真田は走っている。深い夜である。全速力で走っているために視界に広がる景色は流動体となってしまって、確かにその輪郭を捉えられない。ぶつかる風で目が乾く。瞬きを二つした。はっはっと息をする音が規則正しく耳に流れ込む。足の裏が踏みしめているのは、綺麗に舗装されたアスファルトであったり小石の転がる砂利道であったりする。着ているものも、パーカーとカーゴパンツにスニーカーであったり、臙脂の小袖と袴であったりする。景色と同じく輪郭は曖昧である。確かなことは、今自分が酔っ払っているということだけだ。
 確か今日はサークルかなにかの飲み会だった、とパーカーを着た真田は考える。アスファルトはかたくスニーカーの足裏を跳ね返してくる。先を行く街灯のあかりはだんだんとまばらになってゆく。日付をこえて随分経った。繁華街で行われた店から真田のアパートまでは地下鉄で五つ駅をこさなければならない。店を抜け出したときには、すでに終電の時間を回っていた。
 時間制限のない居酒屋のテーブルの上は既に酒のジョッキとグラスで溢れていた。ボトルで入れた焼酎の残りももう少ない。灰皿には吸い殻がうずたかく盛られて、店の隅の座敷は薄くけぶっていた。開始直後にはいたはずのおんなのこの姿はもうほとんどなく、それとペアを作るように男子学生の姿も一人二人と消えていった。真田は隅のほうでひとり、泡の消えて温くなったビールをすすっている。己のビールかどうかさえ怪しかった。その中身が無くなればまぶたを薄く開けてテーブルの上を睨み、飲みかけの酒に手を伸ばす。そういうことをなんどか繰り返していた。
 隣に座っているのは、先程から酒には手をつけていない。テーブルには煙草のパッケージがふたつ積まれていて、上に置かれたほうももう残りが少なかった。この男の名前はなんだったか、と真田は考える。無造作にはねさせた髪はもうつやを失っていて、真田はそれが少し惜しいと思う。そういうことにぐるぐると頭を回転させていると、ふうっと顔に煙を吹きかけられた。正面から見る男の顔は非対称である。流した前髪で、右目は見えない。左目だけがぎらぎらと真田を覗き込んでくる。眠いか、と男が訊いてくる。真田は首を振る。男はテーブルの上を見渡して、まだ中身が半分ほど残っている茶色のグラスを真田のほうに寄せた。くん、と鼻を近づける。口に含むと炭酸の消えたコーラの味のあとにラムのにおいが鼻に抜けた。
 まさむね。確か男はそう呼ばれていた、と真田はようやく思い出した。まさむねどの。そうして舌にのせてみる。男は呼ばれて真田に視線を寄越し、真田がそれ以上口を開かないのを見ると眉をひそめて首を元に戻した。酔っ払ってやがる。そう小さく呟くのが聞こえた。酔っておりませぬ。酔っ払ってるやつは決まってそう言うもんだ。その指先が短くなった煙草を灰皿に押し付ける。パッケージの中身を覗き込んで、その残った一本を摘みだした。とんとんと箱の上で煙草が跳ねる。フィルタが彼のくちびるに吸い込まれて、ライタがシュボと音をたてる。深く煙を吸い込んだあと、すぼめたくちびるから細く細く紫煙が吐き出される。真田はその白いのがゆらゆらと天井に昇ってゆくのをぼんやりと見つめている。
 これ吸い終わったら、出るぞ。男はそう小さく呟いた。真田は無言でうなずき、目の前の酒を嚥下する。甘ったるいコーラが喉に貼りついて少し噎せた。隣で男が少し笑う。気の抜けたラムコークなんてよく飲めるな。男が真田に寄越したくせに、そんなことを言って笑う。真田はむっとくちびるを尖らせて、グラスの底に残ったラムコークを含んだ。頬を膨らませたまま男の肩を掴む。もう片方の手で煙草をそのくちびるから抜き取って、顔を近づけた。男は左目を白黒させている。その喉がゆっくりと動く。男の口の中は煙草の味がした。あまり好きなものではない。
 うげ、とラムコークを嚥下した男が喉から嫌な音を出した。甘い。真田はそれを横目に、男から取り上げた煙草を少し吸ってみる。口の中に煙を含んだだけで、真田はたちまち顔をしかめた。喉が首を振っている。肺に入れるようなものではない。真田は顔をしかめながら、男のくちびるに煙草を押しこんでやる。男は仏頂面のまま煙を吸って吐いてを繰り返した。細長い紙巻きをくわえているくちびるが、少し濡れているのがいい、と真田はぼんやりと思う。もう一度顔を近づけると、伊達は顔をしかめさせたまま、おいやめろと呟いた。誰も見ておりませんぞ。そういう問題じゃねえよ。事実店に残っているのはもうほとんどつぶれているか、隅のほうで管を巻いているのかのどちらかだ。そろそろおひらきになるだろう。
 やめろと言うが、男はさしたる抵抗もしなかった。コーラの味が残っている舌を彼の口の中に突っ込む。ん、と喉が鳴る。さんざ擦り合わせたあと、彼の、少し赤くなったしたくちびるに吸いついた。しつこくそこをいじっていると、間近で男の瞼が震える。真田の後ろ髪を力任せに引っ張って、彼はヘタクソと呟いた。
 こうするんだ、と彼は言った。目を白黒とさせている真田に覆いかぶさって、伊達は真田の首に蛇を絡ませてくる。後ろの髪をくしゃくしゃとかき混ぜて、濁り酒で濡れたくちびるをのせてきた。彼の体重に押されるようにして真田は板間に背をつけてしまう。ばたばたと腕を床に暴れさせるが、のしかかる伊達は石のように重く真田のからだを縫いとめた。
 真田も酔っているが、伊達も相当酔っているに違いなかった。一刻程前に空にした樽酒は真田が持ち寄ったもので、それも随分と辛いものだったが、伊達が持ってきた濁り酒も相当なものだった。それももうほとんど空になってしまった。彼の舌は酒精をのせて熱い。熱心に真田のを吸っては、吐きだす息で肌を湿らせた。ん、ん、と喉を鳴らせている。ふとゴソゴソと身動きしたかと思うと、膝があらぬところに押し当てられて真田は慌てた。少しはなしたくちびるから、ふ、と息が漏れる。嬉しそうな音を乗せていやらしい。まだ、大丈夫そうだな。そう耳元で囁かれた。その意を解した途端、かっとからだが熱くなる。くちびるを引き結んで、のしかかってくる伊達のからだを押し返した。
 戦場以外でこうして落ち合うのはこれまでに片手の数ほどしかなかった。酒や食い物を持ち寄り、国境近くの寺や山庵でこうして身を寄せる。手合わせ程度に刃を向かい合わせ、疲れたらば川の水で足を冷やし、囲炉裏の炎でてのひらを暖めた。
 密やかな、というと語弊がある。真田はそもそも作法を知らぬ。恋など上方の、貴族の遊びだと思っていた。その人と会って、隣に座り、はなしをすること以外になにをすればいいのか判らぬ。指の先までじわじわとあたたまるのが心地よいような、そういう思いでいた。
 その日も囲炉裏に向かい合って座し、鍋を温める炎に額をあたためていた。つまみに持ってきた川魚の佃煮はもう残り少ない。日が暮れて久しかった。どれほどのものか、真田にはもう判らなかった。心地よい酩酊感が後頭部のあたりを覆って、ああ、このまま横になってしまいたいとそう思う。
 酔ったか、と伊達が言った。酔っておりませぬと真田は返した。酔っぱらいは決まってそう言うもんだ。そうして伊達は素焼きの杯を傾けた。傍らの酒瓶を傾ける。そうして、そこから一滴も落ちてこないのにくちびるを尖らせた。……なくなっちまった。板間にころころと転がってゆくのを目で追っていると、いつの間にか伊達のからだが真田の隣にある。ぎょっとして身を引くと、その分だけ距離を詰められた。その向こうにある樽酒に手を伸ばしてくる。胡座をかいた真田のからだに覆い被さるようにしてくるので、目を見張った。うなじに散った後ろ髪だとか、真田の膝についたひだりてのひらの強さ、炎であぶられた懐かしいにおいと、髪に染んだ煙草のにおい。
 思わず息をのんで後ろに手を突いた。その反応は、過剰だったかもしれない。伊達は樽酒を持ったまま、にやんとくちびるを緩ませた。どうした。どうもいたしませぬ。酔ったか。伊達殿の方が、よっぽど酔っておられまする。馬鹿言うな、一言言い捨てて伊達は樽酒に直に口を付けた。ほら、酔ってねえ。
 はくはくと胸で息を繰り返し、重たくのしかかってくる伊達のからだを受け止めた。触れてくる肌の熱さよ!伊達は真田の喉元に額をすりつけるようにしていたが、そろそろとその首をあげた。恐ろしい顔をしている。つばきを一つ飲み込んだ。ぎらぎらと目ばかり光らせている。思わず身動きしたそのとき、伊達もまたある目的のために動いた。そのためである。がちんと互いの歯がかちあって、くちびるが少し切れた。口を押さえながら、ヘタクソと伊達が呟いた。
 煙草はやめたほうがようござるな。居酒屋の前、携帯電話で時刻を確認しながら真田はそう言い放った。隣を歩きながら男は仏頂面のままだ。真田の言をきちんと聞いていたかしれない。念を押すようにもう一度ゆっくりと告げると、……馬鹿言うな、我慢しろ、そう早口で言って寄越した。煙が真田の顔に吹きかけられる。そのすぼめたくちびるは切れてしまっていて、血がてらてらとひかる。つやのなくなった髪と同じように、それを惜しいと思う。思うが、なぜだか背筋が震える。
 あんたんち、どこ。……***駅。終電、もうないぜ。走って帰りまする。男はぎょっと目を見開いて、次の瞬間ハッハッと笑いだした。俺んちはここから歩いて十分ぐらいなんだけど。目を細めて真田を見つめてくる、その様子に真田ははっと息をのむ。そうして、気取られぬように口の中にたまった唾を飲み込んだ。……走って、帰りまする。ようやくそう告げて目を落とすと、すすけた街灯の明かりにスニーカーの靴紐がほどけかかっている。うずくまってそれを結びなおした。膝で胃が押されて、少しえづく。大きく息をして、鼻をすすり上げた。それでは。立ち上がって視界におさめた男は少し呆れたような、困ったような表情である。短くなった煙草を足の裏で消した。その手を振ってくる。それでは、と真田はもう一度言った。言って、きびすを返す。トットッと靴をアスファルトで鳴らし、足を回転させ始める。短く息を肺から押し出しながらからだをスピードに乗せる。一度、振り返った。居酒屋の前、街灯の下に男の姿はもうなかった。
 おそろしい、と真田は思う。裸の足は夜に冷えた黒土を踏みしめて痛む。全身にびっしょりと汗をかいている。虫の音以外に音のない夜で、己の心臓の音がひどく大きい。短く息を押し出し、時折口の中にたまったつばきをのどの奥に押し込む。えづく。胃がぐうっとせり上がって、これはいけない、と真田は思う。木に腕をやって口を大きく開けた。びちゃびちゃと胃の中のものが吐き出される。酸い胃の腑の液が喉を焼いて痛い。くちびるを手の甲で拭って、もう一度走り出す。少なくともこの心臓の音がやむまでは走らねばならぬ。そう思う。しかし夜闇に、身を寄せてくる伊達の目がちらちらと光るような気さえしてそれがひどく恐ろしい。
 ……真田は走っている。しんと冷えた、深い夜である。緊張と弛緩を絶えず繰り返す筋肉は常に熱を発している。燃えるようだ。これは己の御せる炎ではない。ぶつかる風で目が乾き、瞬きを二つした。ハッハッと息をする音が規則正しく耳に流れ込む。足の裏が踏みしめているのは、綺麗に舗装されたアスファルトであったり小石の転がる砂利道であったりする。着ているものも、パーカーとカーゴパンツにスニーカーであったり、臙脂の小袖と袴であったりする。深い夜は、己のはっきりとした居場所をすっかり隠してしまっている。……確かなことは、今自分が酔っ払っているということだけである。

三日月ロック、その3(110822)