放置して遊ばせておいた部屋を覗くと板間に寝転がっていていい身分だと思う。後ろに控えさせていた侍女がその様子にぐっと顎を引いた。持たせていた盆を取り、下がるようにと目を奥にやる。侍女はなにも言わずに廊下を音もなく滑ってゆく。踏み入れた部屋の床は足の裏にじわりと熱い。
 そうそう気軽に行き来のできる身分ではなくなったはずだが、それでも男は忘れたころにやってくる。前触れも出さないので予定などそうそう合わぬ。その日も夕暮近い時間まで近くの出城に出向いていた。屋敷からの使いで「真田殿が」と知る始末である。それを知らせるよう使いを寄越す片倉も片倉だと伊達は思う。
 そんな片倉を喜ばすのも癪だが、こちらの予定など構いもなしに伊達屋敷の木戸を叩く男のために馬を早めるもの気分が悪い。しかしことさらゆっくり馬を走らせても陽の落ちる前には屋敷についてしまう。ならばもうどうとでもなれと思う。伊達はあの男に関して、こころの消耗するような思考をすることをもう放棄している。ああいえばこういう。それで結構。
 そう思いながら足元の、緩やかに丸く弧を描く後頭部を見下ろした。生え際にうっすら汗をかいている。爪先で小突くと、ううと唸ってからだを丸める。虫かと思う。追いかけていって強めに蹴りつけると、今度はぐっと眉の寄った顔が伊達を見上げた。……酒持ってきたぜ。それが、その一言で弓の弦のようにたわむ。
 熾火がその一瞬、山の端の向こうから最後の叫び声をあげて消える。それまでそこから見える庭のなにもかもを赤く照らして濃い影を作っていたのが、一気にその輪郭をぼやけさせた。布をかぶせたように息のする音も聞こえなくなる。起き上がった真田は居住まいを正して伊達から杯を受け取った。じきに火もやってくる。それが真田の少し削げた頬をぼんやりと照らしている。
 しばらくあたりさわりのない近況を話し合った。先日手に入れた槍の火力を真田が自慢すれば、雷雲を呼んでやろうかと伊達は嘯く。庭で地虫が鳴いている。じりじりと、じれったい速度で気温は下がってゆく。
 肴にぎんなんを焼いて塩を振ったのが出てくる。こんな時期にでも食べられるものですかと真田は訊いてくる。殻のまま雪に埋めておけばいい。串に刺したのを歯で扱きながら返すと、道理で、と真田は言って寄越した。ふと、去年の秋のことを思い出す。落ちた紅葉の葉で庭を埋めて遊んでいた季節のはなしである。真田は信玄公の文を持ってやってきて、なにやら勝手に機嫌を悪くした挙句、その日の夜は散々酒に溺れてそのまま庭に転げて寝てしまった。そのとき、肴に出したぎんなんを食いつくしてはもっと寄越せとわめいていたことを覚えている。……そういや、好物だったな。
 酒の水面を眺めていた目を真田に向けると、キョトンとした顔で伊達を見返してくる。丸い目が何度か瞬きを繰り返した。……違ったか、確か去年……。ああ、いや、その。歯切れ悪いな。真田は苦虫を噛み潰したような顔でいる。そうして、無理に話を変えた。
 伊達屋敷の地元の茶屋で聞いた御伽草子の話である。後ろに座っていた女子供の話していた話で、どこかで聞いたことがあるなと思ったら真田の地元でも同じような話を聞いたことがあった。形式的には日記のようであるが、それがどうにも不思議な日記であるらしい。
 ……アンタが御伽草子なんて珍しいじゃねえか。焼きぎんなんの皿がやってくる。こんもり盛られたのを真田の前に押しやると、また顔をしかめて伊達をじとりと睨む。笑ってそれを受け流し、続きを促した。
 聞いてみると、真田がそれを妙に気にする理由が判った。伊達もどこかで聞いたことがある。ふしぎな日記物語。記してある出来事が明らかに長期間に渡り、それは連続的でなく思い出した順による。なので、ついこの間のことを記していたかと思うと源平の話になっていたりする。そして、先に読み進むにつれて文字が読めなくなる。
 その草紙に、想い人を殺してしまったことを述懐している一節がある。そうしてその先に、その想い人と再び待見えて嬉しいと記してもいる。茶屋の娘はうっとりとそう語っていたらしい。伊達は団子をほおばりながらそれを聞いている真田を想像して少し笑う。
 それで? 真田の前には食い散らかしたぎんなんの串が並ぶ。結局食べるんじゃねえかと伊達は杯を空にする。アンタ、それ読んだことあるのか? いや、某はその、聞いた話だけで。俺もそうだな、覚えてたら今度取り寄せるか。気になりまするか。……話のタネ程度にな。
 ところで、お前まだぎんなん食べる? そう伊達が話を戻すと、真田はああと額を押さえて観念したようだった。そうして、事の顛末を話し始める。その先にあった小競り合いの折り、伊達竹雀の旗と雷雲に誘われて馬で駆けてみれば現れたのは伊達ではなくて本多であったこと。早とちりが恥ずかしいやら悔しいやらでつい伊達の屋敷を訪れたときに八つ当たりをしてしまったこと。紅葉と銀杏の葉。ああ、それでぎんなんか……。そっぽを向いた真田の額が火にあぶられているのではなく赤い。
 ふとそのときの真田の頬のぼんやりとした赤さを思い出して、書いている。真田もよもやその日記に自分のことが書いてあるとは思わなかったろう。書きながら、真田が茶屋で聞いたという話など書いたかと思って読み返すが、やはり伝聞の間に話がねじまがってしまうことはよくあるのだろう。それか、複写されるうちにいいように解釈されてしまった可能性のほうが大きいか。この時代はそういう方法しかない。
 ああしかし、行間にそういう気持ちを読み取られたとしても仕方のないことなのかもしれぬ。そしてそういうことをここに記すことにもうなんの躊躇もわかない。思えば……

 ……ここまで書いて、恥ずかしさに顔を覆う。あのひとがこんなことを書く訳がない。やはりここの一節は削除しようと思う。もうほとんど私小説に近いこれがあのひとの目に触れるときが来ると思うと卒倒しそうになるが、そのときには俺もそういう「躊躇」もなくなっているのだろうかと思う。ああ、筆と槍とはこう違うものか。……。

(以下解読不能)

血煙に寄せて/サマータイムマシンブルース(130506)