コインランドリーはマンションの一階にあって、真田はそこの管理をマンションの持ち主である義父からおおせつかっている。営業は午前八時から午後十時まで。時間は正確なものではない。大学にいく前の少しの時間に階下に降りてコインランドリーの施錠を解除し、機械と石鹸の自販機などのチェックをする。夜は十時を幾分か過ぎたころに簡単な掃除をし、忘れ物はないか確かめ、また施錠をする。……彼が白い息を吐きながらガラスのはめ込まれた戸口を開いたのは十時をちょうど回ったときだった。……まだ、いいっすか。ダウンジャケットを着た肩が上下している。真田は忘れ物はないか洗濯機の中を覗き込んでいたところで、ぎょっとして肩を強張らせた。重い洗濯ものを入れているのだろう不織布の鞄がきつく肩に食い込んでいる。真田は思わずああ、と間抜けな声を出し、構いませぬと頷いた。青年はそれを聞いてありがとうございますと小さく会釈をし、洗濯物を乾燥機に押し込んでいる。
近くに住んでいるのだろう。週末の日曜日、朝の九時半ごろにコインランドリーの扉をくぐるのを、頭上、マンションのベランダからなんども見ている。真田も、冬場はここの乾燥機を利用しているのでなんどか戸口ですれ違ったことがあった。そうだ、と真田は思う。彼は静電気のたまりやすい体質なのか、すれ違いざまにバチリとなったことがある。そのときの彼の顔といったらなかった。前髪の向こうの目を真ん丸に見開いて静電気の走った手の甲を持ち上げている。そうしてすんませんと低い声で真田に言って寄越す。
忘れ物のチェックを終え、灰皿とゴミ箱の中身を改める。ゴミ袋を入口近くにまで持っていき、戸口を開ける。冷たい空気が頬にぶつかって、思わず肩をすくめる。彼はプラスチック製の丸椅子に腰をおろして、ぐるぐると回る乾燥機をじっと見つめている。蛍光灯に照らされた右の頬の白さが際立つようである。真田はそれを見つめながら、コインランドリーの表に設置された自販機の前に立つ。百円玉を三つ押し込む。微糖のコーヒーを二本取り出す。おつりのレバーを引き、十円玉をデニムの後ろポケットに押し込む。缶を片手に持って戸口を開く。
缶コーヒーを彼の鼻先で揺らすと、彼はぎょっとして左目で真田を見上げてきた。小さく頭だけで会釈を返してくる。どうも、と言う声は掠れて、コンクリートの床の上にパラパラと散った。彼が缶コーヒーに手を伸ばした瞬間、バチッと静電気が走る。思わず手をひっこめ、缶はコンクリートの上に転がった。乾燥機が起動している他はしんと静まった店内に音は異様に大きく響いて、真田はしばらく転がった缶の行方を見つめていた。彼も同じ様子である。
……申し訳ありませぬ。真田は慌てて自分の分の缶コーヒーをテーブルの上に置いた。転がった缶を追いかけて拾いあげる。軽く埃をはたいてプルトップを押し上げた。顔を上げると、彼はびっくりした顔で真田を見つめている。……そっち、構いませんよ。テーブルの上の缶を指差すと、彼は幾度か瞬きを繰り返しながら缶に手を伸ばした。
乾燥機の前に座っている彼の、テーブルを挟んだ向こうに椅子を持ってきて座る。ゴウンゴウンと乾燥機は大きくうなりを上げている。しばらく二人してその音を聞きながらコーヒーをすすっていた。乾燥機に表示された数字はあと十分を示している。彼は飲み終わった缶をてのひらで遊ばせながら、ちらちらと左目に真田を映した。……アンタが、管理人さん?ええ。結構、若い。まだ大学生ゆえ。へえ。俺も、と彼は言った。もう空のはずの缶を口の上で傾ける。俺も大学、二年。ああ、では同じでござる。
会話はそこで途切れた。ゴウンゴウンという音が沈黙の間を埋めて、喉のあたりまで溜まってきている。表示はあと一分。ぐるぐると回る乾燥機を二人してじっと見つめている。やがて表示がクールダウンに切り替わり、伊達は缶をテーブルの上に置く。隅のほうからキャスター付きの籠を転がしてきて、乾燥機の前に置く。ピーピーとアラームの鳴るのに合わせて乾燥機の扉を開き、中の洗濯ものを籠に広げた鞄の中に落としこんでゆく。真田はその後ろ姿を見ながら、彼の置いていった空の缶を持ち上げた。入口近くのゴミ袋にそれを回収し、袋の口を縛りなおす。
鞄を肩にかけた彼は真田を振り返って、どうもすんませんでしたと頭を下げた。そうしてテーブルの上に缶のないのを見つけて、あっという顔をする。カーゴパンツの後ろを探り、ポケットから小銭を三枚取り出した。これ、コーヒー代。
小銭を受け取りしな、また彼の指先がバチッと鳴った。思わず手をひっこめるとお約束のように小銭がコンクリートの上に散らばる。慌てて二人してしゃがみこんで小銭を集めた。ダウンジャケットの彼の肩が小さく揺れている。拾った百円玉を真田のてのひらに渡しながら、彼は前髪の向こうでくちびるを緩ませている。
……青いダウンジャケットの背中が暗い夜道の向こうに消えてゆくのを見つめながら、真田はコインランドリーの施錠をする。ゴミ袋を両手に下げ、白い息が口から立ち上るのに瞬きをする。そういえば彼の名前を聞かなかったが、そういうものよりなにより指先に走った静電気の痛みのほうがよほど鮮明であろう。人差し指の腹を親指で擦りながら、真田は寒い夜の底でそう考えている。
夜底で会うひと(110625)