庭に紫陽花が植わっている。伊達は板間にかいた胡座を組み直した。初夏の少し湿った風が額をくすぐる。朝方までぱらぱらと雨が降っていた様子だ。馬を走らせた道はじんわりと湿っていた。青い色の紫陽花は花弁に露を滴らせて優美だと思う。ふと、あのおとこが紫陽花は好かぬと言っていたのを思い出した。なぜかを問い返した覚えはあるものの、その肝心の返答を覚えていない。ものの影になにかを仮託して感情を持つという芸当があのおとこにもできるのかと変なところで感心した覚えはある。……物音がした。伊達は藁座にかいていた胡座を組み直し、板間に親指をついて叩頭した。
 じきにばたばたと廊下を踏みならして真田が部屋にはいってくる。すまぬ、お待たせした、と短く言い切り、上座にどっかりと胡座をかいた。それをつむじのあたりで感じながら、すん、と伊達は小さく鼻をすする。随分と堂に入った様子である。伊達が慇懃に口上を述べた後、真田が面を上げよと言うのに従って背筋を正した。ぎょっとして真田は顎を引いた様子である。目を何度もしばたかせて、真一文字に結んだくちびるからはため息も出てこない。伊達はぎゅっとくちびるを丸めて、小首を傾げて見せた。
 先の関ヶ原の一件の後、奥州に戻る前に信濃にて寄宿をした。すでに隠居している信玄公の頭のてかり具合を確かめてやろうというのが半分、目新しい赤い陣羽織を脱いだ真田が信濃にてどう立ち振る舞うかを見てほくそ笑んでやろうというのが半分である。しかしながら前者はかなったが、後者はほとんどかなわなかった。真田は帰陣するやいなやすぐに既に武田領となった越後やほうぼうにたってしまい、伊達の相手をしたのはもっぱら信玄公であった。あまつさえ、今は表向き人質というていで甲斐に隠居しているという謙信公まで呼び出す始末である。隠し湯に連れて行かれ、そこで毎夜の酒宴が開かれた。湯は目に効くと太鼓判を押されたものの、湯の具合などもう到底思い出せぬ。真田よりは強いが、笊を通り越して枠の二人を相手にしては身が持たなかった。宴が四日続いたところで真田に置き文をして早々に奥州に立ち戻った。
 陸奥守の使いで、その際の歓待の礼をしに参った所存、と伝えた。常は下げ髪にしているのをまとめ上げ、黒布の眼帯につけ変えた。着慣れない色の地味な着物を身につけ、青毛でなく栗毛の馬を走らせた。荷を持たせた侍従にはけして気取られぬようとよく言い含めてあるが、どうもうまくいったらしい。伊達は、不意打ちを食らった真田の顔を眺めやりながらどうしたと静かに言い放った。
 それで呪縛が解けたらしい。真田は張っていた肩をおろし、大きくため息をついた。てのひらで額をおおい、ぶつぶつと何事か呟いている。そうして、藁座からぱっと立ち上がった。人の悪いことを、と呟くのがかすかに聞こえた。
 上座に、と勧められるのに首を振る。困ったように眉を下げるのに笑って、伊達は立ち上がって濡れ縁に爪先を向けた。開け放した障子からやわい陽が差す。柱に背をもたれさせて座り込んだ。懐から取り出した扇子で紫陽花を指ししめす。いい色だと伊達が言って寄越すと、傍らに膝を突いた真田ははあと息をもらした。……酒を持って参りまする。それはあとだ、いいから座れよ。そういうのに、真田は頑固として座ろうとせぬ。眉をひそめて睨みやると、少々お待ちくだされと言い残して部屋を出ていってしまう。伊達はその背中を見送って、少しだけ肩をすくめた。
 じきにおんなを従えて真田が戻ってくる。しかしその手にあるのは酒器でなく湯気の立つ茶碗である。黄緑色の煎茶の入ったそれと、白い器に菓子が添えられている。餡の入った葛饅頭の表面に赤や青、黄の小花が散っている。伊達はまじまじとそれを見つめ、その目で真田を振り仰いだ。視線の先で男はぐっと茶を飲み干すと、葛饅頭に竹串を入れている。切り口から小花がこぼれおちた。……酒じゃねえのか。酒は後と、ご自身で申されましたな。伊達を見向きもせずに言って寄越す。伊達はひょいと肩をすくめて茶で喉を潤した。
 餡は砂糖を控えめに、だが練り切りでできた小花を歯で噛むと口いっぱいに甘みが広がる。ふうん、と鼻を鳴らして伊達はその菓子を平らげた。真田はすでに竹串を器において伊達が食べ終わるのを待っている。茶碗が空になったのを見計らって、すでに呼んでいたのだろうおんながおかわりを注いだ。少しぬるめのそれで舌に残った砂糖を流しながら、ちらりと真田をうかがう。膝に拳を置いて、くちびるを真一文字に結んだ様子は驚くほど大人びたようにも思う。以前はそんな仕草をしてもこどもの背伸びのようにしか見えなかった。
 Hey, と言いさして、伊達もまたくちびるを結んだ。だがすぐに思い直して小首を傾げてみせる。結い上げた髪を解き、窮屈だったのをかきまわした。……騙したのは悪かった、なあ。言って、後ろ手に手を突く。やわい陽がかのおとこの横顔を照らし出して、その輪郭からひかりがこぼれる。伊達はわずか左目を細める。険しく寄った眉間の皺を親指で押しつぶしてやろうか。そう思いながら腕を伸ばそうとするが、すんでで真田のそれに捕まった。するりとはなされるそれをまた後ろにやりながら、伊達は目をしばたかせる。……一度は伝えた言葉を再度くれてやるほど親切にはできていない。そもそも伊達自身が真田を訪れたことですでに意図は知れているだろう。
 ……どうしたんだ、これ。目で菓子のよそわれていた器を示した。……懇意の店が。ふうん。はなやかでいいじゃねえか、祝い事でもあったのかと思ったぜ。祝い事……とぼんやりと真田が呟くのに合わせて、伊達はくちびるを歪めた。晴れて武田の頭領だ、奥を持ったっていい頃合いだろうよ。
 眉間の皺がさらに険しくなるのに笑ってしまう。大きく口を開けて声をあげた。のけぞらせていた背中を元に戻すが、真田の声は硬いままである。未だ若輩者の身にて、と低い声でこぼすのを投げ出した足でつついた。若輩者とは謙虚でいいが、御輿に名乗りを上げたのならあるべき態度というものがあるだろうよ。そう、せいいっぱいの譲歩でもって囁いてやると、すっと真田の背筋が伸びた。……まことに、耳が痛うござります。そうして初めて伊達に視線を寄越す。伊達は鼻を鳴らして、おとこの眉の間を見やった。ここで頭を下げなかったのは、評価してやってもいいと伊達は思った。
 真田が懐からなに包みを取り出して伊達に押しやる。青のちりめんに包まれている。なんだこれと扇子を示すと、昨日できあがってきたもので、文を書こうとしたら政宗殿がこちらに。ふんと鼻から息を押しだして、伊達の膝先に押しやられたそれを手にとった。存外に軽い。胡坐をかきなおす。ちりめんを解けば刀鍔である。藤の花が彫られている。……ひとつだけか。それに目を落としながら問うと、少しの沈黙の後に低く左様、と返答があった。顔を上げるがやはり真田は目を合わせない。なんどか瞬きを繰り返して、また目を落とした。紐がねえじゃねえか。は。紐。ああ……、言って、真田は腰を持ち上げた。それを見送り、庭の紫陽花に目を凝らす。鮮やかな青である。眉間をつまみ、一つため息をついて右目を覆う布の眼帯を解いた。
 じきに真田が戻ってくる。黒の中央に灰茶の走った紐が差し出される。伊達はそれを受け取って刀鍔に通す。そうして真田に突き返した。つけろ。言って、真田に背を向ける。躊躇があった。陽射しは軽く畳みの目を光らせているというのに、このおとこの今日の鈍重さはどうだろう。そう思いながら伊達は目をつぶる。伊達と真田の体温で温もったそれが右目に押し当てられる。右耳の上、左耳の下を通し、後頭部で軽く結わえられる。もう少しきつくしても? ああ、具合が悪かったら言うから。ぐっと首がのけぞった。真田の丸い指が後ろから伸びてきて、紐の下から前髪をすくいあげる。ふとその感触に背筋がそそけだった。……真田は伊達の後ろから動こうとせぬ。
 どういう風の吹きまわしだ? ぱちりと扇子を弾いた。ああ……、と景色を見ているかのような上の空な様子で返される。こういうことには縁がないと思っておりましたので。ふうん、と伊達は鼻を鳴らす。そういえば信玄公と物品のやり取りはあるものの、このおとこ自身とそういうことはなかったなと思い返した。そういうことをする仲でもなかった。……ただ。ただ? 先だっての妻女山の折りには、成る程、かくありたいとそう思い申した。うん?
 真田の悪い癖である。言葉が足らぬ。伊達が黙ってしまったので、真田もまたそれと気づいたのだろう。はあだのふうだの息を吐く音がしたかと思えば、うなじを撫でられた。思わず背が伸びる。ギョッとして後ろを振り向くと、真田はやはり眉間に皺を寄せて膝の上で拳を握りしめている。臣からそこにあることを望まれること、国主としては、それこそが……。尻すぼみになっていったかと思うと、とうとうくちびるは結ばれてしまう。……アンタは俺の臣じゃねえ。ふとそれが面白くなって、伊達はくちびるを歪めた。判っておりまする、意地の悪いことを申されるな、……もう致しませぬ。
 ハハッと伊達は笑って、扇子で真田の皺の寄った眉間をついた。俺だって最初からそうだったわけじゃねえ、毒を盛られたことだってあるぞ。もう遠い昔のようであると伊達は思う。事実昔のはなしだ。もうそれについて大きな感情の動くことはない。思い出のひとつとしてただそこにある。
 真田の顔はしかめられたままであったが、伊達はいっそあたたかい気持ちになってそれを見つめた。この男とてそうであろう。信玄公とて、そうであると聞く。眦をきつくし目を赤く燃えさせ、踏みならした土地を焦土にし、いくさばにしか生を見いだせぬけものであったおとこがよくも、と伊達は思う。
 よくも、国主としてはなどという言葉を吐くようになったものだ。
 ほうとため息をついた。紫陽花の色が染みるような、そういう気持であった。頬杖をついた指が眼帯に触れる。藤の花が彫られていたと思う。……判りやす過ぎる意匠だが、それをこのおとこが学ぶにはまだまだ時間が必要であろう。水玉に銭の意匠がまぎれていても判りにくかろうが、それをするほど気は回らなかったらしい。朱筆を持つという酔狂は脱したか、それともそれを羞恥と感じたか。
 それを訊きだす程無粋でもない。あとの楽しみにすればよい。そう考えて、真田との間柄において「あと」という言葉を使うようになった自分に気づいてハッとした。顔をそむけ、庭を振り仰ぐ。少しずつ陽が陰りはじめている。さあっと風が吹きこんで、眼帯の上に落ちている前髪をさらってゆく。視線を感じて首を巡らせた。すると途端に真田の目は伏せられてしまう。先程からいたちごっこである。伊達は手の中の扇子をパチリと鳴らせた。すると途端に部屋に入り込む光の量が少なくなる。雲に陰って庭の色も褪せた。
 ……もう致しませぬとは申せど、と低く真田が呟いた。嬉しいものにございますな。声は低いが、その裏の喜色は明らかであった。伊達はぐっと顎を引いて、真田の顔を覗き込む。伏せたまぶたが緩やかに膨らんで影を作っている。伊達はそっと、右目の刀鍔に指をやる。そっと息を押しだして、甘やかしすぎたかと扇子を弾いた。

花火(120109)