車窓に幾筋も銀色の糸が走る。低いエンジンの音の合間に車輪が水を跳ね上げる音が混じる。田舎道を走るのはこのバス一台で、そのバスにも真田一人しか座っておらぬ。随分とあたたかくなった。雨滴はぬるく額を叩く。風も強いが、首もとに入り込んでくる空気はそれほど凶器ではない。塗れた靴の中で体温に温められた足先がじんじんと血を巡らせている。
またあの家に向かっているのだろうと真田は思う。車窓の風景には見覚えがある。畑が延々と続く中に時折民家の赤い瓦屋根がのぞく。信号機は御する対象をバス一台以外に見失っている。遠く山並みは緑を萌えさせ始めている。そのなにもかもが雨滴にけぶって境界線を曖昧にした。
真田は膝の上に置いた鞄の中身をのぞく。企画書の入った封筒と、古い単行本が入っている。天にいくつもの付箋の貼られたそれは見慣れたものである。やはりあの家に向かうのだと思う。封筒を取り出し、企画書をぱらぱらとめくった。白地にタイプされた文字が泳ぐ。
藤倉次郎という歴史作家がいる。デビュー作は戦国もので、それがある歴史小説大賞の準入選に選ばれた。それ以後、コンスタントに年に何冊か上梓し続けている。題材は日本中世か中国史に限られた。そして、それ以上のプロフィールを発表していない。カバーの折り返しには素っ気なく著作のタイトルが並ぶのみで、著者近影の写真も見られない。エッセイや雑文のたぐいを雑誌に連載したことも、対談がくまれたこともなかった。ブログやSNSも登録しておらず、今時珍しく作品でしか語らない作家である。……鞄の封筒の中の企画書には、文芸誌でのエッセイ連載が企画されていた。新進の若手作家数人を対象に、一年かけて順繰りにエッセイを連載するというものである。題材は前号枠を担当した作家が指定するリレー方式が提案された。
いつの間にか真田の座っている最後列の一つ前の席に乗客が一人いる。いつの間に乗り込んできたのだろうと思う。バスは相変わらず雨の中を走っている。対向車もいない田舎道である。時計を忘れてしまって時刻が判らない。あの家に着くのはいつだろうと真田は思う。車窓の景色には見覚えがあるのに、不思議とその連続性について考えが及ばない。己の現時点での着地点は曖昧で不連続である。
企画書を封筒に丁寧にしまいこみ、次いで単行本に手をやった。表紙は擦り切れてざらざらとてのひらに感触を伝えてくる。藤倉次郎デビュー作の初版本である。学生時代に購入して以来、真田はずっと藤倉の著作を読み続けている。表紙を開く。しおりひもは色褪せて挟み込まれている。冒頭の何行かはもう暗記している。……槍からしたたる血がすっかり乾いてしまった頃であった。どこを歩いているのかももう判らぬ。戦場の喧噪と怒号はもう遠く、真田の歩いている道は馬の蹄跡も足軽どもの足跡もなく平らかである。……。
……真田は目をしばたかせた。この本の主人公は佐和田という小さな城持ち大名の次男坊でけして真田と同じ名前ではない。真田はヒュッと息を吸い込み、乱暴にページをめくった。茶色く変色し始めた紙面のどこに目を滑らせても佐和田という文字は見つからず、すべて真田と塗り替えられている。唾を飲む。眼球が乾いているのが判る。瞬きができぬ。バスのエンジンの音はもう遠くなってしまっている。その代わり、ずっと雨の音が鼓膜を叩き続けている。乾いていたはずの槍に着いた血がぽたりと地に落ちた。それと同時に真田の額に雨が一粒落ちる。それをきっかけに、返り血と泥で汚れた顔に大粒の雨が降りかかってくる。天を振り仰いだ。喧噪怒号、硝煙の煙、戦場に伏しているおとこどものたましいを吸い込んだ天は黒く濁っている。薄墨をぐりぐりと押しつけたような雲がそこを覆っている。濁った視界に雨が一粒落ちてきて、砂に乾いた眼球を覆った。槍を握った手の甲で目尻から落ちかかる水滴を拭った。手の甲ですら血と泥で汚れている。饐えたにおいが鼻いっぱいに広がって少し噎せた。まだそういうものを知覚できるこころの余裕があるのだなと真田は思った。戦場を駆けているとき、真田の感覚はこの手に握る槍の感触と目の先に蠢いている叩き潰すべき命の灯しか知覚せぬ。そうして少し明瞭になった視界がかっと明るくなる。数秒を置いて、鼓膜を雷鳴がつんざいた。よほど近くに落ちたのであろう雷はしばらく真田の脳髄を震わせていた。
バスは交差点で停止している。いつの間にかバスに乗り込んできた老婆二人が、今の雷えらい近かったねえ、と囁きを交わしている。雨は降り続いている。アイドリングストップをしている車内はひどく静かである。真田は膝の上に置いた単行本のページを撫でる。唾を飲む。佐和田、と書かれた文字を目に納めてそっと眉間を揉んだ。やがてエンジンがかかる。バスが交差点を通過してゆく。山並みや畑や赤い瓦屋根は連続して途切れることはない。
大丈夫か、という声がした。顔を上げると前の席に座っている男が真田を降り返っている。具合悪そうだけど。真田と同じぐらいか、少し上といったところの若い男である。先日会ったときには伸ばしっぱなしで肩の先で跳ねていた髪は今はすっかり切り揃えられている。前髪から覗く目は二つ揃って真田を覗きこんだ。その右目はきちんと真田をとらえている。ああ、と真田は喉の奥でうめいた。大事ござらん。そうか、悪いな、同じバスだって知ってたらアンタの携帯持ってきたんだけど。……どのみち帰りのバスを待たねばなりませぬ。そうだな。
男の名前を伊達政宗という。筆名は藤倉次郎である。年齢もなにもかも伏せている藤倉を真田はずっと歳上の人物だと思っていたが、会ってみればそう歳の変わらぬ男であった。デビュー作を上梓したのは学生時代であるという。骨太の文章からはちっとも思い浮かばなかった。……藤倉は北関東の田舎町にひとりで暮らしている。その一軒家から最寄りの駅からはバスで一時間ほどかかり、そのバスも早い時間になくなってしまう。一昨日企画書を携えて藤倉の家を訪ねた真田は門前払いを食らった挙句帰りのバスに乗りそこねた。結局その日は藤倉の家の軒先に宿を借り、早朝に東京に戻ったのもつかの間、今度は携帯を藤倉の家に置き忘れたという体たらくである。……わざわざ来なくても、宅急便かなにかで送ってやるのに。そちらはどちらでもようござる。何度来たって無駄だぜ、書く気はねえし。何故。言いたくないって一昨日も言ったな。
再び前を向いてしまった藤倉はつれない。いつ間にか老婆二人はいなくなっている。雨はやまない。車輪は雨の浮いたアスファルトを走る。真田は膝の上に広げていた本を閉じ、鞄の中にしまいこむ。表紙のタイトルをそっと撫でた。……覚えてはおらぬか。そうしてそうぼそりと呟いた。その瞬間、カッとあたりが明るくなる。影がまなこに焼きついた。数秒を置いて、雷鳴が腹に響く。アンタこそ、いつまでそうしてるつもりだ。
ハッと顔を上げた。前の席に座る藤倉の髪が、バスが動くのに合わせて揺れる。鼻をすすると、鼻孔に血と泥のにおいがいっぱいに広がる。膝の上に企画書と藤倉の本をしまった鞄は見当たらず、膝に押し当てられた両の拳には二条の槍が握られている。草摺りは黒く泥に汚れた。剥き出しの腹とて同じ様子である。肌の色を見つける方が難しい。立ち上がると、額に巻いた赤い鉢巻きがゆらりと揺れた。
そなたこそ、このようなものをお書きになられて、どういうおつもりかお聞かせ願いたい。伊達は前を向いたままである。真田はそのつむじを見下ろしている。バスはアスファルトの上を走る。雨はやまぬ。バスの床に槍から滴った血が落ちる。このようなものを書いて知らぬふりをするのはどういう料簡かお聞かせ願いたい! 吠えた声はいっときバスの中の空気を揺らせた。エンジン音は絶えず鳴り響いている。真田は奥歯を噛みしめる。そのつむじを睨みつける。髪が揺れた。伊達は肩を震わせて笑っている。アンタが期待してるようなもんはなにもねえよ。なにを……。アンタみたいのが釣れたのは予想外だったけどな。
また酒を酌み交わせるのだと思っていた。あのころのことを語れるのだと思っていた。あのころ触れられなかったそのめしいた右目に触れられるのだと思っていた。奥歯がガチリと鳴った。槍を握った手が震えた。草履をはいた足で地面を踏みしめ真田はぶるぶると肩を震わせた。吠えようとしたその寸前に前の席に座ったその髪が揺れた。振り返った両の目が呆れたように真田を見つめてくる。……なあ真田、アンタはいつまでそこでそうしてるつもりだ、もうこんな時代だっていうのに。
真田はひとりバスにからだを揺らせている。握りしめた槍の先で血はもうすっかり乾いてしまっている。車窓の外では幾筋も煙が上がっている。積み重ねられた足軽どもの死骸、足を潰された馬の嘶く声、引き裂かれた陣幕、歯のこぼれた槍は地面に突きたって哀れである。もうずっとこうしてバスに乗っている。……またそなたに置いて行かれるのか。思わずうめいた言葉に返される声はなかった。あのときも、なかった。
still in rainy bus(120410)