠すぎたな。そう言って笑った。
 さて、と徳川は笑みを刻んだ顔を引き締め、真田に向き直る。もう知っておろうが、と切り出すその内容を、真田はくちびるを引き結びながらこころうちに刻みなおした。すべて己の所業である。長曾我部が嫌な顔をするのも無理はないだろう。徳川の話が終わるのを待ち、真田はご健勝であられますかと切り出した。十六年待った。あの世界で生きた分である。はやる心臓に、静まれ鎮まれと念じながら、長曾我部がちらと真田の後ろに目をやるのを見つめた。お前の目で確かめろ。言い捨てて二人は踵を返す。遠くなってゆく背中を見送り、真田は背後を振り返った。校舎の方から男子生徒が一人こちらに歩いてくる。新一年生の入学式を明日に控え、新二年生の有志で準備が行われていた。講堂から、マイクテストの音声が流れてくる。次いで、パイプ椅子をがたがたと並べる音、何人かの足音。真田はそれらを遠くに聞きながら、歩いてくる男子生徒の様子に目を凝らした。肩につくかつかないかの黒い髪が風に踊るのを手で押さえている。いっとき、空を見あげたその輪郭が真田のこころをとらえた。つられて視線をやったそこにひどく大きな雲が盛り上がっている。
 そうして男子生徒が目を戻したそのとき、絶えず動いていた足が止まった。彼もまた真田に気づいた様子である。真田は一つ深呼吸をし、一歩を踏み出した。その途端、彼の体がびくりと震える。タンタンタン、とリズムよく足を運ぶ。もう目の前である。なにか声を、と口を開いたが結局なにも出てきはしなかった。背丈は同じぐらいである。向こうでは真田の方がいくらか低かったように思う。同じ高さの目線で見つめる彼の顔は、いくらも変わっておらぬように思える。ただ一つ違うところといえば、ごつい刀の鍔で覆われていた右目が今は白い眼帯で覆われていることであろうか。彼の顔は強張ったままである。真田は乱れた呼吸のまま、政宗殿、とようやく呼びかけた。そう彼の名前を口にした途端、彼にまつわるいろんな記憶やらなにやらが胸の内で溢れかえって、真田は叫びだしそうになった。どうしたって手放せるものではなかった。例え人一人の人生を狂わせるものだとしてもだ。
 お前、覚えてるのか。震える声で伊達はそう応じた。勿論にございます。なんとかそう口にして、真田は目を細めた。その様子が笑ったように見えたろうか。伊達は心底安心したように、そうか、覚えてるのか、お前、と言う。俯いた顔の様子は長い前髪に隠れてはいたが真田は今伊達がどんな顔でいるかが手に取るように判った。思わず手を伸ばしてしまう。両手で彼の頬を押さえて上向けた。今にも泣きそうにしていた。一度も会わずにお前のことを忘れていくのかと。そう震える声で告げて、真田のてのひらに頬を擦りつけてくる。そんな幼いとも言えるような彼の仕草の一つ一つが無駄に真田の胸を打った。ここはあの戦乱の世界ではないのだ。己のてのひらは二本の槍を持たず、炎すら出ぬ。彼とてそうであろう。伊達はもう、一国をまとめる城主でもなければ雷刃の使い手ですらない。頬に当てていたてのひらを剥がして、伊達の背中にまわした。伊達がなにも言わぬのでぎゅうぎゅうと力をこめて抱きすくめるが、そのうち腕の中で放せ放せと暴れだす。お前、なんてことしやがるんだ。まなじりをきつくして睨みつけてくるので、真田は口元を緩めて笑ってみせた。それがしの気持ちはずっと変わっておりませぬ故。すると、伊達ははっとした顔で真田を見つめ返してくる。
 徳川と長曾我部は、伊達の前ではなにも知らぬふうを装っているらしい。それを伊達はあの二人はもう全て忘れてしまったのだと思っている。校門から続く桜並木を二人で歩きながら、真田はそう訥々と語り続ける伊達の、足の爪先を見ている。彼らは監査役である。真田が伊達に対して下手なことをしないように監視している。そう真田は認識している。実のところ、彼らが向こうでのことをすべて覚えているのか、彼らがその役目を終えたあとどうなるのかは真田が一切触れるところではない。……お前は、まだ全部覚えてるか。目を眇めてそう尋ねられ、真田は無言で首を振った。それは事実である。伊達に関すること以外のほとんどの記憶は、端のほうから少しずつ蝕まれ始めていた。映像記憶とて同じである。セピア色からモノクロームに変じつつある。かの人の陣羽織の色は今でも鮮明に思い出せるというのに。……しばらく並木道を歩き、橋を渡って市街地へと向かう。まだ休暇の終わっていない幼いこどもらが、伊達の真田の足元をきゃっきゃっと騒ぎながらすりぬけていった。
 しばらく世間話に興じ話題も枯れ果てたころ、もうあんなこと言うなよと伊達は告げて真田の後頭部をはたいた。緩く笑んだ口元。あんなこと、とは。俺のことを、慕っているとか、なんとか。なぜ。そうすると、伊達は一瞬、なにもかも削ぎ落としたように無表情になり、次の瞬間目つきをきつくして真田を睨んだ。どうせ、忘れちまうのにか。伊達の爪先がぴたりと止まった。四つ辻である。遠くの空で風の唸る音がした。後ろからさしている陽光はうなじを焼くほどに温かいというのに、この伊達の目の寒そうなこととといったらない。真田は口元を緩めて笑った。申し訳ないと思うのに、この人のその目を前にしてはそうするしかできなかった。
 この先伊達はこちらに生まれてからの、お主の記憶すらあやふやになってしまうだろうと徳川は言った。向こうでの伊達の記憶を手放したくないと願った、それがお前への報いだと長曾我部は言った。早くて初冬と徳川が言い、遅くて年末と長曾我部が言った。来年の春には、伊達は真田を認識しなくなってしまっているかもしれない。長曾我部は眉根をきつくし、ふざけた野郎だと真田を罵る。どうとでもおっしゃるがいい。滑らかな口上は、これまでに幾度となく己の心内で繰り返した言葉に違いはなかった。それでも俺はあの方のすべてが欲しゅうございますゆえ。耳元で豪風が唸りを上げている。春嵐である。

廻れ廻れ 春(090309)