カシャン。伊達の眼鏡が鳴る。カシャン。最初にその音を聞いたのは、放課後の薄暗い廊下でであった。衣替えをしたばかりの時期で、最近はずっと曇天が続いている。課題の出ている数学の参考書を机の中に置き忘れたことに気づき、部活の休憩時間にしんと静まった廊下を走った。ユーモレスクが流れ始めている。……カシャン。
 立ち止まった真田の足元に、黒いセルフレームの眼鏡が転がってくる。その先で白いポロシャツの背中とセーラー服が向かい合っていた。まだ日焼けをしていない半袖から伸びた腕は正確に伊達の頬を打っていた。眼鏡の他にも彼の持っていただろう写真の束が廊下中に散らばっている。モノクロームで描かれた靄、セピア色のグラデーション、原色の緑と青。赤。
 真田の姿に気づいた女子生徒ははっと顔をこわばらせたが、次にはまなじりをきつくさせて伊達を睨みつけた。そうして廊下を向こうに走ってゆく。眼鏡を拾いあげながら、真田はそっと伊達の背中を見やった。彼は呆然とその廊下を行くセーラー服を眺めていたようだが、じきに膝を折って廊下に散らばった写真を拾い始めた。真田もまた同じように写真を束ね始める。眼鏡と一緒に差し出した。……Thanks. 伊達は小さくそう呟いて、眼鏡をかける。そうして、初めて真田の顔をその目に映した。彼は少しぎょっとした様子で、サナダユキムラ、と言いにくそうに真田の名前を口にした。彼の持っている写真の束の一番上に、部活のときのかっこうで走る真田の姿が写されている。真田もまたぎょっとしてそれをまじまじと見つめてしまう。……あ、いや、その。ユーモレスクの途切れた廊下に伊達のそう呟く声がいやに大きく響いて、真田はそっと息を飲む。……アンタ、目立つんだよ。ぼそぼそと呟かれるその言葉に、真田のほうが照れた。
 高校に写真部はない。伊達は化学教師に許可をもらって、準備室の一角を暗室にして使っている。特別教室棟の一階にある化学室はすっかり濃い緑陰に覆われている。真田は部活の合間に、開け放たれた化学室の窓から教室の中に入る。ひたひたとリノリュウムの床を歩き、準備室に入る。暗室からは伊達のいる気配がする。真田は準備室のテーブルにもたれかかって、そこに数枚並べられている写真を眺める。汗が一筋、こめかみから頬へと流れてゆく。片手にさげたスポーツドリンクを一口含む。真田の気配を察したか暗室のカーテンをかきわけて伊達が顔を出す。もう少し待ってろと言って、また伊達は暗室の中に消える。
 伊達の撮る写真は、被写体を問わない。風景を撮ったのもあれば人物を撮ったものもある。一時期からは生け花の写真が増えた。親戚が手習いを始めて、成果を残しておくために写真に撮るようにし始めたらしい。街角のスナップ、塀の上で毛玉になっている猫、里芋の葉に浮かんだ雨露、ゲリラ豪雨の後に空にかかる虹、その合間に、息を飲むようなタイミングで真田の走る姿を撮った写真が挟まる。
 机の上に散らばったのをパラパラと眺めながら、もう一口スポーツドリンクを含む。もう少しと言いながら、伊達はなかなか出てこない。こういうことはよくあることで、真田は別段気にはしていない。休憩時間を過ぎたなと思ったら一言声をかけて化学室から出る。窓枠に腰掛けて手に持ったシューズを履く。そうして、そこから飛び降りるときの一瞬の浮遊感。膝のクッションで地面を柔らかく踏む。夏休みはもうじきである。中庭に植わった落葉樹は真田にまばらに影を落とす。蝉がわんわんと鳴いている。陽が落ちるのはまだだいぶ後である。
 ……写真を志したのはなぜかという問いに、伊達は曖昧に笑った。信じてもらえねーかもしんないけど。そう言い置いて、目をくうにさまよわせる。照明に眼鏡がきらりと光る。化学準備室は少し埃臭く、真田はすんと鼻をすすった。ときどき、なんかおかしいものが見えるんだよな。
 それは、例えば通学途中の橋の上、授業中にふと目をやった窓の外、列車の座席の上、横断歩道の向こう、夕食に入った店の、奥の壁。
 折れた棒のようなもの、地面に突き刺さった刀、踏みにじられてボロボロになった旗、もくもくと上がる煙。それは裸眼の、特に右目に映ることが多いのだという。眼鏡をかければ少しは見えにくくなる。それでもふとした瞬間にそれはやってきて伊達の息を止めた。
 なんか悪いもんだったらやだなと思ってさ、知り合いに霊感強いやつがいたから写真に撮って見せようと思って、そんで撮ってみたけど映ってねーの、何回撮っても。
 まあ別にもう慣れたし、害のあるもんじゃないしなあって。そう言いながら伊達はペットボトルを傾ける。喉仏がびくりと動く。それに、もうだいぶ見えなくなったし、そうしてるうちにむしろ写真の方に興味が移ったっつーか……。
 ずっと黙っている真田をいぶかしんでか、伊達が小首を傾げてどうした真田?と呼びかける。真田はぐっと顎を引いて、某の後ろにもなにかいるのだろうかと伊達に問いかけた。幽霊の類には慣れていない。伊達は眼鏡の奥の目を真ん丸に見開いて真田を見つめたあと、ぶはっと吹きだして笑い始めた。え、アンタそういうの気になっちゃう方? そうではござらんと真田は眉間に皺を寄せる。伊達はにやにやと笑いながら眼鏡をずらした。前髪の奥から眇めた目が真田を見つめてくる。くちびるを真一文字に結んで伊達がなにか言うのを待っていると、別になんもねえから安心しな、そう伊達は笑った。
 それ以来、伊達がぼんやりとくうを見つめているときはそういうときだと、真田は思うようにしている。グラウンドを延々と走りながら、真田はリズムよく息を吐き出す。変わり映えのしない景色がぐるぐると回る。ふとそこに、血煙りの上がる様子を思い浮かべる。すん、と鼻を鳴らした。ぞっとしない光景だ。それが不意に視界に入るとは、どれほどの恐怖だろうかと真田は考える。
 ……部活を終えて、汗のにじむからだにポロシャツをかぶせる。首にかけたタオルで顔を拭く。そうして簡単に身支度をすませて特別教室棟へと走る。その日も休憩のときに伊達をおとなっていた。暗室を使わない日も、伊達はそこで写真の整理をしている。いない日は窓にカーテンが閉められた。……スポーツドリンクのボトルを、そのときに置き忘れてしまった気がしていた。
 カーテンはまだ閉められていない。窓を開き、枠に足をかける。靴を脱いで化学室に入り込んだ。少し開いた準備室のドアの向こうにわずかにひとの気配がする。……カシャン。
 ドアを開くと、ひらりと足元に写真が落ちてくる。真田の走っている写真である。拾いあげる。紺色のジャージを着た真田の姿。一瞬そこになにか赤いものがひらめく。何度か目を瞬かせて顔を上げた。……伊達殿?どうなされた。その先で伊達は写真の散らばったテーブルを前に眉間を摘んでうつむいている。テーブルに突っ張った手には筋が浮いた。机の下に、眼鏡が落ちている。伊達殿? もう一度そう呼び掛けると、ハッとした顔で伊達が真田を振り仰いだ。真ん丸に見開かれた目はすっと焦点を失う。……サナダユキムラ?
 そうして、真田もまたぎょっとしてしまう。顔を上げた伊達になにかがぼんやりと重なって見える。それは照明の灯りを受けてきらりと光る。熱く真田の網膜を焼く。そういえば西の空には黄色く上限の月が浮かんでいたと、そううっすらと真田は考えている。

カシャン、(111219)