七月**日。駅近くにいい具合の喫茶店を見つける。コーヒーもうまい。週末、早朝の散歩の折りにはここで休憩しようと思う。






九月**日。+++にて休憩中、窓越しにDが歩いているのを見かける。見間違いかもしれぬ。Tシャツとカーゴパンツ、スポーツバック。短めの髪型。前髪に隠れていたので眼帯をしていたかどうかは判らず。明日も注意して見てみることにする。
九月**日。同じ時間に店でブレンドを注文。窓際の、通りがよく見える席に座る。文庫本を持ってきたが外ばかり見ていたために一行も読めず。Dは通らなかった。また来週。
九月**日。D通る。先週と同じぐらいの時間。動きやすい格好にスポーツバック。ジムにでも行くのやもしれぬ。やはり前髪に隠れていたので眼帯は確認できず。ちらりと見えた顔はたしかにDと思う。
十月**日。法事のため先週は+++に行けず。今日も出かけに老眼鏡を見失ってしまい、いつもの時間に間に合わなかった。D通らず。もう行ってしまった後か。
十月**日。打ち合わせの為中央線に乗る。昼過ぎの時間。ホームにスーツを着たDを見かける。営業回りか、部下らしき人物と談笑。眼帯はしておらず、銀のフレームの眼鏡をしている。顔の向きのため、右目の様子は判らず。三十代半ばか。やはり同じ歳のぐらいに生まれてくるというのは難しいものらしい。Dがこちらに気づいた様子はなし。
十月**日。走って道を行くD。原稿のチェックをしていたため、気づくのが遅れた。
十月**日。締め切り前で+++には行けず。
十月**日。Dが店に入ってきた。今までになかったことなのでひたすらに下を向いて本を読んでいた。おかげで一冊読み終わってしまう。Dははす向かいのボックス席に座っていた。待ち合わせをしている形跡はなし。気づいたらいなくなっていた。今までで一番の滞在時間。
十月**日。また同じことがある気がして土曜日に店に行くのは避け、日曜日に店を訪れたが、今日はDが先に店に来ていた。思わずいつも座る席を変え、奥の二人席に座る。ここではDの視界には入らないだろう。店長に今日はあの席ではないんですかと訊かれ、肝を冷やす。ブレンドの味は全く判らなかった。
十一月**日。しばらく店には行けないでいたらすっかり寒い。コートの上にマフラーを巻いた。店に着くと、すぐ後ろからDが入ってくる。同じ席に座ってきた。あまりのことになにも言葉は出ず。注文を訊きに来た店長がびっくりしていた。Dがブレンドを二つ注文。鞄から取り出された単行本には書店のカバーがかけられていたが、見覚えがあった。厚み、紙の色、少しのぞく表紙の色味、しおりひもの色。間違いなく先週上梓された本である。偶然か。顔は出していないのでばれていることはないだろう。Dは本を三分の一ほど読み進めて席を立った。伝票を持っていこうとするのを止め、ブレンドの料金を手渡す。会話は受け答え程度。声は、あのころと変わりないように思う。
十一月**日。Dは十分遅れて店に現れる。同じボックス席に座ってくる。ブレンドを注文。仕事のためミニブックを持ってきたがやはりあまり進まず。途中で閉じて本を読む。Dの読んでいる本は先週と変わらず。面映ゆい。もう少しで読み終わる具合か。会話はやはりなし。今日は所用のため先に席を立つ。
十二月**日。雪が降った。歩道に薄く白がのっている。Dは現れず。店を出るころには雪はすっかりとけていた。 十二月**日。中央線に乗る。打ち合わせの帰り。座席に座っていると、前にスーツ姿のDが立っている。Dも気づいた様子で、目を丸くしていた。気まずいが、会話はなし。Dが先に列車を降りた。
十二月**日。年の暮れで店に行けず。先月出版された本の評判は上々。いい具合に年を越せる。
一月**日。久しぶりに店を訪れる。店長に年始の挨拶。Dとは会釈のみ。Dの読んでいる本が変わっている。
一月**日。マイナな文芸雑誌に顔出しでの対談が載った。掲載誌を書店で見かけるも、面映ゆくて手が出せぬ。見本誌も受け取ったときにしまった鞄の底に眠ったままである。Dのことを後で思い出したが、こんな雑誌は読まぬだろう。……そう思っていたが、店に入ってきたDが掲載誌をテーブルの上に叩きつけてくる。表紙の名前を指先がなぞる。文筆名は本名とは違う。そして本名はあのころの名前とも違う。Dは、これはアンタかと訊いてくる。無言でうなずき、黙っているつもりは、と返した。「判ってる、別にどうってことじゃない、ただ……」Dは眉間を険しくしている。そうして顔を両手で覆った。「この間の新刊、面白かった」それはどうも。Dは大きくため息をついてくる。「新刊だけじゃないんだ、著作は全部持ってる」
文筆業を生業にして、今でこそそれなりに評判も上がってきたが最初の頃は泣かず飛ばずの日々であった。初めて上梓した本はとっくの昔に絶版になっている。大手チェーンの古本屋で、百円の棚に並んでいるかもあやしい。
「『血煙』の二四九ページのセリフ、あれはわざとか?」
 くちびるが震えた。Dはまっすぐに視線を向けてくる。それが額に痛い。顔を上げられぬ。しばらく黙っていると、Dがまたため息をつく音がした。向かいの席に音をたてて座ってくる。様子をうかがっていた店長が注文を訊いてくるのにブレンドと答えた。……じきに、湯気のたったのが運ばれてくる。
 パラパラと雑誌のめくる音が聞こえてくる。コーヒーをすする音、窓ガラスの向こうで車が路を走る。着ぶくれをしたこどもらがキャッキャと声を上げて歩道を通ってゆく。冷めたコーヒーをすすった。「……もうほとんど覚えちゃいないんだ」文庫本に落としていた視線をDに寄越すと、Dは眼鏡のブリッジを押し上げている。「だけど、アンタがあの時言ったことはっきり覚えてる。覚えてるから、あの本を読んだとき……」
 思わず政宗殿と呼びかけた。Dはくちびるを少し緩めて首を振っている。「もうその名前じゃない。……アンタは?」同じように首を振ると、そうかとDは答えた。そうして、老眼鏡なんかかけやがってと笑った。




八月**日。ジムへ行く途中の喫茶店であの男を見つける。随分と歳をとっている様子だが、目元の様子は変わりない。間違いないように思う。目が合いそうになったので素早く立ち去った。また来週、様子を見る。

血煙(111219)