大学のオリエンテーションを終えると昼を少し過ぎたころである。食堂は開いているというから、そこで食べて帰ろうと思う。講堂からの石畳を新調したばかりのスニーカーで踏む。講堂のある敷地と文系棟がある敷地の間には道路が通っている。横断歩道を渡り、緑陰に入り込む。藤棚や並木が影を作るように配置されている。ベンチの上で野良猫があくびをした。足元は白と灰色のモザイクから赤茶のレンガへと変わる。緑を通した陽差しはまばらに真田の足元を染めた。道路を挟んだ講堂と向き合うようにして図書館が建っている。池の水は濁っていたが、赤と白の鯉が何匹か背びれをくねらせていた。
真田と同じように食堂を目指すひとの群れがぞろぞろとレンガの上を歩いている。皆同じように、先程配布された大学構内図を手に持っていた。図書館の横のT字路を左に曲がる。右手に教養棟があり、左手の建物は文学部の建物である。そのつきあたりに食堂がある。緩やかな坂になっており、そこに向かう学生の頭を見下ろす格好になる。真田は背負ったリュックの紐を少し直す。早足になるのは坂のためばかりではなさそうである。
食堂はにぎわっていた。壁に沿って並んでいるのを辿ってゆくと、向こうのほうにカウンターがあるのが見える。並んだのは五分程度だった。トレイを持ち、ねぎとろ丼大盛を注文する。じきに丼がトレイの上に置かれる。総菜の棚から味噌汁と漬物、根菜の煮付けを選び取ってレジに並んだ。液晶に表示された数字は六百円に届かない。小銭を選び取るのに少し焦る。肩にかけたリュックの紐を直す。……窓際のテーブルが空いていた。
塗り箸を親指に挟んで両手を合わせる。味噌汁を一口吸いこんで、少し味が濃い、と思う。向かいの椅子が引かれる。気にせずにねぎとろ丼に手をつけていると、無視すんなと言われた。肩を揺らせて目を上げると、伊達がカツカレーを前に真田を睨みつけている。カレー皿には福神漬けが山盛りになっていて、真田はそれをまじまじと見つめてしまう。……それ、ただで? ひとの話聞け馬鹿、……福神漬けはセルフ。
数日ぶりに会う伊達は髪を切っていた。後ろはうなじにかかるぐらい、前髪は長く伸ばしたのを右目の眼帯に寄せるように流していたのが、すっきりと短くなっている。眉毛の上で揃えられた前髪が跳ねた。右目の眼帯もない。黒縁の眼鏡の下、右目があらわになっている。真田はパチパチと瞬きをしながら伊達の顔を見つめた。視線が刺さるのか、伊達は眉根を寄せてカツカレーを口に運んでいる。……大学デビューと言うやつですな。そう呟くと、テーブルの下の脛を思い切り蹴られた。思わず味噌汁を吹く。
昼を食べ終わり、連れ立って食堂を出た。伊達の足元のスニーカーも、新しいローテクのコンバースであった。緑地に、靴ひもにはオレンジの星柄が散った。問いかけに特に用はないと応えると、んじゃうち行くかと言ってくる。最寄りの駅まで十分ほどの道のりを歩く。地下鉄のカードを改札に通す。伊達はカードを持っていないのか、券売機に寄っていた。大学が始まる前に定期券を購入せねばな、と真田は伊達を待ちながら思う。
伊達と真田は高校三年で同じクラスになった。それまではお互いに存在は知っていたが、触れ合う機会を逸していた。幸運にもそのクラスにはさ行の男子生徒は真田しかいなかった。名簿順に並ぶ席では前後になる。席に着きしな、後ろを振り返ると白い眼帯と目つきの悪い左目が重たい前髪から覗く。伊達殿?と呼びかけた。伊達は真田をひと目見て、ふいと視線をそらす。なるほど、あのころのことを知らぬのであろうと真田は思った。少し寂しかったが、それも仕方ない。
大学から家までは地下鉄と私鉄を乗り継ぐ。伊達の最寄駅は真田の最寄の二つ手前であった。一時間ほど列車に揺られる。平日昼間の私鉄にほとんどひとは乗っていない。カーテンの引かれていない窓から差し込んだ陽が、列車の床を柔らかに切り取っている。隣同士ではなく、向かい合うように座席に座った。茶色のカーゴパンツに包まれた足が通路に伸びる。オレンジの靴紐が少し解けかかっている。伊達の背後の窓から白い陽が覗く。短い髪がそれにキラキラと光る。真田はそれを眩しいと思う。目を伏せてプレイヤーの音楽を聞いている伊達の指が、ホイールに沿ってくるくると動いた。真田もまたプレイヤーを取り出してカナル式のイヤホンを耳に押し込む。再生ボタンを押す。この中には、伊達がこれ聞けと言って寄越したアルバムが何枚か納められている。
切符を確認する車掌を見送る。正面で伊達は携帯電話をいじっている。真田もまた携帯で時間を確認する。駅に停車していた列車がゆっくりと動き始める。川を横切り、まだ田植えのされていない田圃を行く。列車のスピードはだんだんと上がってゆくが、次の停車駅の手前に大きな上り坂がある。スピードは重力と拮抗する。伊達は耳からイヤホンを抜き出した。真田もそれに倣い、プレイヤーにコードをくるくると巻きつける。プラットホームは地上の高い位置に設置されている。扉からホームにおり、中央の階段から地上の改札に降りる。
駅前のコンビニで雑誌と炭酸飲料とスナック菓子、アメリカンドッグを買い求めた。レジのバイトがアメリカンドッグの袋を別にしようとするのを制して、そのまま受け取る。ふたりでそれに齧りつきながら伊達の家までの道を歩く。大通りを少し行って、横にそれる。通りから一本違えればそこは住宅街で、小さな路地が細かく入り組んでいる。真田はこれまで一度も、迷わずに伊達の家に辿り着いたためしがない。新興で作られた住宅ではなく、伊達の家は昔からそこに建てられたというていである。大きくとられた庭には緑が繁茂して鮮やかだ。群青の瓦が鈍く陽を反射する。
伊達の足は石畳で作られた道を行かず、庭を横切る。左奥に離れが設えてあり、伊達の私室はそこにあった。お邪魔しますると一言呟き、庭石にスニーカーを脱ぐ。ガラス戸の開かれた縁側にのぼる。少し変色した障子から柔らかな陽が差し込む。畳の上のテーブルにコンビニの袋を置き、伊達はTシャツの上に羽織ったパーカーを脱いだ。
小さな液晶テレビのスイッチが押される。もうそのテレビにアナログとは表示されていない。ワイドショーで賑わうのを避けるようにチャンネルがザッピングされる。結局、二時間ドラマに落ち着いた。炭酸飲料のキャップが音をたてて捻られる。一気に三分の一まで飲み干して、ふたりして息をついた。伊達は右手で眼鏡の下の左目を擦っている。……度は? 入ってねえ。伊達殿が伊達眼鏡でござるか。……アンタ、死にてえの?
はは、と笑ってやり過ごす。フレームに切り取られた奥の目が真田を睨みつけた。少し落ち着かない。これまでずっと眼帯の下に秘匿されていたはずの右目が薄く覗いている。右目は……。ほとんど見えねえけど。はあ、なるほど。ペットボトルをテーブルに置き、そっと伊達に膝を寄せる。伊達がぐっと顎を引くのに構わずその眼鏡の奥を覗き込んだ。瞼の下の眼球が真田を映す。そこにそれは残っている。ほう、と息をつく。思わず手を伸ばしてその眼鏡を外した。短くなった前髪の下に、戸惑うように目が揺れる。……あのころは、眼球ごと失ってしまわれたと聞いていたので、……ああ、それならば、ようござった。
ゆっくりと噛みしめるようにそう言うと、あのころ?と伊達が呟く。そうしてみるみるうちに目を丸くさせた。アンタ、覚えてるのか……。呆然と呟いてくるのに、真田もまたハッとする。そうして、ふたりして吹きだした。覚えているのならばそう言えと伊達は真田の髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。伊達に羽交い締めにされて息が苦しい。そうしてそのかっこうのまま、手の中に納めた眼鏡をそっと握りしめた。……あのとき、俺は一度もそなたの鎧を剥がすことはかなわなんだが……。
真田がそう呟くのに、伊達がなにか言ったかと問いかける。真田は無言で首を振って、苦しゅうござると言って寄越した。伊達の心臓がどくどくと音をたてているのを聞くのはこれが初めてであると、今更ではあるがそう思った。
レンズ一枚(110625)