遠く、蒼雷があった。右手の山のふもとのあたりである。本陣にて床几に腰掛けていた真田はそれを見てぐっとからだを丸めた。そばに控えていた猿飛がおどけてお呼びだよと囁いてくる。真田は右手の山を睨みつける。そのあたりだけ黒雲が空を覆っている。開戦したばかりの戦場はいまだ地に近いところで土埃が舞うばかりである。怒号は風に乗ってわんわんと鼓膜を震わせた。真田は傍らに突きたてた二条の槍を見やる。驚くほど心が凪いでいる。いつもはびりびりと鳴くように震えをほとばしらせている二条のそれもまた、平常の通りであった。
じりじりと空を薄い雲が覆い始めている。床几から伸びた影が薄くなってゆく。薄くさしていた陽は既に雲の向こうである。そこにまた、目の覚めるような蒼い雷光が右手から真田を照らした。その瞬間、濃くできた影が地面に焼きつくようだ。轟音はあとから襲ってきた。とどろいたそれに戦場のなにもかもが動きを止め、またそろそろと動き始める。黒雲の中にはいまだに雷がとぐろを巻いていることだろうと真田は思う。……行かないのかい。猿飛がまたそう呟いた。真田は眉をひそめる。ぐっとくちびるを突きだす。戦場とは反対に槍は凪いでいる。真田の腹もまた然りである。
しかしその蒼雷が真田を挑発していることには違いなく、それからも何度か濃い影を作った。顎をさする。床几から立ち上がった。地に立てた槍を抜く。猿飛に影を頼み、裏手から右手の山に単騎で馬を駆った。許しは得てあった。伊達の蒼い旗が近くまで来ていることは報せにて受けている。鞭をくれる馬の鼻先に、ちりちりと空気が鳴る。さてはやはり勘違いであったかと思う。心の臓が動きを速めていくのと同じくして、腹の底で蠢いていたそれもまた動き始める。血流が温度を高くする。槍がビリビリと鳴る。目の先が赤い。瞼を閉じてもなお赤い。はっはっと息を継ぐ、口の中が乾いてゆく。もう右手の山を覆っていた黒雲はすぐそこである。馬を止めて背筋を正した。その次の瞬間、狙ったように蒼い柱が真田のゆくてを襲った。今ひとたび手綱を引くのが遅かったならば、まともにその雷を浴びていたであろうと思われた。
あまり手入れのされていない道の脇で、下草や木の根が黒く焼け焦げている。真田はその様子を見やり、唾を飲み込んだ。彼がそういうふうに雷を使うのを見るのは、初めてであった。雷球を使うこともあるが、それは常に六本の爪と共にあった。それはいつも真田の横腹をえぐるように放たれこそすれ、こうして頭蓋を押しつぶすようなやり方はしてこない。目を眇める。鞭をやる。躍動する馬の肉の様子が足から伝わる。短く息を吐きながら、黒雲の下を目指した。もう少しである。道を覆うように枝を伸ばしていた木々が途切れる。ぱっと目の前が開けた。目の先に火花が散る。馬を乗り捨て、槍を握った。穂先に炎が灯る。蒼い旗のはためく奥に、本陣の幕が見える。そこにいる男を思い浮かべる。弦月の前立て、六本の爪、過剰に飾った戦装束は真田にとっては奇異なものだがよく似合っていると思う。もう少しである。旗がざわめく。早く出て来いと真田は思う。黒雲がゴロゴロと鳴った。大気はゆっくりと動き始めている。真田は前方に広がる青い旗を睨みつける。向こうにも真田の単騎の様子は知れているだろうに、彼らは足踏みをするばかりで一向に動く気配はない。奥歯を噛んだ。炎弾を放つ。蒼い柱が再び落ちてきてそれを弾きとばした。真田は地面を踏みしめ、咆哮を上げる。上げた名乗りは、しかし、筆を押し付けたような雲に空しく吸い込まれてゆくのみである。
なおもその場で歯を噛んでいると、やにわに旗を掲げた足軽の群れが割れた。真田に向かって開かれたそこに、蒼雷をまとった鎧が一つ。真田は肩をそびやかす。血走った目を見開いて、震えた歯がガチリと鳴った。本陣にあるのは伊達雀竹の紋ではなく、金色の葵紋である。蒼雷を光らせている巨体は真田を認めて赤い目を光らせた。真田のように名乗りを上げることのないそのおとこは、耳慣れぬ音を発して巨大な槍をひらめかせた。その風圧さえ凶器である。判っている。不意打ちとはいえ、ここで槍を交えさせることができることを僥倖と思わねばならぬ。本多忠勝殿とお見受けする! 真田がそう吠えると、答えるように真田に向かってその巨体を軋ませた。腰を沈める。小回りの効かぬだろうその巨体をいなすには初撃をいかにしていなすかである。睨みつけた先で火花が散った。本多のそれはどこまでも蒼い。あのおとことなにが違うかと言えば、そこに殺気がこもっているか否かであると真田は思う。目の前に黒々とした巨体が迫る。おうと吠えた。血流は熱い。それでも、僥倖と思わねばならぬと。
そう思いましてござる、と真田は結んだ。ふうん、と伊達は鼻を鳴らせて煙管を吹かしている。秋の涼やかな風が真田の額を撫でてゆく。赤い紅葉が庭をいっぱいに埋めている。真田は首を巡らせて、縁からそれを眺めた。庭土を覆う程であるそれを吐き清めよとは命じないらしい。ここまでくると壮観だろと館の主は言った。……覚えてはおりませぬか。伊達は武田の文を眺めながら肩をすくめている。俺の出てねえ戦のことなんざ覚えてねえよ。道理である。真田は鼻をひくひくとさせて、左様でと返した。
……本陣の幕は徳川のものにござったが、しかして足軽の旗は伊達竹雀のものにて。ああ、じゃあ兵を貸したときかな。草からも伊達殿のおすがたを認めたと知らせが。伊達はそれには応えない。文を掲げてその墨の様子を眺めている。白い料紙に阻まれてその顔は見えぬ。真田はもう一度首を巡らせて庭を眺める。しかし見事にござりますな。そうかい、という伊達の声がした。目の覚めるような紅葉の落ち葉に混じって、ところどころ銀杏の黄色が混ざる。どこかに木があるのだろうと思う。真田はそれを知らぬ。風がどこからか運んできたのか。どこにあるのか判らぬ銀杏の木はわずかに真田のこころをささくれさせる。銀杏の葉は確かに紅葉の波の間に埋もれて、その黄色を際立たせた。
どこからかご覧になってらしたのでござろう。庭を眺めながらそう問いかけた。伊達は答えない。最初の雷は「そう」であったように思いまする。バサバサと音がする。見れば伊達が文を折りたたんでいるところである。返事を書く、少し待て。そう言い放って、会見の場から立とうとする。板間がバタバタと音をたてる。伊達の書院は奥まったところにあると記憶している。いつも庭から出入りしているので館の内側から辿る術を真田は知らぬ。ぐっと顎を引いて伊達を睨みつけた。立ち上がった膝から腰、腹から首へと顔を上げてゆく。さげ髪にした前髪から覗く左目が真田を見下ろして冷たい。どこからか、ご覧になってらしたのでござろう。もう一度噛んで含めるように言い放った。伊達は真田の声にひとつ息をついて、くちびるを歪める。庭の紅葉が映ったかして赤い。
……いつも相手をしてやれると思うなよ。吐き捨てられた言葉はしんと真田の腹に落ちた。ついで足がふりあげられる。あっと思ってよけようと思ったときにはもう遅かった。顎先を蹴りあげられて頭蓋の中身が揺れる。強烈な吐き気が胃を痙攣させたかと思うと、今度はこめかみのあたりを庭石にぶつけた。本多とやれたんだ、よかったじゃねえか。そう言い捨てて、縁を歩いてゆく音がする。真田はそれを庭に寝転がりながら聞いている。頭はまだぐらぐらと揺れて無様である。風が吹いた。目の前を紅葉の赤いのが覆ってゆく。その中に黄色い銀杏が混ざって、真田はううと唸った。
うしろに正面、銀杏に紅葉(120714)